August 182012
ひらきたる花火へ開きゆく花火
岩垣子鹿
ひらきたる、は散りかけていて、開きゆく、は今まさに大輪。開きゆく花火、と読んでいる時には、ひらいた花火ははらはら散っている。縦書きの方がさらに感じが出るだろう。いずれにしても、ひらがなと漢字の視覚的効果の違いによって、花火そのものの有り様がとらえられている。さらにその二つの花火を、へ、がつなぐことで、瞬間の時間差も体感できる仕組みである。奈良県生まれ、戦後まもなく奈良医大俳句会で俳句と出会ったという作者の、最初で最後の句集『やまと』(2006)は〈もののけの遊ぶ吉野の春の月〉の一句で締めくくられている。(今井肖子)
August 172012
質問の多き耳順の新入生
廣川坊太郎
六十にして耳順(したが)う。論語の中の言葉。この新入生は六十歳にして入学してきた。放送大学か通信教育のスクーリングか。入学の季節は春か秋か。そんなことはどっちでもいい。六十歳の新入生が先生に質問を繰返す。質問の多さはこの新入生の熱意をあらわす。わからないことは訊くのだ。肉体年齢の先は見えている。恥もひったくれもない。四十歳を過ぎてカルチャースクールにシナリオの書き方を習いに行ったことがある。課題に四苦八苦している同じような年齢の僕らに師が言った。「不思議だ。君たちはどうしてもっと焦らないのか」。やらなければならないことが山ほどある。どれから手をつけたらいいのかもわからないほどのとてつもない量だ。やってもやっても追いつかない。六十にもなって偉いねという句ではない。この生徒の切実さが身に沁みて哀しい。この句も面白うてやがて悲しきだ。「横浜俳句鍛錬会報・2012年6月」所載。(今井 聖)
August 162012
来て洗ふ応へて墓のほてりかな
星野麥丘人
このごろはロッカー式の墓があったり、墓を作らずに散骨を希望する人も増えているようだが、鬱蒼と茂る樹木に囲まれた墓に参るのもいいものだ。しかし先祖が眠る墓苑では、無縁仏になってしまったのか荒れたお墓も目に付くようになってきた。昔に比べ家族の結びつきが希薄になった現在、墓はいよいよ取り残されてしまうかもしれない。掲句では「来て洗ふ」という表現から心のこもった墓参りの様子が伝わってくる。強い日差しにほてった石のぬくみを手のひらに感じながら丁寧に墓を洗う。墓のほてりが懐かしい人の体温のようだ。たっぷりと水を吸った墓に花を活け、線香をあげてさまざまな出来事の報告をする。水と墓石のほてりの照応に、現世と彼岸との目に見えない交流が感じられる。『星野麥丘人句集』(2003)所収。(三宅やよい)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|