水まき



地下鉄の駅から地上に出ようとすると、 階段がぬかるんでいて、 いくつもある足あとがつるつるすべる。 見上げると、 外の路面も一面に水をかぶっていて、 日の光をぴかぴか反射している。 びしょびしょになるまで、 水をぶちまけたりして、 迷惑なことをする人もいるもんだ。 そう思ったのは一瞬で、 あとは何を考えていたのだろう。 しばらく歩いていて気がつくと、 街じゅうが濡れていた。 水をぶちまけたのは、 人じゃなかったのか。 空が真っ青になって笑っていた。




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人類以外



映画の宣伝で、 また人類最後の日とか言ってるよ。 でも、 人類って言葉はちょっと大雑把じゃないかい? スクリーンのなかで、 不幸に立ち向かう感動的な人々と、 劇場でそれを見て感動できる人々。 人類はたったそれだけさ。 今この瞬間にも、 殺されている人々がいて、 殺しているのは、 つい一週間前に、 劇場から連れて行かれた人々。 彼らにはもうとっくに、 最後の日が来てるよ。




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どういう展開でそういうことになったのかはわからないんだけど、 泊りがけで会社の研修会に出かけていたんだ。 最大の目的は、蛹化剤というものを飲むこと。 これを飲むと、昆虫の蛹と同じように、 しばらく死んでから生き返るのだという。 復活するのだから、帰ってきたときには当然若返っている。 会社としても、従業員のためになることだから、 協力を惜しまない、と社長があいさつをした。 とにかくすごいのは、絶対に失敗しないということ。 蛹の場合は死ぬわけではないから、 蛹化剤という名前はちょっと正確さを欠くのだが、 確実に生き返るというのだから安心だ。 一度死ぬ経験をしておけば、 本当に死ぬときにも怖くなくてちょうどいい。 説明を聞いてから、薬を飲むそれぞれの部屋に向かった。 畳にせんべいぶとんを敷いてそこで飲むらしい。 中島さんはすでに隣の部屋で飲んでいた。 うつぶせになった裸の肩甲骨のあたりに、 白い泡のようなものが二本、 ハの字の形に吹き出していた。 蛹化剤というだけに、あれは、羽の退化したものか。 あの泡が出たときには、すでに完全に死んでいるのだという。 私も自室に入り、同じようにうつぶせに寝て薬を飲んでみた。 死ぬというのはどういう経験なのか。 息子がふすまを開けて部屋に走りこんでくる。 あ、お父さんもやってるの? どんな感じ? 妻も入ってきて、枕元で見守っている。 ところが、待てども待てども薬は効く気配がない。 いつまでたっても死にそうにないので、 妻がしびれを切らした。 出かけなきゃならないのに、いったいどうなってるの? 結局、薬が効く前に目が覚めてしまった。 せっかくのチャンスだったのに、 死ねなかったのは残念だったな。




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意思表示



テレビも、 買ってから二十年もたつと、 意思を持つものらしい。 指示されたわけでもないのに、 自分の意思で消える。 といってもできるのはただそれだけで、 勝手についたりはしないのだが。 疲れたから休みたい、 というほんのささやかな意思表示。 それができるようになるまで、 人間ならどれだけかかることか。




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休み



他人が寝ているときに起きていたい、 外の空気を吸いたい、 五十近くなっても、 そういうことを思うわけだ。 家族が旅行に出かけていていないせい? いればふらふら出かけたりしないよな。 好き好んで家族が壊れるようなことはしないさ。 三十年前は別の家族に入っていた。 その家族はあまり好きじゃなかったな。 でも家族は家族で、その家族を守りたい人たちがいた。 もう死んじゃった。 だからその家族はもうおしまい。 どの家族も、 いずれはなくなる運命さ。 でも今の家族は壊したくない。 いずれなくなるのがわかっていても、 いつまでも続くと思っていたい。 今日は一時お休みだけどな。 家族がいなくて淋しいのかね? でも何となく解放感もあって、 だからこうして外の空気を吸っているんだろう? たった一人で、 夜の海に来てどうすんだよ。 ただ不気味なだけじゃないか。 夜の海が不気味なのは、 生きているものの影が感じられないからだろうか、 生きているものの存在を感じるからだろうか。 なんちゃって、 車のボディに守られているくせに、 不気味もなにもあったものじゃないよ。 車を停められるところもないから、 感じたくても何も感じられないや。 気がついたら日付が変わって、 誕生日になっていたよ。 お手軽に海を見て、 夜が明ける前に無事に空っぽの家に帰ってきちゃったよ。 で、これから寝るわけだが、 寝る前に思い出したくないことばかり思い出して、 なかなか寝られないんだろうな。 そして早く眠りから引き戻される。 他人が起きているときには寝ていたいんだけど。




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報い



仕事が少なくなってくる。 単価が下がってくる。 二分の一から三分の一、 四分の一を通り越して五分の一まで。 むかし経済学の教科書を読んだときにはわからなかったが、 これがデフレというものだ。 余裕たっぷりというわけではなくても、 少しは貯蓄もできた生活から、 その貯蓄を使い果たして、 日々赤字が増えていく生活に転落する。 転落だなんて陳腐な言葉だけど、 本当に落ちると身体中が痛いんだぜ。 同じ仕事をしても、 生活できなければ、 働いたことにはならないのだ。 慣れない仕事を新しく始めても、 五分の一と同じようにしかならない。 働く時間を増やそうといっても、 五倍はおろか二倍にだってできるわけがない。 決して元には戻れない。 まわりを見回しても、 同じような街に同じような人々が歩いているだけで、 何かが変わったようには見えないのに、 自分の手から金が離れていくときに、 以前とはもう違うんだということを思い知らされる。 金は毎日離れていくから、 毎日その思いをかみしめる。 何も変わらないように見える人々が遠くに消えていく。 そういう思いがあることを知らなかったことの これが報いというものなんだろうなあ。




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おれ



おれのことを言ったのに、 おれのことを言ったな、 とおれではないおれにつめよられる。 おれにとっておれはおれだが、 お前にとってもおれはおれだったのか。 同じものを見ても、 同じではないような気がするが、 同じものを見たのかもしれない。




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箱のなか



われわれは、 この箱のなかで、 じっとしているのだ。 移動するために。 移動するつもりなら、 動くのが本当だが、 動くよりも、 じっとしている方が、 速く移動できるのだ。 それだけでも変な話だが、 もっと変なのは、 この箱のなかに、 誰一人、 知り合いがいないことだ。 百人から二百人はいるのに、 誰も知らないのだ。 なのに、 この人たちの大半は、 気がつくと私が知っている言葉で、 ぺちゃくちゃくちゃとしゃべっている。 しゃべっている言葉の意味が、 私のなかにどんどん入ってくる。 意味が体のなかで ちゃぷんちゃぷんと波うっている。 入ってくるなよ、私が知っている言葉。 私はただ移動したいだけなんだ、 箱のなかで。 じっとしたままで。




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順調な日曜日



今、日曜日になったばかり。 この分だと、一週間後には順調に、 日曜日がやってくるだろう。 そのときにはもう、 今年の九月は終わっていて、 当分九月のことは考えなくて済むのだ。 今度は十月のことを考えなければならないけど。 こうやって、残りはちょっとずつ短くなっていく。 涎はちょっとずつ長くなっていく。 なんて順調なんだろう。 涎は白いのだ。




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運送業



もとはと言えば、 ギリギリまで粘っていたのが悪いんだけどさ、 駅に着いてみると、 終電に乗れるかどうか微妙な時間。 乗り継ぎがあるもんだから、 帰れるかどうかよくわからなくて、 駅員さんに聞いてみたわけ。 半蔵門線渋谷方面乗れますかね。 そういうことを訊く客はあまりいないのかしらん? あわてた様子でいろんな表をひっくり返し、 自信なさそうに、もうないですね。 それじゃあ日比谷線中目黒行きは? そっちはありますね。 半蔵門線の乗換駅に着くと、 どやどやと客が降りていくので、 おかしいなと思ったんだけど、 駅員様がおっしゃったことだから、 よもやまちがいはあるまいと、 日比谷線の乗換駅まで行って、 今度はそこの駅員さんに訊いてみた。 中目黒で東横線まだありますかね? するとさっきの駅員さんよりもさらにあわてた様子で、 こちらに書いてありますからどうぞと、 ホームの端まで引っ張っていき、 柱に貼ってある表を必死に見ている。 こちらの方が先に目的の数字を見つけて、 ああ、ありますね、よかった、どうもありがとう。 もっとも中目黒で乗れた東横線は元住吉止まり。 次の日吉まで行ってくれれば、 深夜バスに乗れるかもしれないところだが。 ここで手持ちのバス時刻表を見ると、 元住吉に最終電車が着いてから約十五分後に、 最終の深夜バスが日吉を出発することがわかった。 このバス日吉でいったい何を待っているんだろう? ちょっと不思議な気もしたが、 電車から吐き出された元住吉から、 間に合うのかどうか半信半疑、 だんだん小走りになりながら、 バス停に止まる深夜バスのライトが見えた。 時間はギリギリ。 最後は全力で走って、 あと二十メートルのところまで迫ったが、 バスは発車の右ウィンカーを出している。 おい、ちょっと待ってくれ、 回りの人が振り返るくらいの声を出したが、 そのまま行ってしまった。 あのバスいったい何を運んでいたんだろう? 結局、日吉から四キロ歩いて帰ったのだった。 その日は尼崎の鉄道事故からちょうど一年という日だったのだが、 事故はどこかできっとまた起きると直観した。 後日調べたところによると、 他の客と同じように降りていれば、 半蔵門線には間に合っていたし、 四キロも歩かずに済んだらしい。 もとはと言えば、 運送業を信じてギリギリまで粘っていたのが悪いんだけどね。




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人間機械論



オイルが切れちゃったのか、 どうも関節がうまくまわらなくて、 とか、 どうも水道管がさび付いてきて、 出が悪いんだ、 などといったことを口にすると、 ああ、 無意識のうちに、 身体を機械にたとえてしまったな、 と思う。 動かなくなった内臓を、 ほかのものに取り替えよう、 という発想も、 同じように身体を機械にたとえているわけで、 こういった人間機械論的発想は、 機械が人間を支配するようになった 近代以降に生まれたものだ、 と教えてもらった。 でも、 機械というやつ、 本当は人間にあこがれて、 生まれてきたんじゃないか、 とも思う。 人間と同じように、 走り回れるようになりたい、 ものを細工できるようになりたい、 そんな風に思ったんじゃないのか。 でも、 あまりうまく真似られないので、 単純な丸や四角を組み合わせたもの で我慢したのだ。 しかし、だんだん進歩してきて、 人間そっくりに動ける機械も、 出てくるようになった。 逆に、 内臓の交換技術も進歩してきているので、 人間も機械のように扱えるようになった。 だからといって、 人間と機械がなかよく共存できる社会、 などというものを夢想するなよ。 機械には心がないのだから。




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ものづくし



狭いところに集められ、 縛り付けられている。 逃げたくならないのだろうか。 それとも、 好んで集まってきている、 ということになっていて、 逃げたくても逃げられないのか。 いずれはまとめて捨てられる運命なのに。 マグカップ 一つしかない耳で、 あまりにも多くのことを、 知ってしまった。 大きく開いた口は、 ふさいでおかなくては。 サンドイッチ 足を伸ばして寝ていたら、 ふとんごと食われてしまった。 鉛筆 身を削らなければ、 無用のものだが、 身を削りすぎても、 無用のものになってしまう。 必死の思いで、 生きた痕跡を残そうとしても、 いとも簡単に消されてしまう。 消しゴム まちがえるとか、 考え直すとか、 そういうことがなければ、 まったく不要な存在。 でも、 不要になる気配はない。 あれば形を変えたくなる。 トースター さっきは怒りすぎた。 炭にするつもりはなかった。 頭を冷やすと、 残るのはいつも後悔ばかり。 蛇口 あふれる思いを、 内に秘めている。 思いがあふれ出しても、 時が来れば、 きっぱりと口を閉ざす。 口を閉ざしているからといって、 思いがないわけではない。 この通路はしょせん一方通行なのであって、 外からの働きかけを断固としてはねつけるのだが、 なまじ外が見えているような気がするもので、 そうだということを断固として認めない。 考えもなく立っているわけはないはずだが、 考えもなく立っているように見える。 鏡台 自分では、 瞬くこともできないけれども、 その瞳に映る景色は、 奥深く、 物悲しい。 テレビ 柱に降臨した神が、 糸をつたって屋内に入り、 箱のなかに流れ込んで、 あられもない姿を現した。




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穴開きー



靴にも靴下にも穴があいている。 靴に穴があいているから、 靴下にも穴があく。 靴の穴は片方だけだが、 靴下は左右を考えないではくので、 両方とも穴が開いている。 靴に穴が開いているから、 穴の開いていない靴下ははかない。 靴に穴が開いているから、 穴の開いている靴下を捨てない。 穴の開いていない靴は、 ないものか。




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必ずまた



長い間会っていなかった人に、 久しぶりに会って、 これからはひんぱんに会えるよ、 と言われた。 もう二度と会えないと思っていた 別の人にも思いがけず会えて、 これもなかなか悪くないじゃないか、 と思えてきた。 それでも、近くなる人がいれば、 離れる人もいて、 しばらく待てば、離れていく人たちとも、 必ずまた会えるようになる、 と言われても、 その会えないしばらくの間がつらいな、 と思い、帰ってきた。 よくある話だね。




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抒情詩試論



どこから見ても抒情詩としか言えないものを書きながら、 自分では抒情詩ではないものを書いているつもりだった。 なぜだろう。 思いを書くつもりで始めたことでないのは確かだった。 プライベートな思いを人目にさらすことに何の意味があろうか、 と、そこまで思いつめていたわけではないにしろ、 何かしらパブリックな意味が必要だとは思っていたようだ。 パブリックなるものを保証してくれるのは個を越えた思い。 だから、無意識の世界から出てくるものに頼った。 普段の会話や散文で語る思いはほとんど書かなかった。 ただそれほどはっきりと考えていたわけではなかったので、 次第に行き詰っていった。 自分の無意識に個を越えるものが本当にあるのだろうか、 その辺があやしくなると、 あとはもう何年も書けなくなっていた。 それがまた書き始めたのは、 どうしても書きたいことができたからだった。 それは無意識の世界のことではなく、 肉眼で普通に見えることだった。 不思議なのは、 それでもまだ抒情詩を書いているつもりではなかったことだ。 プライベートな思いを人目にさらしているだけ、 ではないつもりだったらしい。 確かにすべての思いを書いているわけではなかった。 では何かしらパブリックな意味があることを選んでいたのか、 というととてもそのようには思えない。 なぜだろう。 結局それから十年以上も、 抒情詩を書いていることに気付かなかった。 それがつい最近になって気付いてしまったのだ。 今まで自分が書いてきたのは、 全部が全部ことごとく抒情詩だったんだなって。 ああ、 そんなこと気付かなければよかったのに!


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鈴木志郎康氏評
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