2015N127句(前日までの二句を含む)

December 07122015

 俺たちと言ふ孫らきて婆抜きす

                           矢島渚男

しはやいが、新年の句を。このとき、お孫さんは小学校低学年くらいだろうか。まだ十分に幼く可愛らしい顔をしているのに、突然「俺たち」などといっちょまえの口をきいて、作者を驚かす。だが、いっしょに婆抜きをはじめてみると、そこはそれ、やっぱり手付きも考えも幼くて、勝負にはならない。というか、こちらが上手に負けてやるのに一苦労する羽目になってしまう。たいていの家庭での正月の孫とのつきあいはこのようであり、コミニュケーション・ツールとしてのカードや双六は、それなりの成果をあげてきた。かつての我が家でも、カードなどが引っ張り出されるのは、年に一度の正月だけだった。が、最近の孫たちとのつきあいはずいぶんと様変わりしていて、大変なようだ。第一にいまどきの子供たちは婆抜きなどには興味を示さない。彼らの得意はひたすらに電子的なゲームにへだたっており、老爺が相手になりたくても、まずは簡単な操作がままならない。上手に負けるなんて芸当はとてもできないから、弱過ぎてすぐに相手にならないと飽きられてしまう。そこで「俺たち」は俺たち同士で遊ぶようになり、年寄りはみじめにも仲間外れにされてしまうのだという。時代といえば時代だけれど、孫に限らず、世代間をつなぐ遊びのツールが失われたことは、大袈裟ではなく、世も末の兆候ではないか。「延年」所収。(清水哲男)


December 06122015

 寒鯉を抱き余してぬれざる人

                           永田耕衣

条理です。高校時代に背伸びをして読んだカミュの『シーシュポンスの神話』に、こんな記述がありました。「川に飛び込むが、濡れないことを不条理という」。『異邦人』のムルソーの心理を説明している箇所でしょうが、当時は全く理解できませんでした。しかし、身の回りで時に起こる不条理な事象を見、聞くにつれ、今はカミュの不条理が腑に落ちます。さて、掲句では、寒鯉を抱いているのにぬれない人が存在することを書いているのだから、不条理です。訳がわかりません。ところが、句集では次に「亡母なり動の寒鯉抱きしむる」があったので、句意がはっきりしました。「ぬれざる人」は「亡母」のことでした。ならば寒鯉は、生前も死後も母を深く慕っている息子耕衣その人でしょう。寒鯉のように、生臭く濡れている自身を母は死んだ今でも抱きしめにやってきてくれる。三途の川の向こうは、濡れるということがないのでしょう。あの世という形而上学には、涙や汗の質感がないのかもしれません。句集には「掛布団二枚の今後夢は捨てじ」もあり、母に抱かれる夢を見ているのかもしれのせん。となれば、掲句を不条理とするのは間違いで、夢幻とすべきでしょう。『非佛』(1970)所収。(小笠原高志)


December 05122015

 うしろより足音十二月が来る

                           岩岡中正

日少ないというだけでなく、十月に比べ十一月は本当にすぐ過ぎ去ってしまう。毎年同じことを言っていると分かっていながら十二月一日には、ああもう十二月、とつぶやくのだ。そんな十一月の、何かに追われるような焦りにも似た心地が、うしろより足音、という率直な言葉と破調のリズムで表現されている。ひたひたとうしろから確実に迫ってくる十二月、冬晴れの空の青さにさえ急かされながら、十一月を上回る慌ただしさの中で過ぎてゆく十二月。そして正面からゆっくりと近づいて来る新しい年を清々しい気持ちで迎えられれば幸いだろう。同じように破調が効いている〈栄華とは山茶花の散り敷くやうに〉から〈行く年の水平らかに鳥のこゑ〉と調べの美しい句まで自在に並ぶ句集『相聞』(2015)所収。(今井肖子)




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