大ヒット。『21世紀の資本』。(哲




2015N113句(前日までの二句を含む)

January 1312015

 鮟鱇や大事なところから食べる

                           水上孤城

見からするとどう見ても美味とはほど遠い鮟鱇ではあるが、実は捨てるところなど全くないといわれるほどおいしい魚である。七つ道具とは、なくてはならない七種類のものをいうが、鮟鱇はこれ全身が美味の七つ道具。「肝」「ぬの(卵巣)」「ひれ」「えら」「皮」「水袋(胃)」「身」でしめて七つ。全体の80%が水分でさばきにくいことから、口にフックを掛けて吊し切りをするが、この七つ道具が外されると、残るは骨と口だけという心細い姿となる。掲句のいうもっとも大事な場所とはどこかと考えると、ものごとの重要を意味する「肝」に違いないと思われ、たしかにもっとも先に箸を付けたい場所だと得心する。しかし、大事な箇所ばかりを肥大させられるガチョウの不運を思うと、おいしくなりすぎるのも危険なことなんだよ、ともつぶやきたくもなるのである。『水の歌』(2010)所収。(土肥あき子)


January 1212015

 成人の日の母たりしこと遥か

                           今井千鶴子

日の「成人の日」を詠んだ句は多いけれど、掲句の視点はユニークだ。子供の生長にことよせて、現在の自分のことを詠んでいる。あんなに小さかった我が子が、つつがなく成人の日を迎えた。傍目には平凡な事実が、産み育てた母親としての自分にはとても感慨深く感じられた。赤ん坊から大人への道程には、いくつもの劇的な変化が伴う。よくもここまでと、とりわけて母親には感じることの多い日であろう。そんな特別な日も、しかしいまでは遥か昔のことになってしまった。そのことを思うと、遠くまで来たものだという新しい感慨がわいてくるのである。かつて晴れがましそうに成人式に出向いていった子どもも、もはや自分と対等の大人であり、子どものころのような劇的な変化を見せることもない。これが人生の定めである。母としての作者は、その現実に一抹の寂しさを覚えながらも、おだやかに微笑しているような気がする。俳誌「ホトトギス」(2004年6月号)所載。(清水哲男)


January 1112015

 早咲きの木瓜の薄色蔵開き

                           鈴木真砂女

歳時記によると、蔵開きは、年のはじめに吉日を選んでその年初めて蔵を開くこと。また、その祝い。多く正月の十一日に行ない、江戸時代に、大名が米蔵を開く儀式に始まるといいます。鏡開きで餅を割って食べる日でもある今日は、正月に休めていた筋肉を再始動させるスタートの日のようでもあります。また、家庭では、正月用の器の類を蔵に仕舞って日常に戻っていく、そんな生活の節目でもあったのでしょう。しかし、げんざい、そのような生活習慣はとうに切れていますから、掲句の「蔵開き」は、むしろ抽象的に使われているでしょう。春に咲く木瓜(ぼけ)の花がほんのり薄赤く咲き始めていて、それが、正月開けの人々の動きと連動しているように見えます。自 然界も 人の世も、徐々に活気づく日常が動き始めます。ただし、春はまだ遠く、早咲きの木瓜の花が受粉するのはかなりむずかしいでしょう。『鈴木真砂女全句集』(角川書店・2001)所収。(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます