2015N1223句(前日までの二句を含む)

December 23122015

 思い出は煮凝ってなお小骨あり

                           下重暁子

い出が煮凝る、とはうまい! なるほど、甘い思い出も辛い思い出も、確かに煮凝みたいなものと言えるかもしれない。しかも「小骨」のある煮凝であるから穏やかではない。この「小骨」はなかなかのクセモノ、と私は読んだ。読む者にあれこれ自由な想像力を強いずにはおかない。小骨。それはうら若き美女がそっと秘めている思い出かもしれない。いや、熟年婦人のかそけき思い出かもしれない。さて、私などが子どものころ、雪国では夕べ煮付けて鍋に残したままのタラかカレイの煮汁が、寒さのせいで翌朝には煮凝となった。そんなものが珍しく妙においしかった。現在の住宅事情でそんなことはあるまい。酒場などで食すことのできる煮凝は、頼りないようだがオツなつまみである。「煮凝」と言えば、六年前の本欄で、私は小沢昭一の名句「スナックに煮凝のあるママの過去」を紹介させていただいた。暁子の俳号は郭公。「話の特集句会」で投じられた句であり、暁子は学生時代、恩師暉峻康隆に伊賀上野へ連れて行かれたことが、俳句に興味をもつ契機になったという。歴代の名句を紹介した『この一句』という著作がある。他に「冬眠の獣の気配森に満つ」という句がある。矢崎泰久『句々快々』(2014)所載。(八木忠栄)


December 22122015

 冬至といふ底抜けに明るい日

                           能村登四郎

至とは一年のなかで太陽が最も南に寄るため、北半球では昼が一番短い日となる。偉大な太陽の力が脆弱となるため、さまざまな国で厄よけや滋養に力を尽くす風習が残る。日本でも江戸の銭湯が考案したという柚子湯や、長期保存が可能な南瓜や小豆を食べて風邪をひかないように工夫した。しかし、昼が短いとはいえ、この時期は冬型の気圧配置となり、太平洋側ではよく晴れる日が多い。澄んだ冬の空気が万象の輪郭を際立たせる様子を華美な表現を用いず、「底抜け」と直截に言い切ったことで、いっそう明朗な景色が描かれた。『幻山水』(1972)所収。(土肥あき子)


December 20122015

 その中の白衣も遺品熊楠忌

                           小畑晴子

和16年12月29日、博物学者・南方熊楠が亡くなりました。広汎な視座を持った世界的な学者でしたが、私は、粘菌学者としての熊楠に魅かれています。正岡子規、夏目漱石とは東京大学予備門の同級生でしたが、代数の得点が足りず落第。博覧強記とは熊楠のためにある言葉だと思いますが、唯一計算だけが苦手でした。19〜24歳のアメリカ留学時代に植物採集に開眼し、25〜32歳のイギリス滞在中は、科学雑誌『ネイチャー』に三十本もの論文を投稿。その頃、イギリス人たちに対して英語で東洋の学問の伝統を説く活動に刮目したのが、亡命中の若き孫文でした。三か月の間、大英博物館やパブで語り合った別れ際、孫文は「海外逢知音(海外にて知音と逢う)」という一句を熊楠の日記帳に記しており、これは現在も和歌山県白浜にある南方熊楠記念館に所蔵されています。掲句の白衣もまた、同所の展示物でしょう。私は今年、熊楠をモチーフとしたドキュメンタリー映画『鳥居をくぐり抜けて風』(池田将監督、公開未定)を製作しました。紀伊半島の鎮守の杜を中心に撮影しています。三年前にロケハンに行く時、一つの謎がありました。和歌山県は、熊野本宮がある土地なのに神社の数が438社しかなく、全国で46位です。ちなみに1位は新潟県で、4775社です。その謎を解いてくれたのが熊楠記念館に展示している新聞記事と文書でした。要約すると、明治39(1906)年、西園寺内閣は神社合祀令を発令。神社を「官社」「府県社」「郷社」「村社」「無格社」に系列化して大整理をしたことによって、全国20万社のうちの約7万社が合祀。とくに、三重・和歌山ははなはだしく、和歌山では3713社のうち7割近い2913社が合祀された。熊楠は、庶民の生活に結びついた神社を合祀することによって伝承されてきた民俗が絶え、また神社林を中心とした自然の生態系が破壊されることをおそれ、果敢に反対した。日本で最初の環境保護運動を行なう中、柳田国男宛の書簡でこれも日本で初めてecology(エコロジー)という言葉を使っている。合祀令の思考には、中央集権化を推進していく一神教的な合理主義がはたらいているので、神社林といったあいまいかつ非生産的な空間を整理統合しようとします。これが、戦前の国家神道のひとつのあり方であり、天皇原理主義でもありました。しかし、それぞれの鎮守の杜は、その土地独自の生態系を形成しています。目には見えにくい大切なはたらきをする存在を神というならば、熊楠は、動物と植物の中間的な性質を持ちつつ、それぞれを繋いだ粘菌類のはたらきに神を見、鎮守の森の空気の清らかさそのものの具体的な現実に、抽象的な創造主とは違う日本のアイデンティティを見いだしていました。生物学者でもあった昭和天皇は、昭和37(1962)年に南紀白浜を訪れた時、田辺湾神島における熊楠の粘菌類ご進講を懐かしみ、「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠みました。『新日本大歳時記 冬』(講談社・1999)所載。(小笠原高志)




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