第112回余白句会。兼題は「芽吹く」「足早(あしばや/要季語)」(哲




2014N419句(前日までの二句を含む)

April 1942014

 落花いま紺青の空ゆく途中

                           成瀬正俊

朝ベランダから見ていた遠桜も緑になれば一枚の景に紛れてしまう。いつもなら、代わって盛りとなった花水木の並木道を歩きながら桜のことはとりあえず忘れてゆくのだが、今年は複雑な思いが残った。それは先週末、吉野山で満開の山桜に圧倒されていたからだ。しかも、二日間居てその万朶の桜が全くゆるがず、信じられないほど散らなかったのだ。散ってこその花、とは勝手な言い草ではあるけれど、これほどの桜が花吹雪となって谷に散りこんだら、という思いを抱いたまま帰途につき今日に至った。そして、未練がましいなと思いながら『花の大歳時記』(1990・角川書店)の「落花」の項を見ていて、掲出句の生き生きとした描写に一入惹かれたというわけだ。青空を限りなく渡ってゆく花、その風の中にいるような心地は、途中、の一語が生むのだろう。花の吉野山に湧き上がっていた桜色を心の中で一斉に散らせて、いつかそんな風景に出会えることを願っている。(今井肖子)


April 1842014

 花満ちて餡がころりと抜け落ちぬ

                           波多野爽波

の句は、おそらく中村草田男の「厚餡割ればシクと音して雲の峰」が心の中にあったのであろう。しかしながら、一句は草田男の模倣ではなく、爽波独自の世界を構築している。辺り一面に、咲き満ちた桜の花。饅頭を割ったところ、皮と餡の間に隙間があったのであろう。餡がそのまま、抜け落ちてしまった。「花満ちて」が雅の世界であり、一方、「餡」の方は俗の世界である。餡が饅頭から抜け落ちてしまったというのは、日常生活の中のトリビアリズムであるが、そのような世界を詠うことは、爽波は得意であった。『骰子』(昭和61年)所収。(中岡毅雄)


April 1742014

 春月の背中汚れたままがよし

                           佐々木貴子

の月が大きい。少し潤んで見えるこの頃の月の美しさ。厳しくさえ返っていた冬月とは明らかに違う。掲載句の「背中」の主体は春月だろうか。軽い切れがあるとすると月を眺めている人の背中とも考えられる。華やかな月の美しさと対照的に「この汚れ」が妙に納得できるのは月の裏側の暗黒が想起されるからだろうか。現実世界の「汚れ」を「よし」と肯定的にとらえることで、春月の美しさがより輝きすようだ。その手法に芭蕉の「月見する坐にうつくしき顔もなし」という句なども思い浮かぶ。さて今夜はどんな春月が見られるだろうか。『ユリウス』(2013)所収。(三宅やよい)




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