葛西



水族館。 あの、魚のいるところ。 初めて水族館に連れて行ってもらったのは、 八歳か九歳の頃、 場所は油壺か阿字ヶ浦だった。 本物の水族館に来たというだけで、 ひどくうれしかったことを覚えているが、 それ以外何も覚えていない。 その頃、この葛西の水族館のあたりは海だったはずだ。 最後に水族館に行ってから二〇年はたっただろう。 久しぶりに水族館に来られたのは、 子供というものを持ったせいだ。 ナオキくんはまだ一歳半だから、 水族館に来て何を思ったのかを、 言葉では説明してくれない。 ただ、 水と空気を垂直に隔てる大ガラスに手と顔を張り付けてはいる。 (立体メガネで見るオーストラリアの海の映画には全然興味を示さなかったくせに) この水族館は、 小さな水槽に珍しい魚を泳がせているだけではなく、 大人の背丈の倍以上ある深くて大きい水槽に、 マグロとカツオの群れを泳がせているのが取り柄だ。 互いにぶつかり合うことなく泳いでいるのだから、 (それどころか群れとしての調和の取れた動きを作っている) 彼らの目は見ているはずだが、 何を見ているのかは想像がつかない。 マグロの目は動かない。 外から驚かせてみても、 まったく反応しないようである。 (ガラスを叩いたくらいでは驚かないのかもしれないが) 建物の外に出ると東京湾が見える。 舞浜のホテル群の方から赤トンボ。 ほら、これが赤トンボだよと言っても、 短い坂を上ったり下りたりして喜んでいる ナオキくんは足元ばかり見ている。




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子供の芝居



子供を見ているとひょんなことを思い出すものである。 子供の頃の私のなかには、 みんたかとかつんたかとかじゃあたかといった連中が住んでいて、 あたりが静かになると、 もぞもぞと動き出して、 芝居のようなことをするのである。 そのみんたかとかつんたかとかじゃあたかは、 それぞれきゃらくたあというものを持っていて、 よく出てくるやつもいれば、 めったに出番のないやつもいる。 (よく出てくるからといってそいつが好きだとは限らないのだ) 話の内容やそいつらがどんなやつだったかは忘れてしまった。 いずれ眠って夢でも見ていたのだろう。 覚えているのは、 騒がしかった雰囲気と名前の一部だけ。 いつの間にか一人も出てこなくなって、 そんなやつらがいたことさえ忘れていた。 それにしても、 その芝居を見ていた私は誰だったのだろう。 今ごろそんなことを思い出す私も。




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コーヒーのいれ方



コーヒーをいれるには、 できれば一人分ではなく、二、三人分。 まず、紙の臭いを消すために 濾紙に湯を通す。 (水じゃ臭いが消えない) 冷凍庫に保存しておいた豆は荒く挽く。 (細かく挽くとゴミが落ちるからね) ドリッパーに豆を入れたら、 沸騰する寸前の湯を少しずつ注ぎ、 全体を湿らせて三十秒から一分間そのままの状態に。 (ぷっとふくらませてコーヒーの匂いを引き出すのだ) そして豆が上下に渦を巻かないように注意しながら、 ドリッパーの上のふちまで静かにまんべんなく湯を注ぐ。 そのあとも湯の表面がドリッパーの上のふちから下がらないように、 (これもゴミを落とさないようにするため) 少しずつ少しずつ湯を足さなければならない。 最後に、 湯をいっぱいにしたまま、 ドリッパーを外すんだ。 もったいないとか言うなよ。 うまいコーヒーを飲みたければ、 中途半端はだめだ。 Kはステロタイプな「活動家」を演技できる男だった。 それを知らない相手にはきっと恐かったことだろう。 (わかってもらいたい相手じゃなかったけどな) 論理的にもヘマはあまりやらなかったが、 何よりも物理的に恐かったはずである。 Kとは一年間毎日顔をつきあわせていたが、 彼が先に卒業して以来一度も会わなかった。 会わなくなって十年後、 Kが死んだということを人伝てに聞いた。 そのとき、Kのことで具体的にはっきりと覚えていることが Kから教わったコーヒーのいれ方だけだということに気付いた。 十年間、 コーヒーをいれるときにはいつもこのレシピに従ってきたのである。 (一人でも二、三人分) Kが死ななくても、 おそらくKとは二度と会わなかっただろう。 しかし、Kが死んでから、 コーヒーをいれるたびに、 これはKに教わったんだということを以前よりも少し余計に思い出す。 きっと輪郭がはっきり見えるようになったのだ、過去のこととして。 私はKを自分のなかで完結させた。 Kには悪いが、その分、 私は少し身軽になったのである。




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その後



この間は失敗した。 身軽になったとか、完結させたとか言ってしまった分、 忘れられなくなってしまった。 気持ち悪くひっかかっているのである。 残された妻子のために カンパの口座が開かれていることを教えてもらって、 何日もたってから、月五万円の小遣いから 一万円振り込んだときのように、 気持ち悪い。 (なんで一万円なんだよ) ところで、覚えていたのはコーヒーのいれ方だけではなかった。 ウォッカのトマトジュース割りの作り方も教わっていた。 (ブラディマリーだっけ?) 調合の割合は忘れてしまったからコーヒーのいれ方ほど 正確に覚えていないというだけである。 しかし、考えてみれば、コーヒーのいれ方も、 細かい言葉は覚えていない。 間違って覚えている部分もあるのかもしれない。 どちらも、教わった場所は特定できる。 同じ場所だもんな。 Kはウォッカの入っていないトマトジュースも、 よく飲んでいた。塩が入っていると血の味がするからといって、 無塩というのを飲んでいた。 私は、血の味がする方が好きだ。 その頃は飲めなかったが。




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さらに



考えてみれば、死んだのはKだけじゃない。 別のKもTもまた別のTも死んだ。 KとTは知り合いでTと別のKも知り合いだが、 Kと別のKは互いに知らない。 別のTはKも別のKもTも知らない。 別のTのときには、内輪向けに 追悼文のようなものも書いたが、 今は抹殺したい。 結局、あとで考えることはいつも同じなのだ。 K以外は通夜にも行った。 名前だけ知っていて面識のないAの通夜にも行った。 Oが電話をかけてきて、 おろおろした声でAが死んじゃったよと言い、 お前も当然行くんだろという勢いだったので、 つられて行ってしまったのだ。 通夜のあと二次会もあって三次会さえあったのだが、 全部行ってしまった。 Aはある党派に属していたことがあり、 それをやめてからしばらくして ある労組でも働いていたことがあったので、 二次会には、それぞれ主張の異なる 雑多な人々が集まり、自己紹介などをした。 あの野郎、よく言うよ、 などと耳打ちしてくる、ひそひそ声などがあった。 私は、実はAとは面識がないんだけど、と正直なことを言った。 あとで、Oが、 あれ、お前Aのこと知らないんだっけ、と言った。 Oはいいやつだ。




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りんご



ナオキくんがりんごを食べる。 小鉢に薄く切ったりんごが三切れ。 1/4個分というところだろうか。 まず一切れをかじる。 気がつくともう両手に一個ずつ握っていて、 かじってない方を口の前に持っていっている。 母親が「一個ずつでしょう?」と言って、 それを小鉢に戻させる。 気がつくともう両手に一個ずつ握っていて、 かじってない方を口の前に持っていっている。 母親はもう洗濯物を干しに行っているので、 今度は私が小鉢に戻させる。 気がつくともう両手に一個ずつ握っていて、 両方ともかじったあとが付いている。 こういうことで既成事実を作らせてはいけないのだ、 シツケのために、 と少し気合を入れて、 語調も少し強める。 ナオキくんは、えへへっ、と笑う。 前はこれでこちらがなごんでしまったが、 今はその手は食わない、さらにくどくど言う。 ナオキくんは、ハイ、と言って、 私にリンゴを渡す。 私が小鉢に戻す。 気がつくともう両手に一個ずつ握っていて、 小鉢のなかの一個にもかじったあとが残っている。 ああ、もう、うんざり。 母親は洗濯物を干し終わったはずなのに、 どこにもいない。 なんで最後までみてやらないんだ。 おれにばっかり押し付けやがって、 ついに爆発。 一つずつ食べろって言ってんのがわかんないのか! ナオキくん、びっくり。 えへへっ、の笑い声もない。 いつの間にか戻って古新聞を片付けていた母親も、びっくり。 私も恥ずかしい。声を少し優しめに変えて、りんごを小鉢に戻させる、 それでも、 気がつくともう両手に一個ずつ握っていて、 小鉢のなかの一個にも、もちろんかじったあとがある。 母親が「さっきお父さんにも言われたでしょう?」と言って 一個を小鉢に戻させる。 「一人っ子ってのは、どうしても、独占欲が強くなるからなぁ。 オレは自分がそうだったからよくわかるのよ、大人になったら、 染み付いたのを抜くのが大変だからさぁ」などと母親に言う。 (そうそう、問題はシツケだったのである) 母親は「うんうん、わかるような気がする」と相づちを打つ。 (何がわかったのだろうか?) ナオキくんは 腹一杯になって、 小さなかけらを三つ小鉢に残して、 隣の部屋に、だっだっだっだっ、と走っていった。




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本当のこと



会社も仕事納めということで、 夕方から一杯やることになり、 最初こそ不景気な一年にふさわしく話題も湿っぽかったが、 アルコールが回るにつれて饒舌になり、 おれにはこんなにしゃべることがあったっけと思うほど 喋っているうちに、 「お前は正しいことを言う、本当に正しいことを言うが、 そういうことは言わない方がよい。 友達をなくすぞ」 とHに言われ、 一応最初にこちらを立ててくれた分、少し救われたものの、 心あたりがあったもので非常に動転し、 あわててその場を取り繕ったが、 (確かHには前にも同じことを言われたような気がする) 一体自分がどういう正しいことを言ったのか、 あとになってみると思い出せない。 気になってあれこれ考えているうちに、 別のことを思い出した。 子供の頃、私は母に叱られるたびに 猛反発していて(よくあることだ)、 そのたびに母は、自分はお前のためにいやいや 叱っているのであって、好きで叱っているのではないと まくしたて、いつもはその辺で私も鉾を収めていたのだが、 あるとき、どうしても収まらなくて、 うそだ、本当は感情を爆発させているくせに、と言い返し、 母の怒りの炎に油を注いだのであった。 実は、素朴な疑問をぶつけてみただけのことだったのだが、 三つ子の魂にはいつまでも悩まされるものである。




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流し台にみかんの皮が二つ、 飛び散っている。 彼女が二メートル先からそれを投げ、 「今日は何もしないのに疲れた」 と言った。 みかんの皮が当たって洗剤が流し台に落ち、 ころんころんと乾いた音を立てた。 横に立っていた私はびくっとして卑屈になり、 みかんの筋が皮から飛び出して流しの外に広がっていたのを 拾って流しに捨てた。 (筋なんか丁寧に取っていたのは私の方だ) みかんを食べたのは夕食後のこたつ。 彼女が二つ持ってきて一つを私に差し出した。 私が筋を取っている間に、 彼女は食べ終わっていた。 (そのとき何を話していたんだっけ) 彼女が寝てから台所に水を飲みに行く。 流し台にみかんの皮が二つ、 飛び散ったまま残っている。




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眠い



朝起きて ごはんを食べたら もう眠い かばんに引きずられて外には出たが 石にけつまづいて たたらを踏んだ 電車に乗って 一人分の席を確保すると ああ眠い とてつもなく眠い そのまま意識がなくなり 気がつくと電車は目的地よりも一つ先 かばんをつかんで慌てて下りたときに 笑いやがったな おれの前に立っていた女よ いびきでもかいていたのかもしれないが この間お前とは別の女が おれの前で薄目を開けて舟を漕ぎながら 鼻ちょうちんを膨らませていたときには おれはそっと視線を外してやったのだぞ お前とは関係ないけど そしておれは階段でまたもけつまづいたのだ




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足留まり



胸のあたり 気分が悪いなと思いながらも むりして出てきたのだけれども 誰もいない田舎道のまん中で 足がからまってしまって 動けない たんぽぽが咲き ヒバリがピーチク鳴くけれど このまま動けないと 溶けてなくなってしまうなと 思うのだけれども 春の日は長くいつまでも落ちない




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夜の海から



一晩じゅう、きみが出てくるのを待っていた。 普段はそんな気分にはなれないものだが、 その日は、 付き合い始めたばかりの恋人のように、 優しい気分になれた。 (二人でアイスクリームなんかなめちゃってさ) ほかにすることもないので、 話をしていたけれど、 そのうち話すこともなくなった。 波がやってくると、 二人の呼吸を合わせた。 静かなときには、 彼女の寝顔を見ていた。 夜の海をずっと見ていたのは初めてだ。 波はしだいに高くなり、 激しくなった。 でもきみはまだ来ない。 ずっと待っていた。 いつまでも待っているんじゃないかと思った。 東の空が明るくなり始めたときに、 やっときみは出てきた。 出てきてみれば意外にあっけなかった。 きみは一瞬ためらったあと小さく泣いた。 きみと同じように出てきた子の泣き声が、 遠くから聞こえてきた。 きみのお母さんは、 しばらくベッドから立ち上がれない身体になったけれど、 笑った顔がかわいかったよ。




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ダイエット



きみは太っている? それともやせている? 太っているとしたらどこが太っているの? 足? 腹? 頭? 心臓? 何と比べて太っているわけ? ほかの人? ほかの腹? ほかの心臓? どうやって比べたの? 本当に比べられるの? それとも気持ちの問題? コンプレックスになっている? 普段は気にしない? でもこうやってしつこく聞かれるのはいや? それとも本当はやせているの? やせているって気分いい? 食べたいもの我慢したの? 食べても太らないの? それとも食べた以上に身体を動かしたの? やせるために身体を動かすわけ? やせる以外にも何か得になることがある? でもやせるのも目的だよね? 自分より太っているヤツを見ると 優越感持っちゃう? それともそんな感じ方はいやらしい? でも自分が太るのはいや? ほかに考えることないの? (ごめん、あるよね)




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予兆



会社を出るときに、 天啓のように、 自分が今日死ぬということがわかった。 意識のなくなった明日の状態を 想像しようとしたが、 想像できなかった。 真っ黒な視界からは言葉一つ出てこなかった。 げっ、いやだな。 まだやりたいことはたくさんあるのに。 今日はあと五時間しかないが、 人間が死ぬのは簡単なことだ。 たとえば、 これから私は家に帰らなければならないが、 プラットフォームに走り込んできた電車の前に、 ぽろりと落ちるかもしれない。 電車はうまくやり過ごせても、 まだバスに乗らなければならない。 バスが無事着いても、 停留所からしばらくの間、 バス通りを歩かなければならない。 この道は細いくせに交通量が多く、 車のスピードも速い。 今日もまた、 向こうのカーブから車が加速してくる。 ハンドルを切り損ねて、 まっすぐ私の頭に向かって飛んでくる。 よけられない。 あっという間に倒れる。 フラッシュを焚いたような一瞬。 取り返しがつかないという言葉が、 意識のなかで谺している。 気がつくと、 他人事のように自分の死体が見えた。 手足の損傷はそれほどでもないが、 後頭部がぐしゃっと潰れて血が出ている。 見開いた目と口が動かない。 自分の顔ながら、 怖かった。




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地球の表面



来月、 一列に並んだ彗星の残骸が木星にぶつかるという話を、 テレビのニュースで見た。 ぶつかる先が地球なら、 人類は滅びてしまうそうな。 怖い話だ。 怖いけれどもそんな怖さは忘れてしまえる。 何日もあとまで気にかかっているのは、 木星が気体でできているということ。 うん、 確かにそんな話は子供の頃に聞いたことがあるよ、 忘れていたけどね。 しかし気体でできている星があるのなら、 地球は何でできているのだろう。 足元の地面が地球の表面だと思っていたが、 本当の表面はもっと上にあるんじゃなかろうか。 人類とやらは、 地球の表面を引っ掻いているのではなく、 地球の内部でうごめいているわけだ。 外から見ると、 地球は青いという話だけど。




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最初は一人



最初は一人だった 手の指は十本 足の指も十本 たったそれだけだったから 不安だった 自分で決めたことだが いつまでも同じところに一人で立っているのは 辛かった それでも時がたつにつれて 手には葉がつき 足からは根がのびた そしてある日 二人になっていることに気付いた 話しかけはしなかったが 一人ではないと思うとうれしかった 手の指は二十本 足の指も二十本 二十本に葉がしげり 二十本から根が広がった 今はたぶん五人くらいになっている 話しかけはしないが 一人ではないということを いつも感じていられる こういうのを満足していると いうのだろうか




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四つの朝



今朝は 身体にジャムを塗って 甘い男になって出かける 俺の甘さは 俺を舐めた女にしか わからない 次の朝は ざくろのように 腹を割って切り口を びらびらさせながら出かける 俺の新しい口は 子供の首を噛み切る その次の朝は 犬のあたまで 舌を出してハァハァ いいながら出かける 犬のうつろな視線は 見られたやつを苛立たせる 最後の朝は 身体に塩を塗って ひりひりしながら出かける 兎の気持ちがよくわかる? 臭いを消しているのだから 俺の死体には触れるな




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銅像



新宿の都庁の前で 右斜め上を向いて 口をポカンと開けていたら (そこには空が少しあって  雲が浮かんでいた) いつの間にか銅像にされていた (しまった  どうせなら口を閉じておけばよかった) 台座には 「希望」 というタイトルが 刻まれているらしい なぜ希望なんだかよくわからないが きっと都庁の前だからだろう ここにはほかに 裸の女が立っていて 「愛」 というタイトルが 刻まれているらしい いったいどんな男にだまされて ここに連れてこられたのだろうか?




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バス停の××行きと書かれた板に、 蚊が止まっていた。 反射的に叩き潰そうかと思ったが、 刺されたわけでもないのでやめといた。 バスを待つ徒然に蚊が板の上を歩くのを見ていた。 考えてみれば私は六本足の歩き方を知らない。 どうやって歩くのだろうか? 前足を前に出したとき、 中足や後足は前に出ているのか、 宙に浮いているのか、ふんばっているのか。 ところが前足に注意していると、 中足や後足の動きはわからない。 右側の足を見ていたら、 左側など全然目に入らない。 六本足の歩き方は結局わからなかった。 蚊だってこちらにわかるようには、 歩いてくれないのだ。ぐにゃぐにゃと 蛇行していたかと思うとぴたりと止まって、 二本の前足で目の前のあちこちを トントンと叩いている。 それじゃあ前足は触角なのかと思ったが、 そうじゃない気もするし、わからない。 気がついたときにはもういなくなっていた。 やはり叩き潰しておくべきだっただろうか?




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フォアグラ




 健康診断で脂肪肝と診察された。三十を少し過ぎたばかりで成人病だと言われたわけで、本人にはかなりショックだった。道理で最近、宿酔がなかなか抜けなかったわけだ。食事等に気をつけないと、肝硬変になるという。酒も控えろと指示された。最近飲んでもちっともうまく感じなかったので、酒を我慢するのはちっとも苦痛ではない。やむを得ない場合を除き、決して飲むまいと決意した。それくらい、がっくりきた。あまりショックだったので、会う人ごとに、自分は脂肪肝と診断されたから、当分酒はなるべく飲まないようにすると触れて回った。そうして触れて回った何人目かが、ああ、フォアグラ状態ね、と言った。ああ、なるほどと思い、それからは脂肪肝とは言わず、フォアグラ状態になったから、当分酒はなるべく飲まないようにすると触れて回ることにした。健康診断で言われるまで脂肪肝という単語は知らなかったが、フォアグラならお馴染みだ。最近御殿場で食べた。まぁ、それが初めてだったわけだが。来年道路工事のために閉業するというレストランで、それはうまいフォアグラを食べた。こんなうまいものは今まで食べたことがないと思った。舌先でとろっととけて、微妙な風味がふわっと口中に広がった。レバーというやつは正直なところ苦手なのだが、英語じゃなく、フランス語になるとこれだけうまいものになるのかと思った。フォアグラ状態と診察されたときに、こういうものを食べろというリストをもらった。あそこにレバーを食べるとよいと書いてあったっけ? 書いてなかったような気もする。フォアグラを食べるとフォアグラ状態がよくなるということは、たぶんないだろう。かえってフォアグラ度が上がったかもしれない。でもうまかった。私のフォアグラはどんな味がするのだろうか?
 酒を飲まないと決めてみると、意外と飲みたくなるものである。フォアグラ状態と診断される前でも、それほど飲んでいるわけではなかった。一度飲んだら、次に飲むのは二、三日後、長ければ数週間後だった。酒が嫌いなわけではないが、飲まずにいられないわけでもない。それでも、禁酒ということになると、ふっとビールを飲みたくなったりする。以前なら、そう思ったときの二回に一回は飲んでいたが、今度は飲めない。我慢するぞと自分に言い聞かせる分、苦痛を感じた。思ったより単純ではなかった。それでも何とか我慢した。そんなある日、事務所に越之寒梅が届いた。夕方の六時頃になって、開けてみようかという話になった。ほかの酒ならともかく、寒梅はなかなか飲めるものではない。味見くらいならいいんじゃないか? どこから見つけ出してきたのか、女子社員がオチョコを並べていた。社長がそれらに寒梅を少しずつ注いでいく。みなが飲んだあと、その一つに手を伸ばした。うまくない。寒梅は以前にも飲んだことがあるけれども、こんなに舌を刺すような感じだったっけ? しかし、ほかの社員はうまい、うまいと言って飲んでいる。オチョコを見つけ出した女子社員は、つまみを買いに走った。私は一人で帰ることにした。外に出ると寒かった。オチョコにたった一つの酒では暖かくならない。しかし、アルコールが体内に入ったということは自覚できた。フォアグラ度が少し上がったかもしれない。駅に向かう途中ですれ違った男が連れの男にキンダイチュウと言ったのが聞こえた。一瞬だったし、ほかのことは何も聞こえなかったが、そこは確かに二十年前に金大中氏が誘拐されたホテルの前だった。これから、私は電車に一時間乗る。電車では間違いなく椅子を確保できるだろう。朝の夢の続きでも見ることにしようか。それとも…




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カメムシ




 大きさはてんとう虫とほぼ同じだが、色が茶色くくすんでおり、よく見ると形もまん丸ではなくて、亀甲形に角がある。てんとう虫とよく似てはいるが、やはり違うようだ。子供の頃、昆虫図鑑で見たカメムシというものかなと思った。図鑑には、確か、危険を感じると身を守るために悪臭を放つと書いてあったはずだが、初めて見たときにはその悪臭はなかった。だから、そのときにはカメムシだという確信は持てなかったが、この家はそのカメムシがやけに多い家だった。引っ越してきてから二年半たつが、毎年見かける。もっとも、一年じゅうのべつまくなしに現われるわけではなく、今年の場合は秋口から目立ちだしたので、秋に発生するものなのかもしれない。これが冬から春まで発生し続けるのか、秋で終わってしまうのかは、そのときになってみなければわからない。毎年、いつの間にかそんなものがいたことさえ忘れている。しかし、現に今は毎日のように現われる。たとえば、外で干していた洗濯物によくくっついているので、白アリのように家に住み着いているのではなく、外にいるやつが何かの拍子で紛れ込んでしまうようだ。坂の下のYさんの家ではそのようなものは出ないという。その家に二十年以上住んでいた妻がそう言うのだから間違いない。カメムシはなぜこの家を選んだのだろうか?
 初めてカメムシが悪臭を放ったのがいつだったのかは、もう覚えていない。しかし、今はカメムシを見るとすぐに悪臭を連想する。どう悪いのかというとうまく説明できないが、たとえば糞尿や生ゴミの臭いではない。理屈では、悪臭だと思うのは気のせいで、本当は悪い臭いじゃないのかもしれないという考え方も成り立つが、その臭いを実際に嗅ぐとやはり悪い臭いだと思う。その臭いのためにカメムシは我が家では嫌われており、「カメ」と呼ばれている。「カメ」という言葉が発せられるときのイントネーションは、たとえば「バカ」という言葉が発せられるときのイントネーションと同じである。「カメ」は見つけられるとすぐにティッシュペーパーでくるんで捨てられる。ただくるんだだけではまた出てくるかもしれないので、御丁寧にも指ではっきりとした感触が得られるまで潰される。「カメ」は亀同様に動きが鈍いので、見つかったときには百パーセント潰される。「カメ」は潰されるときに例の悪臭を放ち、ティッシュペーパーにしみを作る。ティッシュペーパーにしみを作る液体が、悪臭の元なのだろうがはっきりしたことはわからない。「カメ」を潰した指には「カメ」の悪臭が染み付く。一日に何度も「カメ」を見つけ、「カメ」を潰していると、一日中「カメ」の臭いに付き合うことになってしまう。人間の側に潰している意識がなくても、知らないうちに人間の体の下敷きになり、潰れて悪臭を放っている「カメ」もいる。この場合は、先に悪臭を感じてから、「カメ」の死体を探して始末するのである。
 このようなカメムシを見ていると、悪臭がカメムシの危機を助けているとは到底思われない。悪臭を放たなければ、カメムシは我々に潰されることなく、外に逃がしてもらえることだろう。しかし、ものは考えようである。潰さずに外に逃がせば、カメムシも悪臭を放たないかもしれない。さっそく試してみた。結果は芳しくなかった。この家を選び続ける限り、「カメ」は潰され続けるだろう。この家にはカメムシの悪臭が漂い続けるだろう。




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私の壁



私の壁は鉛筆書きである しかし壁などというものは 少し抽象化すれば わざわざ書くまでもないものではなかろうか? といって何も書かれていなければ それをわざわざ壁と呼ぶ必要もない それに実際に書かれているのは 壁のしみ、ひび、汚れで 壁自体は書かれていないのだ なのにそれは私の壁になっている おまけに鉛筆書きだ たったそれだけのことで 私の自由は制限されている 壁の向こうには行けないし 壁の向こうは見えない 迷惑な話だ しかしいったいどうして その壁は私の壁なのだろうか? 私はそんなものを望んだ覚えはない 望まないものを抱え込んでいる必要はないではないか そこで私は私の壁を共有に付することにした これで壁はみんなのものだ みんなの壁は鉛筆書きである




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迷子



こっちに身体があって 本人はあっちにいるとき あっちの本人に こっちの身体の感覚は 残っているのだろうか? 残っていないとすると こっちの身体を犯したときに こっちの身体が発する苦痛や快楽は どこに行くのだろうか? どこにも行けないのであれば 償われない苦痛や快楽は 身体を滅ぼすのではないだろうか? 身体が滅ぼされてしまったら あっちの本人は どこに戻ればよいのだろうか? 戻るところがなくなった本人は いったい何を待ち続けるのだろうか?




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犬としての生活



私は犬なので毎日散歩に連れ出される。 散歩は犬としての立場を固定化するための習慣である。 身に付けているものといえば、 しっかりと巻き付いて離れない首輪だけ。 裸で四つんばいになって歩かなければならない。 この姿で排泄もさせられる。 すでに自分で尻をふくことはできないが、 飼主がふいてくれるわけでもない。 尻から後ろ足にかけて、 干からびた排泄物がこびりつき、 排尿時にそれがまたぬめりを取り戻す。 私には人間だったときの記憶が残っているので、 これが辛い。 忌々しいのはこの首輪だ。 これさえなければ二本足で楽に歩けるかも… それどころか、 飼主を振り切って逃げることも… 後ろも振り返らず、 走って走って… 血だらけになってもかまわず走って… 助けを求めて暖かそうな家に飛び込み… しかし飼主が変わるだけかもしれない… 記憶をなくせばよいのかもしれない。 人間だったという記憶を。 人間だったときに覚えたものは、 もはや何の役にも立たない。 飼主の命令を理解できたからといって、 何の役に立つだろうか。 記憶をなくせば、 私は犬よりも犬になる。 そしていつの日にか、 飼主を噛み殺し、 骨の髄までしゃぶりつくしているだろう。 それと意識することもなく。




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宙吊り生活者



これからは 糸にぶら下がって 生きていくんだ そう思ってから 何年たったことだろう 目の前にぶら下がっていた糸に たまたま気付いた ただそれだけのことだった 身体に巻き付けてみると 糸は不思議にぴたっとなじんだ 試しに地面から足を離すと 身体はそのままふわっと浮いた これは面白い なにもかもが小さく見える なにもかもが足の下に沈んでいる そう思ったのはつかの間のことだった もう二度と地面に戻ることはできなかった あのときのことを思い出すと いつも少し苦い気持ちになるのだ




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精子的



絶望的にもてなかったので 四十になるまで入れなかった男 その女に巡りあえたのは奇跡的だった それでは早速と準備にかかる 出てきたときも頭が先だったから 入るときも頭が先 教わったわけでもないのに 器用に身体を折り曲げて ついに爪先まで収まった それから十月十日眠り続ける 最初は目立っていた女の腹も すっかり元通りになって 女自身何をしたのか忘れた頃に ぽろっとおたまじゃくしが転がり落ちた 精子からおたまじゃくしへの拡大 それが男の四十年の歳月である




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女に生まれてきていたら



1 もし女に生まれてきていたら、 私には弟がいたかもしれない。 もちろん、選べることではないので、 弟ではなく妹だったかもしれないし、 弟も妹も生まれなかったかもしれない。 しかし、もし女に生まれてきていたら、 弟がいた確率は高かったと、 思う。 2 子供の頃、 女に生まれればよかったと、 思ったことがあった。 男の子と遊べば泣かされるので、 女の子と遊ぶ方が好きだった。 (その女の子にも泣かされることがあったけど) 腕力はなかったし野球もヘタだった。 おままごとは好きだった。 それでもさすがにお母さん役はやらなかった。 3 子供の頃は内股で歩いていた。 父はそれをとてもいやがっており、 何度も厳しく直された。 父は、 女の子みたいな歩き方をしやがって、 と吐くように言った。 そのたびに顔がカーッと赤くなった。 歩いているときにふと思い出して、 爪先がどちらに向いているかを、 見るようになった。 いつのまにか内股ではなくなっていた。 4 父は何かというと、 女子供にはわからない、 と言うのが口癖だった。 私は男にされたり、 子供にされたりした。 子供にされたときには、 男になろうと背伸びした。 女である母はそのやり取りを、 黙って見ていた。 5 自分が一人っ子であることを、 いつから意識し始めたのか。 団地の隣のうちは三人きょうだいだったので、 いつもにぎやかだった。 幼稚園にあがる前は、 隣のようにきょうだいがほしいと、 親に何度も言っていた。 幼稚園にあがった頃には、 一人っ子だからわがままで、 と親が他人に言っていたのを、 耳にしたことがある。 その頃、なにかごちそうを食べるときには、 一人っ子だから好きなだけ食べられていいでしょ、 と親に言われた。 小学校に入ってからは、 この先、弟か妹が生まれてくるとは、 少しも思わなかった。 6 一人っ子だからわがままで、 というセリフはその後も何度も聞かされた。 友だちにうんざりされるたびに、 そのセリフを思い出した。 一人っ子に見られないように、 必死に努力した。 一人っ子だとは思わなかった、 と言われるたびに、 心のなかでほくそえんだ。 次第にそう言われる割合は高くなったが、 一人っ子だと思ったと言われたときに、 がっくりくる度合も高くなった。 7 中学は男子校を落ちて共学に行った。 その頃から女の子の顔を見て話をすることが できなくなっていた。 太陽を直接見てしまったときのように、 眩しくなって目をそむけてしまうのである。 高校は共学を落ちて男子校に行った。 男だけだと気楽でよいなどと言っていた。 中学の同級生の女の子が二人で学園祭に来てくれたときも、 すぐに持て余して二人でまわってもらった。 その話をしたら、 男の風上にもおけないやつだ、 と父に言われた。 8 今でもはっきり覚えているが、 大学に入ったばかりの頃の私には、 どこかから仕入れてきた男尊女卑が、 頭のてっぺんから爪先まで染み付いていた。 女のくせにとけなしたり、 女だてらにと誉めたりしていた。 (本当は彼女のことが好きだったくせに) そのうちに自分が異性だけはなく、 同性のなかでも孤立していることに気づいた。 9 大学を終わる頃には、 女性運動に理解を示すまでに成長≠オていた。 その頃、 学園祭でコンテストをやり、 優勝者をアイドルとして売り出していたグループがあり、 男が女を選別する社会構造を拒否するために、 そのコンテストを物理的に潰すことを目指すグループがあった。 私は当然のこととして後者に加担した。 物理的な行為は快感である。 コンテストはわずか数名の暴力によって粉砕された。 前年度優勝の十代のアイドルが、 視界の右端のほうで泣きわめいていた。 十年後 彼女は裸を売るタレントに成長した。 10 しかしそれで女性が わかったわけではなかった。 相手が女性だと、 何を考えているのか、 どういう感じ方をするのか、 戸惑うことが多かった。 相談に乗ってくれる姉がいたらよかったのに、 とよく思った。 もし女に生まれてきていたら、 私は弟に何を教えていたのだろうか。 11 結婚は唐突にやってきた。 そのときは惚れていたので、 何が何だかよくわからなかった。 落ち着いてみると、 妻のことが一人の人間としてわかってきた。 妻は私が一人っ子だということを 結婚前に見抜いていた。 12 自分の子ができたというとき、 妻と女の子がいいね、 などと言っていたことがあった。 生まれてきたのは男の子だった。 男の子は小さいときに大変だと 聞かされていたが、 なるほどよく熱を出し、 嘔吐が止まらないようなこともあって、 何度も病院に走った。 だからといって、 女の子の方がよかったと 思ったことはない。 彼は今のところ一人っ子である。




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夜の散歩



眠れない夜、 寝床を抜け出して、 表に出る。 街は茹でられたように、 ふやけている。 酔って毛穴の開いたサラリーマンが、 ふわふわと歩いている。 私はシラフだ。 踏み切りを通過していったのは、 下りの最終電車。 小さな明るい箱にあんなに詰め込んで、 けたたましく駆け抜けると、 真っ暗な家々がしんと取り残される。 歩きながら表札を見る。 田辺 三木 伊藤 大前 そういう名前の人が、 何人か生きているのだろう。 すぐ目の前で。 とても信じられないが。 表通りに出ても、 開いている店はない。 走っているのはタクシーばかり。 時々笑い声や話し声が耳元を ふっと通り過ぎる。 そのとき初めて、 洞窟のようなバーが、 そこにあったことに気付く。 歩き疲れた頃に真っ暗な公園が見えてくる。 滑り台とブランコとベンチ。 ベンチに横になる。 水蒸気が集まってきて露になるのを感じる。 からだじゅうに無数の露がしがみついてくる。 ここで眠ってしまうわけにはいかない。 立ち上がって露を払い落とす。 それでも潰れてするっと服に染みこむやつがいる。 公園の外にコンビニの看板が白く光っている。 若い男が三人、 黙ってマンガ本を見ている。 私もマンガ本を一冊取り上げる。 すぐにセックスシーン。 陰部以外が、 信じられないほど丁寧に描き込まれている。 一つ読み終わってから外に出る。 三人はまだ黙ってマンガを見ている。 通りはタクシーの数も減っている。 歩いている人間はほかにいない。 ところどころ空き地がある。 郊外に出てきたのだ。 多摩川の橋まで来ると、 夜は明けている。 奥多摩から流れてきて、 六郷に向かおうとしている水が、 はっきり見える。 白っぽい道に取り残された街灯が、 黄色く光っている。 登戸で始発に乗り、 椅子に座ってそのまま眠る。 ときどき目を開けると、 そこは新宿だったり、 生田の森だったり、 満員の通勤電車のなかだったりする。 お客さん終点ですよ、 の声に慌てておりると、 午前十時の相模大野だった。 日の光はなんて明るいんだろう と思った。




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重力



いつでもとてもねむいので たとえば電車に乗ればコロリ と眠ってしまうくせに 夜 ふとんのなかにもぐりこむと 身体の重さが気になってねむれない 下になってしまったほうが 上になっているほうの重さに 耐えられず 交替してくれ 交替してくれとうるさくせっつく ので それではと寝返りをうって 反対にひっくりかえると それまで 楽していたほうがだんだん 苦しくなってきて しまいに 替わってくれえと悲鳴を上げる かくも重力は強い力なのだと 感心しているうちに夜は白々と 明けてきて これはまずいと 下になっているほうのうるさい 文句を聞かないよう 聞かないように心がけて やっと眠るとすぐに朝がきて 起こされる あまつさえ 下になっていたほうの腕が しびれていたりして 睡眠が 身体の疲れを取るものだとはとても 信じられない思いで一日がはじまり いつでもとてもねむいので たとえば電車に乗ればコロリ と眠ってしまうのだが なぜそのときには重力を感じない のだろうか




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空の色の深い夏の日でも、 暑さのしのぎやすいときはある。 そんな日でも、蝉はいつもと変わらぬ声で 鳴き続け、暑苦しさを思い出させる。 港区愛宕山のふもとの国道一号線。 こんなアスファルトのかたまりのどこに 蝉がいるのかと耳を澄ませば、 街路樹の銀杏の木のなかだった。 重い足取りで歩いていくと、 (足取りが重いのは、暑いせいではないはずだ) 次の木にも、またその次の木にも 蝉がいて、前から後ろから鳴き声を降らせてくる。 その鳴き声を聞きながら、なぜそれが ミーンミンミンと聞こえるのか不思議に思う。 ではほんとうはどう鳴いているのか。 考えているうちに、蝉の鳴き声が 蝉の鳴き声として聞こえてきた。そのときは、 暑苦しいと思っていたことを少し 忘れていたような気がする。 空の色の深い夏の日でも、 暑さのしのぎやすいときはある。 今日はいつもより暑くないのだと思った。




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鼻唄



九〇歳をすぎても元気だということは、 すごいことだ たまたま飛び込んできた、 TVのワイドショウのカメラの前で、 鼻唄まじりにお手玉をしてみせて、 元気なおばあちゃんですねえと スタジオのレポーターたちをわかせた。 それから半年もたたないうちに、 庭で転んで立てなくなり、 近所の病院に入院することになった。 同室は年寄りばかり、 昼間でも眠っているような部屋だった。 病院ではずっと寝たきりだったが、 たまに見舞いに来たひ孫の手をとって、 鼻唄を歌うこともあった。 よく聞き取れなかったが、 病院を出たときに何の唄だったのか思い出した。 いちにーさんしーごくろうさん、 ろくしちはっきりくっきりとーしばさん。 かなり昔のTVのCMだった。 誰も覚えていないような唄を、 どうして覚えていて、 そんな唄を知らないひ孫に、 どうして歌ったりしたのだろうか? 病院には丸二年いた。 久し振りに帰ってきた遺体の枕元で、 大往生という言葉が飛び交った。 葬式は参列者多数で、 自宅前の道が渋滞するほどだった。 享年九七歳。




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危険



電車の座席はけっこう危険だ。 網棚の荷物が突然落ちてきて、 頭にゴーンと当たったことが二度ある。 落としたやつがごめんなさいと言いながら、 へらへら笑っていたのが気にいらなかった。 二度ともだ。 もっとも私も網棚から荷物を落としたことはあって、 そのときどう謝ったのかよく思い出せない。 被害者の驚きようはよく覚えていて、 予期せぬことであわを食っていた間抜けな顔は、 ちょっとコッケイだった。 そんなことを思い出したのは、 本を読んでいた頭の上で、 いやぁ、風邪引いちゃったのかな、 治ったと思ったんだけど、 風邪引き直しちゃったのかな、 という 妙にはっきりした声が聞こえたからだ。 耳をすますと、 ときどきげほげほと咳をしている。 それを聞くと、 本に目を落としたままの頭が、 迷走しはじめた。 飲んできたサラリーマンのグループだろうか、 大声で話されるといやだなぁ、 それより頭に痰でも引っかけられた日には 悲惨だよな、 もし、痰を引っかけるようなことをしたら、 どう復讐してやろうか、いきなり立ち上がって、 ガーガー文句言ってやろうか、ぶん殴ろうか、 しかし、そんなことして相手が逆上して、 こっちが半殺しになったら怖いよな、 最近、危ない話、多いし、 相手は一人じゃなさそうだもんな、 何も言わずに頭をティッシュでふいて、 着いた駅でそっと消えることにしようか、 頭はすでに全速力で突っ走っていたが、 からだは動かなかった。 結局惨事は起きず、次の駅でいよいよ降りられる というところまで来たとき、 また頭の上で、げほげほ、 いやぁ、風邪かなぁ、困ったなぁ、 というはっきりした声が聞こえた。 本も閉じたことだし、頭を上げてみると、 声の主と目が合った。 窓から外を見ていたのがこっちを向いた。 一人だったんだ。 そのとき目的の駅に着いたので、 後ろを見ずにさっさと電車を下りた。




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はっぴぃ?



ナオキの誕生日にケーキを買ったので、 同じ幼稚園に通っている いとこのアヤカネくんも遊びにきた。 さあそれではケーキの前で写真を撮ろう、 というときに、 突然 アヤカネくんがそっぽを向いて泣き出した。 アヤカネくんの名誉のために言っておくと、 彼は決して泣き虫なんかじゃないのである。 どうしたのだろう。 泣き声で聞き取れないので、 何度も聞き返した。 だってつまらないものって言うんだもん。 アヤカネくんのお母さんが、 ナオキの誕生日プレゼントに、 アヤカネくんとおそろいで TVに出てくるロボットを買ってくれたので、 ありがとうございましたとお礼を言ったときの、 アヤカネくんのお母さんの返事である。 大人たちはあわてて、 あれは大人のあいさつというもので、 本当につまらないと言っているわけじゃない、 とか、 ナオキがあんなに喜んでいるものが、 つまらないわけがないじゃないか、 などと言い訳をしたのだが、 アヤカネくんは決して大人たちを許してくれなかった。




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人から聞いた話



会社をやめて家で仕事をすることになった。 毎日外に出るのはタバコを買いに行くときだけ。 ディスプレイに向かって翻訳原稿を叩き込んでいる。 飽きると同じディスプレイでゲームをやってメールを見る。 けっこう満足している。 電車に乗らなくて済むだけでもいい。 電車に乗らなくなって、 毎日電車でどれだけいらいらしていたかがわかった。 私は人間嫌いだったのだろうか。 毎日家族とコンビニの店員の顔しか見ていないくせに、 スイッチを入れればTVはニュースを流しているし、 新聞受けまで行けば新聞が入っているもので、 何となく社会とつながりがあるような気になって、 あのニュースはけしからん、 このニュースもけしからん、 と家族に向かって得意になってしゃべるだけでは気が済まず、 ホームページに何やらごそごそ書き込んで、 社会に向かって発言しているようなつもりにさえなる。 みんな人から聞いた話なのに。 地球の裏側の日本人の話なんか聞きたくないよ。 日本人じゃなきゃそんな話はしないだろ? 人質になっているのはあなたと同じ日本人なのですよ、 というような脅迫はやめてくれないかな。 日本人のまわりに日系人がいて、 日系人のまわりにただのガイジンがいる。 そういう考え方をするから嫌われるんだ。 日本人はその人のまわりにいるんだろ? その人の誕生日パーティが狙われたのは象徴的だね。 何重にも赤く塗り重ねられた日の丸。 新聞とTVに飽きてホームページを見ると、 新聞やTVからは聞こえてこなかったことが書かれていた。 新聞にもホームページの存在は報道されていたが、 アクセス方法は書かれていなかった。 調べればすぐにわかることをなぜ隠すのだろうか。 ホームページを読んでいて一番興奮したのは、 人権抑圧と経済搾取の政権に加担した日本を 意図的に攻撃したのだと書かれていたことである。 世界における日本のあり方が問われているのだ、 と思うと、俄然真剣な気持ちになってくるのだった。 毎日家族とコンビニの店員の顔しか見ていない私も 日本人だったのだろうか。 四月二三日。寝起きのぼんやりした頭に 軍突入、人質解放、MRTA全員死亡、という声が聞こえた。 卑怯者め、やりやがった。人殺しが英雄ヅラして 人殺しを自慢していやがる。 TVから聞こえる声はどれもはしゃいでいた。 何重にも真っ赤に塗り重ねられた日の丸。 その日はディスプレイに向かってぼーっとしていた。 でも、驚いたのはそのあとのことだ。 数日後、ディスプレイを見ていてふと気付くと、 毎日電車に乗らずに済んでほんとうに満足だなあと思っていた。 私は何者なのだろうか。




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後悔



僕は相変わらず眠っていて きみはくるくるまわっている どうしてまっすぐ向こうに歩いていかないのだろう 早く行けばいいのにと思いながら まわっているきみはかわいいね と口にしている きみはほほを赤くそめて もっと勢いよくくるくるまわって 決して向こうに行こうとしない またやってしまったと思いながら 僕は相変わらず眠っていて さらに深く沈んでいくのを感じている




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きみの色



ずいぶん透き通ってきたものだね。 きみは、 自分がどんな色だったか覚えているかい。 色々なやつが、 きみにべたべたとペンキで色を塗って、 お前はこんな色だと騒いでいるけど、 あいつらは、 きみが透き通っていて、 向こう側が見えてしまうことに、 耐えられないだけさ。 もっとも、 そんなおしゃべりは、 きみの耳には、 入ってこないだろうけどね。 それにしても、 あのとききみは、 どんな色になりたかったんだい? 赤、青、白、黒、 それとも金色や銀色? どんな色にしても、 それは、 きみの色じゃないんじゃないかな。 もちろん、 きみは透き通っているわけでもない。 だって人間の色は、 そんなに変えられるものではないし、 変わってしまうものでもないと、 思うんだ。 夏の日ざしを浴びたら、 少し濃くなった自分の色に気付く、 なんていうのは甘いかな? いまきみは、 自分がどんな色になっていると、 思っているのだろうか。




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お化け



ナオキくん、 悪いけれども、 お父さんには、 君が寝たあと、 やらなければならないことが、 たくさんある。 (何とは言いませんが) だから、 君には早く寝ていただきたい。  ナオキ、   夜になってこんなに暗いし、   いつまでも寝ないとお化けが出るよ  やだ  寝ない子を連れて行くお化けだから、   ナオキにしか見えないんだ。   お父さんには見えないけど、   ナオキの背中のあたりのここ。   この辺にもう来ているかもしれないよ  やだ  だったら早く寝なくちゃ。   寝ちゃえばお化けは手を出せないんだ これで五分もたたないうちに眠ってしまう。 かわいいものだ。 願わくば、 ナオキの夢のなかに お化けが出てきませんように。




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縁起でもない



朝、メンチカツを食べていたら歯が欠けた。 詰め物が取れたのではなく、その横の歯自体が欠けたのだ。 詰め物は糊でしっかり歯にしがみついている。 珍しいことがあるものだ、と言うと、 これから出かけるのに縁起でもない、と妻が言った。 何か縁起と関係あるの? と聞くと、 そういうわけではないけれども、という答だったが、 それが頭に妙にこびりつき、 事故を起こしたら大変だと、 ハンドルを握る手に力が入って肩が凝る。 疲れてしまって二度も休んだ。 二度目に休んだときには、 もう山のなかにだいぶ入っていた。 夏は過ぎたが木々はまだ青い。 妻は縁起が悪いと言ったことも忘れて あの木、もう紅葉しているのかしら、 などとはしゃいでいる。 まだそんな季節じゃないだろうと言いながら その木を見ると、 確かに少し紅葉しているように見えた。 気温が下がっていることに気付く。 半袖では寒いかもしれない。 そのうちに雨が降ってきた。 雨は雲が風に吹かれてさむいから、 さむいよう、さむいようと 泣くから降るんだよね、 と後ろの席でナオキが言った。 前の席から妻と二人でいい話だねと誉めたら、 ナオキは同じことを繰り返し言い続けて、 止まらなくなった。 木々の蔭はますます暗く、 まだ着かないが目的地は近い。 欠けた歯が頬と舌に当たって痛いが、 無事に来れてよかったと、 ようやく肩の力が抜けた。


(C) Copyright, 1998 NAGAO, Takahiro
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