May 172010
胸を打つ麦秋の波焦げ臭し
櫻井ハル子
毎年この時期に久留米(福岡県)に出かけて行く。楽しみもいろいろあるけれど、その一つは、博多久留米間の鹿児島線の車窓に果てしない麦畑が展開していることだ。ちょうど「麦秋」の候。何度見ても、惚れ惚れするくらいに美しい。そんな景色を詠んだ句は枚挙にいとまがないが、掲句は麦秋を遠望したものではなく、麦秋のただ中にある人の句である。つまり麦刈りの現場をうたっていて、実はこうした句はあまり詠まれてこなかった。麦刈りにせよ田植えにせよ、多くの句は遠望の美というのか、労働現場から完全にはなれたところで詠まれている。戦後に流行した言葉を使うと、ほとんどが「青白きインテリ」の句になってしまっている。農家の子でもあった私には、いつもそのことが不満で、ひところは麦秋だろうが田植えだろうが、汗の匂いのしない句には単純に拒絶反応を起こしたものだ。農民には、美の享受の前に生活がある。苦しい労働がある。そのことに思いを馳せることなく「きれいだなあ」だなんて、ふざけるなと思っていた。芭蕉や蕪村の句だって、そういう観点からは同じこと。遊び人の慰みごとでしかない。掲句の「胸を打つ」は文字通りに労働のさなかの実感であり、「焦げ臭し」も麦畑にかがまなければ感じられない臭いだ。最近の農作業は機械化が進んでおり、もはやこうした麦刈りの実感もなくなっているはずだけれど、鹿児島本線の車窓から見える麦秋の風景に魅せられつつも思うのは、いつもこうしたことどもである。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
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