2014N725句(前日までの二句を含む)

July 2572014

 老人よどこも網戸にしてひとり

                           波多野爽波

は老いる。必ず、老いる。そして、老いはしばしば孤独を伴うものである。配偶者が亡くなり、子供も訪ねてくることなく、日々、一人で生活せざるを得ない場合もある。爽波がここで描いた老人も、また、ひとりである。「老人よ」の呼びかけが、作者の老人への共感を表している。どこも、網戸にしてというのは、涼しげなイメージを浮かべるかも知れないが、ここでは、窓やガラス戸など、家の内と外とを隔てている境界を出来る限り取り外し、網戸によって外界に繋がろうとする、老人の意識下の願望が感じられる。そして、下五の「ひとり」という呟きのような結び。爽波の句で、「老い」の心境を詠んだ句は、ほとんど見られない。それだけに、心に残る一句である。『一筆』(平成2年)所収。(中岡毅雄)


July 2472014

 どの部屋に行つても暇や夏休み

                           西村麒麟

い昔に味わった夏休みの退屈さが実感を持って思い出される句。毎日毎日、窮屈な学校から解放されて朝寝はし放題。漫画を読もうが朝から家を飛び出して遊びに行こうが、テレビを見ようが好きにしていい天国のような生活も二,三日たてば飽きてくる。子供の出来ることなんて限られている。朝ご飯を食べたらする事もないので二階に上がってみたり、座敷で寝転んでみたり。部屋を変えてみても暇なことに変わりはなく、午後の時間は永遠かと思えるほど。掲句を読んで、子供の頃嬉しいはずの夏休みがだんだんつまらなくなってゆく漠然とした不満を言い当てられたら気がした。季節の巡りは螺旋を描いて毎年やってくる。遠い日の自分の中の名付けがたい感情をすくい取って俳句にする。その細やかな視線に共感した。『鶉』(2013)所収。(三宅やよい)


July 2372014

 幽霊の形になっていく花火

                           高遠彩子

よいよ日本中、花火花火の季節である。花火のあがらない夏祭りは祭りではないのか、といったあんばいの今日このごろである。花火も近頃は色彩・かたち・音ともに開発されてきて、夜空は従来になく多様に彩られ、見物人を楽しませてくれるようになってきた。しかもコンピューター操作が普及しているから、インターバルが短く、途中で用足しするヒマもままならないほどだ。「幽霊の形」ということは、開いたあと尾を引くように長々としだれる、あの古典的花火の様子だろう。♪空いっぱいに広がった/しだれ柳が広がったーーという童謡が想起される。しかも「なっていく」という表現で、きらめきながら鮮やかにしだれていく経過が、そこに詠みこまれていることも見逃せない。この場合の「幽霊」は少しも陰気ではないし、「幽霊」と「花火」という言葉の取り合わせも意識されているようだ。彩子はユニークな声をもつ若いシンガーとして活躍しているが、たいへんな蕎麦通でもある。『蕎麦こい日記』という著書があるほどで、時間を惜しんで今日も明日も各地の蕎麦屋の暖簾をくぐっている。他に「生くるのも死ぬるも同じ墓参り」がある。「かいぶつ句会」所属。『全季俳句歳時記』(2013)所載。(八木忠栄)




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