2016N619句(前日までの二句を含む)

June 1962016

 木にも在る白桃を手に独り行く

                           永田耕衣

桃は、エロティシズムの象徴です。これを手に独り行くとき、その足どりは浮かれているのか、それとも忍び歩きなのか。上五と中七では、白桃が存在している場所が違います。「木にも在る」白桃は、その花が結実して種を内包しています。枝にたわむ果肉は、虫鳥猿に食べられて、ポトリと落ちた種は地中に潜み、やがて新しい命の芽を生むこともあるでしょう。一方、「手に」持たれた白桃は、果肉を人間に食われ、種は、ゴミ収集車に運ばれて処分されます。「私が手にしている白桃は既に死んでいる 」。これを自覚しているゆえ、「独り行く」その歩みは浮かれてはいないようです。句集では、掲句の次に「白桃の肌に入口無く死ねり」があるからです。枝からもぎ取られた白桃は、自然界の循環の輪から切り離された「入口無」き存在でしょう。あらためて掲句を読むと、死を抱えて行くということは、単独な道行きなのだということがわかります。その足どりは、人さまざまでしょうが、浮かれ歩きではなさそうです。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)


June 1862016

 水澄し見る水の上水の中

                           そら紅緒

舞虫(まいまいむし)ともいわれるミズスマシ。ランダムな曲線を描きながら水面を忙しく動き回っている。じっくり見たこともないのであらためて調べるとなかなか興味深い体の作りだ。特に眼、二つの複眼はそれぞれ水中用と水上用に仕切られ計四つに分かれているのだという。掲出句を読んだ時は、水面から上を見たり下を見たりしながら進んでいるのかと思ったがそうではなく、あの素早さで動きながら水底も空も同時に見えているということだ。あらためて声に出して句を読んでみると、重なる四つの、み、と七七五のリズムに、想像もつかないミズスマシの視界を体感しているような不思議な世界に引き込まれる。作者は沖縄在住、句集名は沖縄の言葉で「蝶」のことである。『はあべえるう』(2015)所収。(今井肖子)


June 1762016

 民芸品売りて軽鳧の子育てをり

                           前田倫子

鳧(カルガモ)は全国の水田、湖沼、川等で繁殖する留鳥である。冬には市街地の公園の池にもたくさんいる。顔は淡色で筋がありクチバシの先は橙色で足が橙赤色である。野生の鳥は警戒心が強いのが普通ではなかなか人間に懐つかない。しかし中には奇跡的に野鳥が人に懐いた例を耳にする。多くのケースでは雛に孵った時に人間を目にして懐いたという。観光地の民芸品を商う店の傍に池があり軽鳧が子を産んだ。店の主人はせっせと餌を与えたり鴉を追ったりして面倒をみている。ここでは人と野鳥が信頼関係でしかと結ばれている。無償の愛は通じるもんだと愚考する次第である。その他<翡翠の一閃したる神の滝><八月の忘れもの吊る海の家><薫風や全身で吹く大ラッパ>など。『翡翠』(2008)所収。(藤嶋 務)




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