衆院解散へ。庶民感覚ゼロの男が自己都合の選挙とは腹立たしい。(哲




2014N1118句(前日までの二句を含む)

November 18112014

 返り咲くたんぽぽに茎なかりけり

                           福神規子

り花とは本来咲くべき季節ではない時期に、陽気の具合で咲いてしまう花。小春日のあたたかな日だまりで、たんぽぽの黄色が鮮やかに目に飛び込むことがある。たんぽぽの生育環境はかなり過酷でも、たとえばアスファルトのわずかな隙間でも育つことが可能だ。とかく生命力の強い植物は嫌われる傾向にあるが、その姿かたちによって誰にも愛される花である。葉を地面にぴったりと放射状に広げることで、一枚一枚重ならないようにして日照面積を多く取るような工夫がなされ、茎の長短も実はエネルギー効率をしたたかに考えたものだ。しかし、たんぽぽは可憐な風情をくずすことなく、寒風のなかでわずかな日向にしがみついているようにも見え、ことさらいじらしく映る。思わず膝を寄せ「大丈夫?」と問いかけてしまうほどに。〈鍵穴は古墳のかたち梅雨深し〉〈ままごとにかあさんがゐて草の花〉〈さりながら人は旅人山法師〉『人は旅人』(2014)所収。(土肥あき子)


November 17112014

 昔々勝手にしやがれという希望

                           甲斐一敏

うか、もうゴダールの映画『勝手にしやがれ』は、「昔々」の域に入っているのか。調べてみたら1959年の製作だから、五十年以上も昔のフィルムである。見ていない人には説明の難しい映画だが、ストーリーとしては、官憲に追われた街のチンピラやくざ(ジャン・ポール・ベルモンド)がガールフレンドのアメリカ娘(ジーン・セバーグ)の密告で追いつめられ、最後は路上で警察の銃弾を受けて虫けらのように死んでいく、という単純なもの。しかしこのストーリーの画面上の展開技法は従来の映画の文法を打ち破る画期的な作品で、当時の若い映画ファンの度肝を抜いたのだった。ああ、映画はこんなに自由なメディアなのだ。見ていて、体中の神経や筋肉の緊張がが解き放たれるような気分であった。作者が「希望」と言っているのは、思想的な問題もさることながら、そうした自由気ままな雰囲気から触発された多くのことを指しているのだと思う。日本語のタイトルは「勝手にしやがれ」だが、原題は『A BOUT DE SOUFFLE』で、直訳すれば「息切れ」とでもすべきだろうか。これを大胆に改変した日本語のタイトルは、秀抜である。この絶妙な日本語タイトルとあいまって、若者の「希望」はなお色濃くなったと言ってもよさそうだ。『忘憂目録』(2014)所収。(清水哲男)


November 16112014

 人生の生暮れの秋深きかな

                           永田耕衣

句は、最晩年の句集『自人』(1995)所収。耕衣が、淡路阪神大震災に被災した年の刊行になります。「生暮れ」には「なまぐ(れ)」のルビがふられており、造語です。震災は、一月十七日未明に起きたので、その前年の秋の作、耕衣九十四歳の句でしょう。さて、この句をどのように読めばいいのか。「生暮れ」とは何か。耕衣の声に耳を傾けてみることにしました。「枯淡の境地に非ず。解脱を願はず。人が生きるということは、とことん生身でありつづけるということ。生身が人生の中に暮(ぼ っ)していくということ。その時、人生の秋の深さに出会える。存分に生身を生きることが、季節の粋を深く味わい尽くせる。」このような幻聴を聞きました。「陸沈の掟」十ヶ条から二つ引きます。*「卑俗性を尊重すべきこと。喫茶喫飯、脱糞放尿、睡眠男女の類は人間生活必定の最低辺なり。絶対遁れ得ず。故に可笑し。」*「俳句は人間なる事。俳句を作す者は俳人に非ず、マルマル人間なり。」この言を踏まえて「生暮れ」を考えると、生き物であることの本能と本性を本情をもって生き尽くすことではないかと思いました。それは、取り繕ったり、権威におもねたり、こびへつらったり腰巾着になって他人の褌で相撲を取る生き方とは正反対です。しかし、この、当たり前すぎる真っ当な生き方を貫くと人 間社会からスポイルされかねません。それでも、現代のマレビトである耕衣は、「生暮れ」を貫き、生身の肌から少年や女体や白桃、葱、寒鮒、天の川を取り込んで、奇想戦慄を与える言葉を編み出しました。自由自在です。『永田耕衣五百句』(1997)所収。(小笠原高志)




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