2015N12句

December 01122015

 藁玩具買ひふくろふに鳴かれけり

                           橋本榮治

を収穫したあとの藁は、生活のあらゆる場面で活用されていた。わらじや草履、縄、むしろ、わら半紙などもなつかしい。実用的なもの以外にも郷土玩具としてさまざまな細工物となって多くの人の手に取られてきた。歌川広重の「雑司ヶ谷之図」には鬼子母神門前の料理屋や参拝客が描かれており、手には「すすきみみずく」が提げられる。この玩具の由来は病気の母の薬を買うことができなかった貧しい少女の夢枕に一匹の蝶が現れ、「芒の穂でみみずくを作り、お堂の前で売るとよい」と託されたという。どれほど貧窮していようと藁だけは手に入れることができたのだ。掲句の玩具が「すすきみみずく」であるとは限らないが、下五の「鳴かれけり」によって、手にした玩具にふくろうが同調するようにも思えてくる。『放神』(2008)所収。(土肥あき子)


December 02122015

 懐手蹼(みづかき)ありといつてみよ

                           石原吉郎

郎は詩のほかに俳句も短歌も作り、『石原吉郎句集』と歌集『北鎌倉』(1978)がある。句集には155句が収められている。俳句はおもに句誌「雲」に発表された。ふところにしのばせているのが「蹼」のある手であるというのは、いかにも吉郎らしく尋常ではない。懐手しているのは他人か、いや、自分と解釈してみてもおもしろい。下五「いつてみよ」という命令口調が、いかにも詩に命令形の多い吉郎らしい。最初に「懐手蹼そこにあるごとく」という句を作ったけれど、それだけでは「いかにも俳句めいて助からない気がしたので、『懐手蹼ありといつてみよ』と書きなおしてすこしばかり納得した」と自句自解している。蹼のある手が、単にふところに「あるごとく」では満足できなかったのだ。「あり」とはっきりさせて納得できたのだろう。「出会いがしらにぬっと立っている、しかもふところ手で。見しらぬ街の、見しらぬ男の、見しらぬふところの中だ」「匕首など出て来る道理はない」とも書いている。見しらぬ男の「匕首」ならぬ「蹼」。寒々とした異形の緊張感がある。「蹼の膜を啖(くら)ひてたじろがぬまなこの奥の狂気しも見よ」(『北鎌倉』)という短歌もある。『石原吉郎句集』(1974)所収。(八木忠栄)


December 03122015

 老人が群れてかごめや十二月

                           筑紫磐井

稚園や小学校低学年で「かごめ」や「あんたがたどこさ」や「はないちもんめ」を楽しんだのはどの世代までだろう。もはや子供が群れて遊ぶ路地もなく、ぶらんこと滑り台の取り残された公園はがらんとしている。それぞれの家で子供たちは何をして遊んでいるのか。掲句では「老人が群れて」とあるが老人たちが自発的に集まって歌いながら「かごめ」をやっているなら牧歌的だが、老人が集められる施設での光景を連想させる。一年の最後の月で働きざかりの人には何かとあわただしい十二月だが、もはや曜日も月も関係のなくなった老人が群れてかごめに興じる姿は十二月であるだけに物悲しい。『我が時代』(2014)所収。(三宅やよい)


December 04122015

 菜屑など散らかしておけば鷦鷯

                           正岡子規

鷯(ミソサザイ)は雀よりやや小さめの日本最少の小鳥である。夏の高所から冬の低地に移り住む留鳥である。根岸の子規庵は当時の状態に近い状態で保存されている。開放されているので訪れる人も多い。そこに寝転んで庭を眺めていると下町の風情ともども子規の心情なんぞがどっと胸に迫ってくる。死を覚悟した根岸時代の心情である。病床の浅い眠りを覚ましたのはミソサザイのチャッツチャッツと地鳴き。これが楽しみで菜屑を庭に撒いておいたのだ。待ち人来るような至福の喜びがどっと襲う。ここでの句<五月雨や上野の山も見あきたり><いもうとの帰り遅さよ五日月><林檎くふて牡丹の前に死なん哉>などが身に沁みる。高浜虚子選『子規句集』(1993)所収。(藤嶋 務)


December 05122015

 うしろより足音十二月が来る

                           岩岡中正

日少ないというだけでなく、十月に比べ十一月は本当にすぐ過ぎ去ってしまう。毎年同じことを言っていると分かっていながら十二月一日には、ああもう十二月、とつぶやくのだ。そんな十一月の、何かに追われるような焦りにも似た心地が、うしろより足音、という率直な言葉と破調のリズムで表現されている。ひたひたとうしろから確実に迫ってくる十二月、冬晴れの空の青さにさえ急かされながら、十一月を上回る慌ただしさの中で過ぎてゆく十二月。そして正面からゆっくりと近づいて来る新しい年を清々しい気持ちで迎えられれば幸いだろう。同じように破調が効いている〈栄華とは山茶花の散り敷くやうに〉から〈行く年の水平らかに鳥のこゑ〉と調べの美しい句まで自在に並ぶ句集『相聞』(2015)所収。(今井肖子)


December 06122015

 寒鯉を抱き余してぬれざる人

                           永田耕衣

条理です。高校時代に背伸びをして読んだカミュの『シーシュポンスの神話』に、こんな記述がありました。「川に飛び込むが、濡れないことを不条理という」。『異邦人』のムルソーの心理を説明している箇所でしょうが、当時は全く理解できませんでした。しかし、身の回りで時に起こる不条理な事象を見、聞くにつれ、今はカミュの不条理が腑に落ちます。さて、掲句では、寒鯉を抱いているのにぬれない人が存在することを書いているのだから、不条理です。訳がわかりません。ところが、句集では次に「亡母なり動の寒鯉抱きしむる」があったので、句意がはっきりしました。「ぬれざる人」は「亡母」のことでした。ならば寒鯉は、生前も死後も母を深く慕っている息子耕衣その人でしょう。寒鯉のように、生臭く濡れている自身を母は死んだ今でも抱きしめにやってきてくれる。三途の川の向こうは、濡れるということがないのでしょう。あの世という形而上学には、涙や汗の質感がないのかもしれません。句集には「掛布団二枚の今後夢は捨てじ」もあり、母に抱かれる夢を見ているのかもしれのせん。となれば、掲句を不条理とするのは間違いで、夢幻とすべきでしょう。『非佛』(1970)所収。(小笠原高志)


December 07122015

 俺たちと言ふ孫らきて婆抜きす

                           矢島渚男

しはやいが、新年の句を。このとき、お孫さんは小学校低学年くらいだろうか。まだ十分に幼く可愛らしい顔をしているのに、突然「俺たち」などといっちょまえの口をきいて、作者を驚かす。だが、いっしょに婆抜きをはじめてみると、そこはそれ、やっぱり手付きも考えも幼くて、勝負にはならない。というか、こちらが上手に負けてやるのに一苦労する羽目になってしまう。たいていの家庭での正月の孫とのつきあいはこのようであり、コミニュケーション・ツールとしてのカードや双六は、それなりの成果をあげてきた。かつての我が家でも、カードなどが引っ張り出されるのは、年に一度の正月だけだった。が、最近の孫たちとのつきあいはずいぶんと様変わりしていて、大変なようだ。第一にいまどきの子供たちは婆抜きなどには興味を示さない。彼らの得意はひたすらに電子的なゲームにへだたっており、老爺が相手になりたくても、まずは簡単な操作がままならない。上手に負けるなんて芸当はとてもできないから、弱過ぎてすぐに相手にならないと飽きられてしまう。そこで「俺たち」は俺たち同士で遊ぶようになり、年寄りはみじめにも仲間外れにされてしまうのだという。時代といえば時代だけれど、孫に限らず、世代間をつなぐ遊びのツールが失われたことは、大袈裟ではなく、世も末の兆候ではないか。「延年」所収。(清水哲男)


December 08122015

 人間が毛皮の中で生きている

                           清水 昶

和16年12月8日。日本軍が、当時の英領マレーとアメリカ・ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まった。開戦と緒戦の勝利を祝し、町や村では祝賀の行事がにぎやかに執り行われた。「進め一億火の玉だ」や「生めよ殖せよ」など戦時標語には、ヒートアップした情熱は感じられるものの、人間の顔が見えてこない。戦局の悪化にともない標語も「一億玉砕」「神州不滅」と変化し、ますますひとりひとりの命から離れていく。掲句は毛皮のコートを着ている人間を見つめたものだ。反対を唱えるでもなく淡々と描いてはいるが、毛皮という屍に包まれて満足していることもまた、命に対して無神経・無関心につながっているように思わせる。『俳句航海日誌』(2013)所収。(土肥あき子)


December 09122015

 笹鳴の日かげをくぐる庭の隅

                           萩原朔太郎

の地鳴きのことを「笹鳴」という。手もとの歳時記には「幼鳥も成鳥も、また雄も雌も、冬にはチャッ、チャッという地鳴きである」と説明されている。また『栞草』には「〈ささ〉は少しの義、鶯の子の鳴き習ひをいふなるべし」とある。まだ日かげが寒々としている冬の日に、庭の隅から出てきた鶯が、まだ鶯らしくもなく小さな声で鳴きながら庭を歩いている光景なのであろう。それでも声は鶯の声なのである。朔太郎にしては特別な発見もない月並句だけれど、日頃から心が沈むことの多かった朔太郎が、ふと笹鳴に気づいて足を止め、しばし静かに聞き惚れていたのかもしれない。あの深刻な表情で。ある時のおのれの姿をそこに投影していたのかもしれない。鶯が美声をあたりに振りまく時季は、まだまだ先のことである。朔太郎の他の句には「冬さるる畠に乾ける靴の泥」があるけれど、この句もどこかしらせつなさが感じられてしまう。『萩原朔太郎全集』第3巻(1986)所収。(八木忠栄)


December 10122015

 黄金の寒鯉がまたやる気なし

                           西村麒麟

った冬の沼のふちにたたずんでいると、ぽっかり口をあけた鯉がどんよりした動きで近寄ってくる。寒中にとれる鯉は非常に味がいいというので「寒鯉」が季語になっているようだ。歳時記を見るとだいたい動きが鈍くてじっと沼底に沈んでいる鯉を描写した句が多いように思う。掲載句では「黄金」「寒鯉」「が」というガ行の響きの高まりに「また」と下五を誘い出して、何がくるかと思いきや「やる気なし」と脱力した続きようである。むだに立派な金色の鯉がぼーっと沼に沈んでいる有様が想像されてなんともいえぬおかしみがある。『鶉』(2013)所収。(三宅やよい)


December 11122015

 雪に住む雷鳥白き魂よ

                           藤島光一

者は富山市の人とある。日本海と立山連邦に挟まれた土地柄で、山に行かれたときに雷鳥に出会ったのだろう。雷鳥は特別天然記念物に指定されている山岳地帯の鳥である。飛翔力は弱く地を歩き回って植物の芽や葉、種子などを餌としている。季節によって羽の色が変化する。夏のオスは上面が黒褐色で腹部が白色、眼の上が赤い。メスは褐色のまだら模様。これが冬になると、雪山で身を守るために雌雄とも尾羽をのぞいて白色となる。夏の登山者にはお馴染みの鳥でこれに出会うと高山にやって来た感動を実感する。今作者は厳しい冬山へ登頂しそこで出会った雷鳥の雪にも増した真白さに胸を打たれそれを魂と感じた。冬山登頂の達成感がどっと胸に熱く迫ってくる。「朝日俳壇2011」(「朝日新聞」2011年)所載。(藤嶋 務)


December 12122015

 漣のぎらぎらとして冬木の芽

                           石田郷子

の日差しは思いのほか強い。鴨の池の辺などに立っていると、北風がひるがえりながら水面をすべる時眩しさは増幅されて光の波が広がるが、それは確かに、きらきら、と言うより、ぎらぎら、という感じだ。ぎらぎら、は普通真夏の太陽を思わせるが、その場合は暑さや汗や息苦しさなどのやりきれなさをひっくるめた印象だ。真冬の光の、ぎらぎら、は冷たい空気の中でひたすら視覚的で白い光の色を強く思わせる。思わず目をそらした作者の視線は近くの冬木の枝に、まだ固い冬芽のその先のきんとはりつめた空の青さが目にしみる。『草の王』(2015)所収。(今井肖子)


December 13122015

 冬空は一物もなし八ヶ岳

                           森 澄雄

書に、「甲斐より木曽灰沢へ 十句」とある中の四句目です。二句目に「しぐれより霰となりし山泉」があります。山あいの泉を訪ねているとき、しぐれは霰に変わり、寒さの実感が目にもはっきり見える趣きです。この二句目は、しぐれ、霰、泉という水の三つの様態を一句の中に盛り込んでいて、掲句の「一物もなし」に切れ味を与えています。諏訪盆地あたりから見た八ヶ岳でしょうか。独立峰ではなく連山を下五に置くことで、広角レンズで切り取ったような空の広さを提示しています。この冬空は、水気が一切ない乾燥した青天です。ところで、当初は七句目の「山中や雲のいろある鯉月夜」を取りあげるつもりでしたが、単独で読むと句意も季節もはっきりしないので、断念しました。「鯉月夜」は、たぶん造語です。木曽谷の山中に移動して、月夜の空を見上げると、雲の色彩によって、それが鯉の鱗のように見えたということでしょうか。鯉の養殖が盛んな土地でもあるので、今宵の食卓に鯉こくを期待する心が、雲を鯉に見立てさせたのか。恋しいに掛けたわけではないでしょうが、鯉月夜という語が食欲と結びついた風景なら、茶目っ気があります。なお、十句目の「やや窶(やつ)れ木曽の土産に山牛蒡(ごぼう)」以外は叙景の句なので、鯉こくを食べながら月夜を見ているのではなさそうです。と、ここまで書いて、「ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん」という声が聞こえてきました。「鯉月夜」とは、池の水面に雲と月が映り込んでいるその下で、鯉がひっそり佇んでいる。そんな写生のようにも思えてきました。宿の部屋から池の三態を眺めているならば、これも旅情でしょう。『鯉素』(1977)所収。(小笠原高志)


December 14122015

 山頂の櫨の紅葉を火のはじめ

                           矢島渚男

供のころには風流心のかけらもなかった私にも、櫨の紅葉は燃えるようで目に沁みるかと思われた。その紅葉を、作者は「火のはじめ」と決然と言いきっている。「火のはじめ」とは、全山紅葉のさきがけとも読めるし、他方ではやがて長くて寒い季節に入る山国の、冬用意のための「火」のはじめだとも読める。むろん、作者はその両者を意識の裡に置いているのだ。櫨の紅葉は燃えるような色彩で、誰が見ても美しいと思うはずだが、その様子を一歩進めて、山国の生活のなかに生かそうとした鋭い目配りには唸らされてしまう。と言おうか、紅葉した櫨を見て、作者は観念的に何かをこねくりまわそうなどとは露思わず、まことに気持ちがよいほどの率直さで、心情を吐露してみせている。(清水哲男)


December 15122015

 うつぷんをはらして裸木となれり

                           岬 雪夫

憤(うっぷん)とは、表面には出さず心の中に積もり重なった怒りや恨み。作者は裸木を見上げ、覆われていた木の葉をふるい落としてせいせいとした風情であると見る。固定観念として裸木に込められた孤高や孤独のイメージは崩れさり、一転木の葉や花が樹木にとってあれこれ気を使わねばならなかった要因のように思われる。裸木の裸とは、寒さに震えるものではなく、また生まれ直す原点に戻ることなのだ。裸一貫で風のなかに立つ木のなんと雄々しく清々しいことだろう。『謹白』(2013)所収。(土肥あき子)


December 16122015

 前のめりなる下駄穿いてわが師走

                           平木二六

走と言っても、それらしい風情は世間から少なくなった。忘年会の風習は残っているけれど、街にはいたるところ過剰なイルミネーションが、夜を徹してパチクリしているといった昨近である。かなり以前から、「商戦の師走」といった趣きになってしまっている。師も足繁く走りまわることなく、電子機器上で走りまわっているのであろう。諸説あるけれど、昔は御師(でさえ)忙しく走っていた。「前のめり」になるほど歯が減ってしまった下駄を穿いて走りまわる、それが暮れの十二月ということだった。下駄は年末まで穿きつぶして新調するのは正月、という庶民の生活がまだ維持されていた時代が掲出句からは想像される。靴ではなくまだ下駄が盛んに愛用されていた、私などが子どもの時代には、平べったくなるまで穿きつぶして、正月とかお祭りといった特別のときに、新しい下駄を親が買って与えてくれた。前のめりになって、慌ただしく走りまわっている姿が哀れでありながら、どこか微笑ましくも感じられる。二六の句には他に「短日や人間もまた燃える薪」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 17122015

 鮟鱇のくちびるらしき呑み込みぬ

                           平石和美

鱇のぶつ切りがスーパーに並ぶ季節になった。寒い日はアンコウ鍋でしょう、と買ってくるがぶつ切りになった部位のどこがどこやら、わからぬまま鍋に入れる。筋やら皮やら肝やら、ちょっと気味が悪いがホルモンだって同じこと。美味しけりゃいいと食べている間はどこの部位かなんてさほど気にしない。しかし口触りで、鮟鱇のくちびる?と思うが回りで食べている人に確かめるのも気が引ける。一瞬の躊躇のあと、えいとばかり呑み込んでしまう。深海魚であるあんこうの口は大きくて、くちびるは分厚そうだ。人間の口の中で咀嚼されて呑み込まれるくちびる、ことさらに考えると何か異常なものを食している気にもなる。食に隠されている気味悪さが際立つのも俳句の短さならではの効果といえる。『蜜豆』(2014)所収。(三宅やよい)


December 18122015

 覆面に眼のあるきんくろはじろかな

                           藤田直子

んくろはじろは漢字表記すれば金黒羽白。金は目、黒は背中、白は腹部の色。飛翔中にも翼帯に白が見える。顔から背中が黒くその中に金色の目が覆面から覗いているようで印象的である。作者はそんな容姿そのものの可愛さに感動している。おもに冬鳥として渡来し、湖沼、池、広い川、入り江などに群れで生活する。水面を泳ぎ、水に潜って水中の草や水底の貝を食べる。水をけって助走してから飛び立ち、はばたきは速い。公園のすこし大きな池などで身近に眺めることが出来る鴨である。他に<詩(うた)のため何捨つべしや葛の花><われの血の重さに蛭の離れたる><廃炉へと働く人や冬銀河>などがある。「俳壇」(2015年1月号)所載。(藤嶋 務)


December 19122015

 ふたり四人そしてひとりの葱刻む

                           西村和子

役でも薬味でも焼いても煮ても美味しい葱は、旬である冬のみならずいつも食卓のどこかにのぼっており、一年のうち葱を刻まない日の方が刻む日より少ないな、と思う。家族の歴史は団欒の歴史であり家庭料理の歴史でもある。生まれも育ちも違う二人が日々食事を共にして知らなかった味を知り、時にぶつかり合いながらも、次第に新しい我が家の味が作られてゆく。子供達はその新しい味で育てられ同じように家庭を持ち、そうやって脈々と代々の母の味が伝わるのだろう。やがてひとりになっても、気がつくと葱を刻んでいる。この句の葱は細い青葱、ちょっと薬味に使うほどの量だ。リズミカルな音がかろやかに響く厨に、明るい冬日が差し込んでいる。『椅子ひとつ』(2015)所収。(今井肖子)


December 20122015

 その中の白衣も遺品熊楠忌

                           小畑晴子

和16年12月29日、博物学者・南方熊楠が亡くなりました。広汎な視座を持った世界的な学者でしたが、私は、粘菌学者としての熊楠に魅かれています。正岡子規、夏目漱石とは東京大学予備門の同級生でしたが、代数の得点が足りず落第。博覧強記とは熊楠のためにある言葉だと思いますが、唯一計算だけが苦手でした。19〜24歳のアメリカ留学時代に植物採集に開眼し、25〜32歳のイギリス滞在中は、科学雑誌『ネイチャー』に三十本もの論文を投稿。その頃、イギリス人たちに対して英語で東洋の学問の伝統を説く活動に刮目したのが、亡命中の若き孫文でした。三か月の間、大英博物館やパブで語り合った別れ際、孫文は「海外逢知音(海外にて知音と逢う)」という一句を熊楠の日記帳に記しており、これは現在も和歌山県白浜にある南方熊楠記念館に所蔵されています。掲句の白衣もまた、同所の展示物でしょう。私は今年、熊楠をモチーフとしたドキュメンタリー映画『鳥居をくぐり抜けて風』(池田将監督、公開未定)を製作しました。紀伊半島の鎮守の杜を中心に撮影しています。三年前にロケハンに行く時、一つの謎がありました。和歌山県は、熊野本宮がある土地なのに神社の数が438社しかなく、全国で46位です。ちなみに1位は新潟県で、4775社です。その謎を解いてくれたのが熊楠記念館に展示している新聞記事と文書でした。要約すると、明治39(1906)年、西園寺内閣は神社合祀令を発令。神社を「官社」「府県社」「郷社」「村社」「無格社」に系列化して大整理をしたことによって、全国20万社のうちの約7万社が合祀。とくに、三重・和歌山ははなはだしく、和歌山では3713社のうち7割近い2913社が合祀された。熊楠は、庶民の生活に結びついた神社を合祀することによって伝承されてきた民俗が絶え、また神社林を中心とした自然の生態系が破壊されることをおそれ、果敢に反対した。日本で最初の環境保護運動を行なう中、柳田国男宛の書簡でこれも日本で初めてecology(エコロジー)という言葉を使っている。合祀令の思考には、中央集権化を推進していく一神教的な合理主義がはたらいているので、神社林といったあいまいかつ非生産的な空間を整理統合しようとします。これが、戦前の国家神道のひとつのあり方であり、天皇原理主義でもありました。しかし、それぞれの鎮守の杜は、その土地独自の生態系を形成しています。目には見えにくい大切なはたらきをする存在を神というならば、熊楠は、動物と植物の中間的な性質を持ちつつ、それぞれを繋いだ粘菌類のはたらきに神を見、鎮守の森の空気の清らかさそのものの具体的な現実に、抽象的な創造主とは違う日本のアイデンティティを見いだしていました。生物学者でもあった昭和天皇は、昭和37(1962)年に南紀白浜を訪れた時、田辺湾神島における熊楠の粘菌類ご進講を懐かしみ、「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠みました。『新日本大歳時記 冬』(講談社・1999)所載。(小笠原高志)


December 22122015

 冬至といふ底抜けに明るい日

                           能村登四郎

至とは一年のなかで太陽が最も南に寄るため、北半球では昼が一番短い日となる。偉大な太陽の力が脆弱となるため、さまざまな国で厄よけや滋養に力を尽くす風習が残る。日本でも江戸の銭湯が考案したという柚子湯や、長期保存が可能な南瓜や小豆を食べて風邪をひかないように工夫した。しかし、昼が短いとはいえ、この時期は冬型の気圧配置となり、太平洋側ではよく晴れる日が多い。澄んだ冬の空気が万象の輪郭を際立たせる様子を華美な表現を用いず、「底抜け」と直截に言い切ったことで、いっそう明朗な景色が描かれた。『幻山水』(1972)所収。(土肥あき子)


December 23122015

 思い出は煮凝ってなお小骨あり

                           下重暁子

い出が煮凝る、とはうまい! なるほど、甘い思い出も辛い思い出も、確かに煮凝みたいなものと言えるかもしれない。しかも「小骨」のある煮凝であるから穏やかではない。この「小骨」はなかなかのクセモノ、と私は読んだ。読む者にあれこれ自由な想像力を強いずにはおかない。小骨。それはうら若き美女がそっと秘めている思い出かもしれない。いや、熟年婦人のかそけき思い出かもしれない。さて、私などが子どものころ、雪国では夕べ煮付けて鍋に残したままのタラかカレイの煮汁が、寒さのせいで翌朝には煮凝となった。そんなものが珍しく妙においしかった。現在の住宅事情でそんなことはあるまい。酒場などで食すことのできる煮凝は、頼りないようだがオツなつまみである。「煮凝」と言えば、六年前の本欄で、私は小沢昭一の名句「スナックに煮凝のあるママの過去」を紹介させていただいた。暁子の俳号は郭公。「話の特集句会」で投じられた句であり、暁子は学生時代、恩師暉峻康隆に伊賀上野へ連れて行かれたことが、俳句に興味をもつ契機になったという。歴代の名句を紹介した『この一句』という著作がある。他に「冬眠の獣の気配森に満つ」という句がある。矢崎泰久『句々快々』(2014)所載。(八木忠栄)


December 24122015

 冬の蚊のさびしさ大工ヨゼフほど

                           池田澄子

日はクリスマスイブ。家がカトリックだったので小さいころから夜中のミサに出かけるのが常だった。ツリーやプレゼントで浮き立っている街をよそ眼にひたすら地味なクリスマスを過ごした。聖家族の中でもマリアやキリストに比して話題にのぼらないのが大工ヨゼフ。飼葉桶に眠る赤子のイエスに跪いてマリアと共に見守る以外聖書の中でも出番がない、現在の父親並みの影の薄さである。セーターの上から人を刺しても満腹になるとは思えず寄る辺のない冬の蚊と聖家族の中に居づらい様子の大工ヨゼフのさびしさ。こんなことをよく思いつくなぁ、クリスマスがあっても聖家族を思うことすら少ない世の中で。『拝復』(2011)所収。(三宅やよい)


December 25122015

 ペンギンのネクタイ揃うクリスマス

                           曽我喜代

ンギンは主に南半球に生息する海鳥であり、飛ぶことができない。ほとんどのペンギンは他の鳥類と同様に春から夏にかけて繁殖するが、最大種のコウテイペンギンは、-60℃に達する冬の南極大陸で繁殖する。そのため、世界で最も過酷な子育てをする鳥と言われる。その容姿は燕尾服の正装を思わせ蝶ネクタイでもしている雰囲気で直立している。そんなペンギンの群れはあたかも夜会服に一同打ち揃ったかのように見えてくる。そう言えば今日は我家にも珍しく家族全員が揃った。話が弾むこの平凡に感謝するクリスマスの食卓である。「朝日俳壇」(「朝日新聞社」2015年1月5日付)所載。(藤嶋 務)


December 26122015

 千の葉の国に住みつき大根食ぶ

                           鳥居三朗

葉という県名は、県庁所在地の千葉市の地名から名付けられたというが、千葉という地名そのものの由来は諸説ある。しかし、千の葉、と美しい言葉で表現されると、豊かな自然と土壌が思われてなるほどと思う。千葉県八千代市にお住いだった作者、千葉名産のピーナッツが好物と伺ったが、今日は大根を食べている。今が旬のこの野菜、生でも煮ても焼いてもおいしく、その生活感が日常の幸せを思わせる。都会過ぎないけれど便利で住みやすい八千代での暮しにしみじみと幸せを感じながら、よく煮えて味のしみた大根をおいしそうに食べている様子が思い浮かぶ。飾らず優しく自然体だった鳥居三朗さんだが、今年の九月、あっというまに旅立たれてしまわれた。思い出されるのは笑顔ばかり、心よりご冥福を祈りつつ今年最後の一句に。合掌。『てつぺんかけたか』(2015)所収。(今井肖子)


December 27122015

 百八はちと多すぎる除夜の鐘

                           暉峻康隆

者、暉峻(てるおか)康隆は江戸文学の泰斗で、とくに西鶴研究の第一人者です。1980年代にはNHKお達者文芸で短歌・俳句・川柳の撰者として、その洒脱な話術で小鳩くるみと共演して視聴者を楽しませました。私は、大学を卒業してからも社会人講座で先生の話芸を楽しみながら芭蕉と蕪村と一茶を学びました。その時、「蕪村も生前は句集を出さなかったのだから俺も出さない」とおっしゃっていたことを覚えています。掲句は先生の死後、早稲田大学の教え子たちが遺稿一千余枚を編集した『暉峻康隆の季語辞典』(2002)に所載された句です。先生は句集は出しませんでしたが、季語と例句解説の最後に「八十八叟の私も一句」と締めます。この季語辞典で、鹿児島県志布志町の寺に生まれた暉峻は、百八の鐘のルーツを探っています。以下、要旨を記します。江戸中期の禅宗用語辞典『禅林象器箋』(1741)に「仏寺朝暮ノ百八鐘、百八煩悩ノ睡ヲ醒ス」とあり、寺の百八の鐘は毎日の朝暮の鐘のことだった。それをサボッテ、除夜だけ百八鐘を撞くようになったのは江戸後期からである。「百八のかね算用や寝られぬ夜」(古川柳)は、宝暦年間(1751~1764)の作で、除夜の鐘の句の初見である。句意は、西鶴の『世間胸算用』にもあるように、大晦日の夜更けは借金取りが押し寄せるので安眠できない庶民の実情。つぎに、「どう聞いてみても恋なし除夜の鐘」(乙二・1823没)。辞典をそのまま引用すると、「この人は歳時記にとらわれない実情実感派であったようだ。人間の煩悩の中でもっとも重い性愛を筆頭とする百八煩悩を浄めるための除夜の鐘なのだ、と思いながら聞くのだから、色気がないと思うのはもっともだ」。さて、「除夜鐘・百八鐘」が季語として定着したのは意外に新しく、改造社版『俳句歳時記』(1933)と翌年刊、虚子の『新歳時記』からで、その虚子に「町と共に衰へし寺や除夜の鐘」がある。だから、一般的な歳時記の例句も近現代なんですね。掲句に戻ります。私の記憶では、掲句は先生が1988年(八十歳)頃の朝日新聞夕刊でインタビューされていた時に引用されていて、当時の仕事仲間もこれを読んで、「年をとるとこんな心境になるのかねぇ」と云っていました。自身は辞典の中で「実感であるが、煩悩を根こそぎ清算されると、いくら因業爺でも来る年が淋しい。」と書き、「新しき煩悩いずこ除夜の鐘」で締めています。米寿を過ぎて、この前向き。(小笠原高志)


December 28122015

 老人はすぐ死ぬほっかり爆ぜる栗

                           坪内稔典

生観などというものは、それを考える者の年齢や体調によって変化する。夏くらいから調子をくずして、病院通いがつづいていた。ここに来て無罪放免とはいかないけれど、一応日常的には病院と縁が切れたのだけれど、最近は自分の死に方についてあれこれ考える機会が多くなってきた。そんななかで出会った一句だが、いまの私の死生観に近い心境が詠まれていると思った。ざっくばらんに言ってしまえば生きていることについて、「もうこの辺でいいや」という感覚が濃くなってきた。といって自暴自棄というのではなく、句にあるような一種なごやかな思いのうちに死んでいけそうという思いのなかで、人生上の納得が得られそうな気が得られそうだからだ。まこと人がおだやかに逝くとは、栗がほっかり爆ぜるように、やすらかな自爆を起こすからなのだろう。『ヤツとオレ』(2015)所収。(清水哲男)


December 29122015

 一日の終ひの寝息蜜柑剥く

                           富樫 均

息はもちろん作者のものではなく、家族の誰かのもの。おそらく、子どもの健やかな寝息を確認したあとの、夫婦におとずれた心休まる時間だろう。蜜柑の清冽な香りと、元気や活気を感じさせる色彩が、家族とともに今、幸せなひとこまを過ごしていることを実感する。今年もあと数日。一日のおしまいが、一年のおしまいとなる日も近い。おだやかな一年を過ごせたことに感謝しつつ、またひとつ蜜柑に爪を立て、幸せな時間を堪能する。『風に鹿』(2006)所収。(土肥あき子)


December 30122015

 行く年しかたないねていよう

                           渥美 清

さん、じゃなかった渥美清が亡くなって、来年は二十年目となる。早いものだ、と言わざるを得ない。世間恒例のあれこれの商戦や忘年会も、過剰なイルミネーション(当時はそれほどでもなかったか)も、ようやく鳴りをひそめてきた年末。あとは残った時間が否応なく勝手に刻まれるだけ。反省しようとジタバタしようと、年は過ぎ行くのみ。「しかたない」のである。だから「ねていよう」というのである。いいなあ。どこやら、寅さん映画に出てくる旅先、お馴染みの寅さんの姿が目に浮かぶ。上五・中七の字足らずの不安定感が、年も押し詰まった旅の空で、皮鞄を脇にして寝るともなく寝ている姿を彷彿させてくれる。いや、清自身も実際にそういう生き方をしていたのかもしれない。「話をしようにも話し相手すらいない旅の一夜である。(中略)実体験であろうが、寅さんの旅のワンシーンにも重なってくる」と石寒太は鑑賞している。その通りだ。四十五歳だった清が、一九七三年十二月の「話の特集句会」に投じた句である。「立小便する気も失せる冬木立」の一句がならんでいる。森英介『風天』(2008)所載。(八木忠栄)


December 31122015

 大年の土間のバイクと日のすぢと

                           大石香代子

会の家は土間を作る余裕などないのだろうが、昔の作りの家は玄関の引き戸を開けると比較的広い土間があって、雨がひどい日などは自転車や外の植木などを取り込んだものだ。外と段差がない土間ならではの収納スパースはいろいろなことに活用された。ある家では軽自動車が両端ぎりぎり収まっていて、なんという運転技術。と驚いたこともある。おおみそかの日、家のうちもすっかり片付いて。今年一年働いてくれたバイクも磨き上げ、土間に引き入れた。引き戸の間から差し込む光は今年最後の「日のすぢ」でもある。ひと仕事終えて、ふっと目をやった先にあるひっそりとした大晦日の空気感が表現されている。『鳥風』(2015)所収。(三宅やよい)




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