2016N114句(前日までの二句を含む)

January 1412016

 鏡餅開く僧侶の大頭

                           波戸辺のばら

開きは十五日だと思っていたが、関東では十一日という説もある。どちらにしても鏡開きをしてぜんざいを作る家も少なくなっているのではないか。だいたいがマンション暮らしだと床の間もなく鏡餅を飾る場所もない。カビが生えないようパック入りの鏡餅をテーブルに置くぐらいだが、この句の鏡餅は床の間に飾られた立派な鏡餅でないといけない。もとより僧侶の大頭で鏡餅をかち割るのではないけれどこう並列に並べられてみると、別別の事項であっても連想が結びついて笑ってしまう。僧侶の大頭でかち割られた鏡餅は豪快に砕けそうだ。『地図とコンパス』(2015)所収。(三宅やよい)


January 1312016

 初暦知らぬ月日の美しく

                           吉屋信子

が改まると同時に、どこの家でもいっせいに替わるのが暦(カレンダー)である。真新しくて色彩やスタイルがさまざまな暦が、この一年の展開をまだ知らない人々の心に、新しい期待の風を吹きこんでくれる。心地よい風、厳しい風、いろいろであろう。この先、どんな日々が個人や世のなかにまき起こすことになるのか、まだ予想もつかない。せめて先々の月日は「美しく」あってほしいと誰もが願う。何十年と齢を重ねてくると、だいたいあまり過剰な期待はもたなくなってくる。悲しいことに、その多くが裏切られてきたから。ことに昨今の国内外の穏やかならぬ想定外の事件や事故の数々。わが身のこととて先が読めない。いつ何が起こっても不思議はない。せめて「知らぬ月日」は「美しく」と切望しておきたい。加藤楸邨の句ではないが、まさに「子に来るもの我にもう来ず初暦」である。『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)


January 1212016

 もつと軽くもつと軽くと枯蓮

                           藺草慶子

あふれる蓮の葉、高貴で香しい蓮の花の時期を通り過ぎ、蓮の骨ともいわれる枯蓮は、耐えがたい哀れを詠むのが倣いである。ところが掲句は一転して、蓮は枯れることで軽くなろうとしているのだと見る。日にさらされ尽くした蓮は、風に触れ合う音さえも軽やかである。それはまるで植物としての使命を終えたのちに訪れる幸福な時間にも思われる。黄金色に輝く杖となった蓮の「もっともっと」のつぶやきは、日のぬくみとともに作者の胸の奥にも静かに広がっていることだろう。『櫻翳』(2015)所収。(土肥あき子)




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