死なないように、



死なないように、 死なないように、 死なないようにするには、 呼吸をしなければ、 ハッハッハッハッ、 ハッハッハッハッ、 窮屈なことだ、 不自由なことだ、 小さなころからそうだった、 何かに夢中になって、 呼吸をするのを、 忘れそうになるたびに、 遠くから声がして、 呼吸をしなさい、 呼吸をしないと死んじゃうよ、 という声がして、 びっくりして、 ハッハッハッハッ、 ハッハッハッハッ、 呼吸をしたものだけど、 呼吸をするのを思い出さなければ、 やっぱり死んでいたのかな、 怖くて試せなかったけど、 死んでいたのかな、 遠くから別の声がして、 死なないだけでは、 生きていることには、 ならないじゃないか、 という声がして、 そうかもしれないな、 生きたことはなかったな、 と思うと、 遠くからまた別の声がして、 死んだら生きることも、 できないじゃないか、 死なないでいれば、 そのうち生きることが、 あるかもしれないじゃないか、 という声がして、 やっぱりそうかもしれないと思って、 ハッハッハッハッ、 ハッハッハッハッ、 呼吸をするのを忘れないように、 死なないように、 してきたけど、 そのうちって、 いつになったらくるのかな、 ハッハッハッハッ、 ハッハッハッハッ、 いつになってもこないのかな、 ハッハッハッハッ、 ハッハッハッハッ。




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同一性



お父さんは朝になるとどこかに出かけ、 夜になるとどこからともなく帰ってくる。 友達に聞くと、 どこの家でもだいたいそうだという。 しかし、朝出かけたときと夜帰ってきたときとで 別の人のように見えるのはどうしたことだろう? 夜帰ってきたときと翌朝出かけるときとでは 特に変わったところはない。 出かけている間に入れ替わってしまうらしい。 どんな人になって帰ってきても、 私の名前は知っているようだ。 でも、この人たちはめんどくさそうに 今日は楽しかったかね? というようなことをお義理で尋ねて、 あとは生返事をしているだけなので、 本当に私のことを知っているのかどうかは心許ない。 どうしても気になるので、 ある日お母さんにきいてみた。 お父さんて本当は何人もいるんじゃないの? だってお母さんと比べて 朝と夜とで違いすぎるよ。 するとお母さんは顔を真っ赤にして、 そんなことはない、 お母さんだって夜になったら、 身体じゅうの毛が伸びて逆立つんだ、 お父さんだって少しくらい様子が変わることはある、 お父さんの方が違いすぎるというのは、 お前の気のせいだ、 お父さんは毎日大変なんだから、 これからは絶対そんなことを言ってはいけない。 とまくしたてた。 お母さんにきいてはいけなかったらしい。 そこである夜帰ってきたあるお父さんに 同じことを聞いてみた。 そのお父さんは、 お前も大人になったらわかるよ。 と言った。 大人にはなりたくないものだと思った。




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雑巾の絞り方




 最近、雑巾の正しい絞り方というのを覚えました。
 恥ずかしながら三十八歳になるまで知らなかったのです。それまで、私は両手を前に突き出し、拳骨を横に二つ並べて、右の拳骨を向こう側、左の拳骨をこちら側に回して雑巾をねじっていましたが、どうにも水切れが悪く、拭いたところを必要以上にびしょびしょにしてしまうのでした。私は子供の頃から握力などの筋力が弱い方でしたので、それも自分の非力のせいだと思っていました。しかし、実際はやり方が間違っていたのです。二つの拳骨を横ではなく、縦に並べ、両方の拳骨を内側に回すのが正しい方法だったのでした。この方法だと、以前の方法よりも二割方多く水が絞れます。拭いたところがびしょびしょになるようなことはありません。
 この方法は、妻から教わったのですが、妻もお茶かなんかの先生から教わったそうです。考えてみれば、数年前に私の絞り方は間違っていると、妻に言われたことがあったように思います。そして、正しい方法も教わったはずなのです。しかし、そのときは、その方法には違和感があるというようなことを言って、私は間違った方法に固執してしまったのでした。では、なぜ今回は正しい方法を受け入れられたのかというと、この拳骨の形が剣を持つときの拳骨の形と同じだということに気付いたからです。私は学生時代に合気道部というのに入っていましたが、この部では合気道のほか、鹿島神流の剣術の型も教わりました。剣は脇が甘いと相手に対して隙を作ることにもなりますし、剣自体の威力も半減してしまいます。脇を絞るためにはどうしたらよいか。柄を握った二つの拳を内側に絞り込むように持てと教わったのです。それから二十年もたって、剣のメタファとしての雑巾が初めてくっきりとイメージされたのでした。雑巾の先に見えない刃をイメージすると、雑巾を絞るのがとても楽しくなります。
 しかし、そこで新たな疑問がわいてきました。合気道部では、技の練習をする前に、道場を掃除します。当然ながら、雑巾も絞っていました。先ほどの剣の持ち方でも、二つの拳を「雑巾を絞るように」内側に絞り込めと教わったような気がします。ということは、誰かから正しい雑巾の絞り方を教わっていた可能性は高いのです。あるいは、その頃は正しい方法で雑巾を絞っていたのかもしれないという気がしてきました。では、なぜ、一度覚えた正しい雑巾の絞り方を忘れてしまったのか、正しい絞り方をしていたことさえ忘れてしまったのか、こればかりは自分のことながら、自分に聞いてみてもわかりません。正しい絞り方をしていた時期が本当にあったかどうかもわからないのですから。
 雑巾と剣のイメージがはっきりと結び付いてから、別の疑問もわいてきました。剣を握るときには、左の拳を手前に、右の拳を刃に近い方に置きます。これはたぶん右利きの持ち方です。私は子供の頃から右利きの手の使い方を当然のものとして受け入れてきましたし、自分が右利きであることに何の疑いを持つこともありませんでした。雑巾を絞るときにも、同じように左を手前にして絞っていましたが、どうにも違和感があります。そこで、右を手前にしてみると、違和感なくぎゅっと絞れたのでした。正しい絞り方をなかなか受け入れなかったのも、そのためかもしれません。これはたぶん左利きの方法です。剣を持つときには、右を手前にすることなど考えもしませんでしたので、不思議な感じがしました。三十八年間気付きませんでしたが、私は本当は左利きだったのかもしれません。
 雑巾の正しい絞り方を知ってから一ヶ月たちました。以前よりも固く絞れた雑巾を見るたびに、少しうれしくなります。正しいことをしているという安心感があるからなのでしょうか。これからは、腕がなくなったり自分が誰だかわからなくなるようなことがない限り、死ぬまで、雑巾を絞るときには、左利きの方法ながら正しい方法で絞るだろうと思います。正しい雑巾の絞り方を覚えてから死ぬまでの方が、生まれてから正しい雑巾の絞り方を覚えるまでよりも短いのかと思うと残念ですが。




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痛み



手を上げたのは当然だった。 子供同士であんなことをやれば きっと殴られる。 そういうことは 痛みとともに覚えなければならない。 殴られた子供は泣いた。 今度は口で叱った。 なぜ殴られたかのかがわかるように叱った。 子供はさらに泣いた。 さっきまでの強気がいっぺんに消えて、 抵抗力がまったくなくなっていた。 抵抗力のない泣き顔はかわいい。 かわいいので、 つい二発余分に殴ってしまった。 子供は母親に促されて、 ごめんなさい、もうしません と言ったが、 それから口をきいてくれなくなった。 殴った私の手には痛みが残った。 痛みは次第に強くなっていった。 子供がすやすやと眠ってしまったあとも、 左手の小指が痛くてたまらなかった。




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頭の名前



頭には名前がもう一つあったと思うのだが、 どうしても思い出せない。 胴体から切り離したときには、 切断面を全体の名前として、 首 と呼ぶことがあるが、 私がいいたいのは、 物になってしまった頭のことではない。 前から見たときには、 顔 ということもできるが、 うしろから見たら顔とはいわない。 頭はうしろから見たって頭なのである。 頭にくっついている毛のことを 髪の毛というが、 毛をとって 髪 といってもやはり毛のことである。 頭脳という言葉もあるくらいで、 脳 は頭に近い感じがするが、 結局は中身のどろどろのことであって、 鉢の部分がなくなってしまう。 心 は頭ではなくて 胸のあたりにあるらしいから論外である。 頭のもう一つの名前、 あなたはご存知ですか?




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偽装



人は誰でもいつかは死ぬ と子供の頃に教わった。 それから何十年か生きてみると、 確かに私が知っている人間のうちの 何人かは死んでいった。 私も彼らのようにいつかは死ぬのだろう。 その確信が揺らいだのは、 死んだはずのKを街で見かけたときだ。 Kは私が見ていることに気付くと、 ばつの悪そうな顔をして、 逃げるように人ごみの中に姿を隠した。 他人の空似ということもあるが、 あの男は私に気付いて逃げたのだから、 Kに間違いない。 私はKが火葬場で灰になるところまで 見届けたはずだった。 しかし、棺をずっと見ていたわけではない。 私が見ていない隙に、 Kは棺の外に出て、 棺のなかには何かの燃え殻を ぱらぱらと入れておいたのだろう。 葬式に出席していたほかの連中も おそらくはグルだ。 Kの葬式は、 人は誰でもいつかは死ぬ と私に信じ込ませるために、 彼らが仕組んだ芝居だったのだ。 おそらく、 私はいずれ死すべき唯一の人間なのである。 数ある人間のなかで、 私だけが死ななければならない。 私のことを哀れに思った周囲の人々は、 死ぬのは私だけではないと私に思わせることによって、 私の死への恐怖を軽減させようと思ったのだろう。 単に、 人は誰でもいつかは死ぬ と教え込むばかりでなく、 演技の達者なKたちを使って、 人が死ぬということを実演して見せたのだ。 手の込んだ芝居だ。 人は誰でもいつかは死ぬ と信じたまま私が死んだら、 彼らは私の死への恐怖を軽減化できたことを喜び、 微笑みあうのだろう。 だとすれば、 私の方も騙されたふりをしよう。 それがいずれ死すべき者として、 不死の人々から受けた愛に応えるための 唯一の方法なのだから。




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共生



ひょんなきっかけで外国の人が住み着いてしまった。 道端に捨てられているのを見て、 子供が欲しがったのだ。 相手が外国人なので、 子供がジャックという名前を付けた。 この国の人には、 笑い顔とか泣き顔といった表情はなく、 しゃべる言葉も、 わん というだけなので、 本当に一緒に住めるのだろうかと思ったが、 そこには入るな とか、 おしっこはこっち とか、 こちらが勝手に言っている日本語を 彼は何となく理解するようになってきたし、 彼がうれしそうにしているときとか、 寂しそうにしているときは、 こちらからもわかるようになってきた。 言葉を交わさずにわかることって いったい何なのだろう。




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弱肉強食



ごちそうだ。 逸る気持ちを抑えながら、 包み紙を丁寧に外して、 白い皮を剥き出しにする。 三十年ものの特上というところだろう。 滅多にお目にかかれるものではない。 二十年ものにはない深みが感じられる。 肩から胸にかけての脂の乗り具合が最高だ。 そのくせ腹のあたりには無駄な肉がない。 しかしその先で目が釘付けになった。 下の方の唇に口紅が塗ってある! 食欲が一気に失せて、 その場にへたりこんでしまった。 するとごちそうが、 ぱちりと目をあけて言ったのだ。 「早くおいで」 間違いでしたと謝っても、 許してくれそうにはなかった。




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さあ、ごはんですよ



最近、みみずが道路に出てきて干からびているのを よく見かけます。 地面の下に住んでいるはずのものが なんでわざわざ道路まで出てきて死んでいるのかわかりませんが、 天然の蛋白質が、 食べてくださいと言わんばかりに転がっているのですから、 いただかない理由はありません。 簡単に洗っていただきましょう。 間違っても中性洗剤などを使わないように。 汚れていたとしても、 どうせ犬が踏んづけたとか おしっこを引っかけたくらいなものです。 充分に日光消毒されていますので、 水洗いで充分です。 なに、いやだ? それでは、ごきぶりのフライはいかがでしょう。 ごきぶりには天然のコラーゲンがたっぷり入っています。 あなたの薄くなりはじめた頭も、 ごきぶりのように黒々と蘇えることは間違いありません。 フライパンに油をひいて、 ごきぶりの好物の食べ物を入れて ごきぶりが飛んでくるのを待ちましょう。 ごきぶりの餌には注意しなければなりません。 硼酸だんごのようなものはだめです。 ごきぶりが食べたものは、 ごきぶりを食べるあなたも食べるのですから。 ごきぶりがフライパンのなかに飛び込んだら、 さっと蓋を被せてしっかり炒めます。 よく炒めないといけません。 わたしの知り合いで、 炒め方の足りないごきぶりを食べて、 ごきぶりに腹を食い破られた人がいます。 なに、そんなリスクがあるものはいやだ? それでは、今度はもっと上等なものにしましょう。 ごきぶりやみみずのような下等動物とは違って 鳩は背骨がある高等な生き物です。 高等な人間様にふさわしい食べ物と言えましょう。 調理方法は簡単。 近寄ってきた鳩を蹴飛ばし、 地面に叩き付けられたところでぱっと捕まえれば、 あとは羽をむしって丸焼きにするだけです。 最近の鳩は図々しくなって、 人間様がそばにいても逃げようともしません。 人間様は怖いんだということを教育してやる必要があります。 この料理は、人間様の腹がくちくなるばかりでなく、 鳩に対する教育効果もある一石二鳥の料理です。 鳩にも感謝してもらわなければなりません。 なに、これもいやだ? それじゃあ、あなたは何だったら食べるというのですか?




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パラパラ



11時4分の鷺沼行きと 11時5分のたまプラーザ行き。 どちらのバスにしようかというときに、 どちらの方が安全かということは、 あまり考えない。 東京に出かけるには鷺沼の方が一駅分近いし、 1分だけだが先に出る。 そういえば、鷺沼11時半は、 確か30分に一度の急行のはずだ。 たまプラーザには27分頃に到着のはずだが、 11時5分で果たして乗れるだろうか。 ギリギリというところだろう。 12時半に池袋に着くためには、 この11時半の急行を外すと ちょっと厳しいかもしれない。 しかし、たまプラーザ行きでも、 20分あれば駅に着くぐらいは着けるんじゃないか。 たまプラーザ行きなら、鷺沼行きと違って バス停は坂道の下だから歩きが楽だぞ。 そういったことを30分も前からあれこれ考えられるのは、 どちらのバスも1、2時間に一度しか出ないからだが、 結局鷺沼行きに乗って、 運転席のすぐ後ろの空席に座ってから、 どちらの方が安全かということを考えなかったことに気付く。 両方のバスが同時に事故に遭うことはあまりないだろう。 事故に巻き込まれるとしたらどちらか片方だ。 だとすると、どちらのバスに乗ったかが、 生死の分かれ目になるかもしれない。 そんな大切なことなのに、 オレはどちらが安全かをよく考えずに、 急行に確実に乗れるだろう、 というだけのことで鷺沼行きを選んでしまった。 これはまずい。 ではどちらが安全かというと、 半分くらいは同じ道を走るのだから、 大差はないような気もするが、 安全性を深く考えなかったという点で、 オレには瑕疵がある。 瑕疵がある分、事故に遭う確率は高いかもしれない。 しかし、事故に遭っても、バスの場合は全員が死ぬのはまれだ。 どこに座るかが生死の分かれ目になる。 オレは何も考えずに、 そこが空いているから というだけのことで前の方に座ってしまった。 前の方は正面衝突のときに危険度が高い。 しかし、後ろは後ろで追突されたときにはもっとも危険だ。 前や後ろでなくても、横からぶつかってきたときには ぶつかった場所が一番危ない。 でもまあ、横からどこにぶつかるかは予測できないので、 その場合には諦めるしかないだろう。 途中までは中央分離帯があるからそこまでは正面衝突はないな。 そのあとも、充分な幅のある道を通るから、 追突よりも正面衝突の方が確率は低いだろう。 でも、たまプラーザ行きの方が中央分離帯のある距離が長いから、 たまプラーザ行きにした方がよかったかな。 いずれにしても、事故に遭ったら池袋12時半は間に合わない。 ただ生き残ったというだけなら、 今日わざわざ危険を冒して出てくることはなかったはずだ。 やはり事故に遭う可能性の少ないバスを選ぶべきだったな。 しかし、鷺沼行きとたまプラーザ行きのどちらが安全かと言われても、 やはり簡単に答えられるものではない。 そこまで考えたとき、 バスはすでに中央分離帯のない道を走っており、 その道は工事をしていて片側交互通行になっていた。 そうだそうだった、ここは工事をしていたのだ。 工事のことは知っていたはずなのに、 なんで忘れていたのだろう。 確かに誘導の係員はいるけれども、 常識的に考えれば、 この工事現場はほかの場所と比べて、 正面衝突の可能性は非常に高い。 しかもこのバスは、 行列の末尾という行列の先頭の次に危険な位置で、 この工事現場を通過しようとしていた。 向こうから前をよく見ないで走ってくる車がいたら、 オレはおしまいだ。 そして、向こうからすごい勢いでバイクが走ってくるのを見たとき、 私はほとんど目を瞑った。もうだめだ。 鷺沼行きに乗ったのは失敗だった。 後悔先に立たずとは、このことだ。 しかし、バイクは誘導の係員を見てすっと止まった。 よく止まってくれたものだ。今日はついてるぞ。 結局、バスは鷺沼駅に無事に着いた。 11時20分。 11時半の急行には間違いなく乗れる。 たまプラーザ行きは無事に着いたかな。 急行に乗るときには、 安全な場所はどこかということを もっと考えてから乗ることにしよう。 さっきはオレのバスの方が追突する可能性を見落としていたもんな。




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一身



とうとう食糧が尽きた。 どこに行っても何もない。 数日後にじいさんが死んだ。 そんなことはしたくなかったが、 背に腹はかえられないということで、 死体を食べた。 骨までしゃぶりつくしても、 すでにガリガリに痩せ細っていたので、 食べられるところはほとんど残っていなかった。 数日後に限界が来た。 父さんが食糧を探しに出かけたあと、 みんなで相談した。 共倒れになるくらいなら、 誰かに犠牲になってもらうしかない。 父さんが手ぶらで帰ってきたときに、 心臓を突き刺した。 じいさんよりは食べられるところが多かった。 数日後に限界が来た。 父さんを食べてから、 母さんは一歩も外に出なかったが、 兄さんがちらりとこちらを見てから、 母さんの心臓を突き刺した。 兄さんが左半身を食べて、 私が右半身を食べた。 数日後に限界が来た。 目覚めると、 兄さんが首を吊って死んでいた。 一人で兄さんの死体を食べた。 一人で食べたので、 限界が来るのを数日延ばすことができた。 その通り 私は殺人者である。 しかし、私の身体には 祖父と父と母と兄の身体が含まれている。 私の身体は私一人のものではない。 食べるものに困ったことのないお前らに 私たちを殺す権利があるのか?




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ゆっくりと数を数えてください。 0、1、2、3、4… いくら数え方がゆっくりだからといって、 100にもならないうちに やめちゃう人が多いのは、 困ったもんだよなあ。 もっとも、 自分でやめちゃうやつは ごく少数の弱虫だけで、 たいていはいきなり連れ去られて 数えられなくなっちゃうんだけど。 そろそろ数えられなくなっちゃうかな、 と予想がつく場合もあるけれど、 やる気満々なのに 突然あんたはもう終わりだと宣告されて、 ぱっとかき消えちゃうのは かわいそうだよなあ。 でも、がんばってがんばって やっと100まで数えたときには、 回りに誰もいないってのも、 寂しいかも。 どう思いますか? そこの数え始めたばかりの人




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コントロール



止まりなさい。 止まりなさい。 そこで止まりなさい。 そこで止まるんだ! 言われたら、 すぐに言われたとおりにしなさい。 止まりましたか? そこがあなたの死に場所です。 いやだ? でもあなたは、 必要とされていないのです。 あなた以外のだれからも。 あなたはあなたを必要としていますか? いらないでしょう。 だれからも必要とされていないのだから。 でも、 あなたのからだの、 一つ一つの部品は、 必要です。 必要とされている、 人を生かすために。 ですから、 あなたの死は、 コントロールされなければ、 なりません。 部品を損なうような、 死に方は、 認められません。 しかしあなたにも一つだけ、 選択権を与えましょう。 殺されるか、 自分で死ぬか。 どちらにしても、 このロープを使うことにします。 決まりましたか? それでは、 一、 二、 三。




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死後



どうしても結婚したい人がいるの と妻がいうので、 好きなようにしなさい とこたえた。 男はそれから一週間もたたないうちに引っ越してきて、 お父さんと呼びたくなければ 呼ばなくてもいいんだよ といった。 変なことをいうやつだと思ったが、 結局広永さんと姓で呼ぶことにした。 連れ合いを失ったのは私なのに、 おどおどと落ち着きがないのは、 二人の方だった。 たしかに、 親が再婚したときの 義理の親と子の関係は これに似ているのかもしれないな と思った。 男は私の機嫌を取ろうとして、 へらへら作り笑いをしながら、 あれこれ話しかけてくる。 そのくせ、 私が見ている前で、 私が目にはいらないような顔をして、 妻に抱きついたりするのだ。 夫婦ならそれが当たり前ではある。 私もあのような顔をして、 妻に抱きついたものだ。 しかし、 妻は男に抱かれながら、 ときどき私の方に ごめんね と目で語りかけてくるのだ。 そのたびに 胸のなかがカーッと熱くなって、 あいつのことは おまえなんかよりも おれのほうが よく知っているんだ! あいつとの歴史は おれのほうがずっと長いんだ! と叫びたくなる。 連れ合いを失うことの つらさを感じるのは、 そういうときだ。




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返してください



道端におなかが落ちていたので、 切り裂いてみると、 少し小さなおなかが入っていたので、 切り裂いてみると、 少し小さなおなかが入っていたので、 切り裂いてみると、 少し小さなおなかが入っていたので、 切り裂いてみると、 おみくじのような紙が入っていて、 一つで二十五年 四つで百年 と書かれていた。 どこかでこういうの見たことあるぞ。 ハコネ細工だったかな。 ロシア料理店で土産に売っている 木の人形だったかな。 でも名前が思い出せない。 一つで二十五年 四つで百年 返してください。




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家出



うちの詩は 今日も しくしく泣いていました だって ちょっと家出しただけなのに 誰も迎えにきてくれないんだもん ごめんね きみのことは ときどきは思い出すんだ でも 思い出したときには 忙しくて迎えに行けず 暇で迎えに行けるときには きみのことを思い出せないんだ 今度思い出すときまで 死なずにそこで待っていてね


(C) Copyright, 2000 NAGAO, Takahiro
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