神代植物公園秋のバラフェスタに行ってきた。開園前に百人の行列。(哲




2012N1018句(前日までの二句を含む)

October 18102012

 友の子に友の匂ひや梨しやりり

                           野口る理

の頃は赤ん坊や幼児を連れている若い母親を見かけることがほとんどない。子供の集まる場所へ縁がなくなったこともあるのだろう。乳離れしていない赤ん坊だと乳臭いだろうから、目鼻立ちも整い歩き始めた幼児ぐらいだろうか。ふっとよぎる匂いに身近にいた頃の友の匂いを感じたのだろう。中七を「や」で切った古風な文体だが、下五の「梨しやりり」が印象的。「匂い」の生暖かさとの対比に梨が持つ冷たい食感や手触りが際立つのだ。「虫の音や私も入れて私たち」「わたくしの瞳(め)になりたがつてゐる葡萄」おおむね平明な俳句の文体であるが、盛り込まれた言葉にこの作者ならではの感性が光っている。『俳コレ』所載。(三宅やよい)


October 17102012

 秋水の動くともなく動きけり

                           伊志井寛

ややかさを感じさせる「秋水」は、流れている川や湖の水とはかぎらない。井戸の水や洗面器に汲んだ水でもいいだろうが、秋の水ゆえに澄みきって、一段と透明に冷えてきている水である。名刀をたとえるのに「三尺の秋水」という言葉もあるようだ。掲句の「秋水」は「動くともなく」かすかに動いているのだから、川か池の水だろう。おそらく川の水が流れるともなく流れているさまを詠んだものだろう。「流れる」ではなく「動く」と詠んだところに、秋水をより生きたもののごとくとらえたかった作者の気持ちが感じられる。水は動きがないように見えてはいるけれど、秋の日ざしに浸るかのように、かすかにだが確実に流れている。それを見つめている作者の心にも、ゆったりした秋の時間が流れているようだ。せかせかしないで、秋は万事そうした気持ちでありたいものだと思うが、なかなか……。室生犀星の句に「秋水や蛇籠にふるふえびのひげ」がある。平井照敏編『新歳時記・秋』(1996)所収。(八木忠栄)


October 16102012

 黄落や接吻解かぬロダンの像

                           小滝徹矢

ダンの「接吻」は上野の国立西洋美術館に収蔵されている。はじめ「地獄の門」に加わるはずだったが、情愛豊かで馥郁とした幸福感に包まれた作品は、男女が業火に苛まれる様相とかけ離れたため独立した作品となった。「世界でもっとも美しい」といわれるこの像をロダンは後年「美しいが何も得られなかった」と叙述している。「恋愛こそ生命の花である」と公言した作家は、アトリエで若い男女にこの通りのポーズをとらせ、恋人であったカミーユとともに制作に取り組んだ。永遠に接吻する像を完成させたのち、ロダンは妻のもとへと帰り、残されたカミーユは精神を病んでしまう。国立西洋美術館までは美しい銀杏並木があり、毎年見事な黄落を見せてくれる。天才の名を欲しいままにした芸術家の情熱と迫力を目の当たりにしたとき、人は魂を射貫かれたような感動を受ける。その喜びとも、畏怖とも言いつくせない曖昧な気持ちのまま美術館を後にすれば、途端に現実の色彩として銀杏の鮮やかな黄色が目に飛び込むのだ。その色は、行きに見た色とはきっと違って映ることだろう。『祇園囃子』(2012)所収。(土肥あき子)




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