支え



音楽に初めて触れたのは、 まだ少年の頃、 姉の恋人に交響曲のレコードを 聞かせてもらったときだった。 渇いて干からびた心に、 音楽はたっぷりと潤いを与えてくれた。 せっかく集めたレコードを捨てた母のことは 心の底から憎んだ。 人が生きていくためには、 食べることよりも大切なことがある。 そんなこともわからない俗物め! 大人になってから、 バイオリンを習いに行き、 素人オーケストラに入った。 そのまま音楽の道に入りたいと思ったが、 家族の反対に屈して勤め人になった。 結婚して子どもが生まれた頃までは、 それでもバイオリンを弾くこともあったが、 やがてふっつりとやめた。 接点はレコードだけになったが、 音楽は心の渇きを癒してくれた。 音楽は心の中の宝物であり、 そのようなよりどころを持たない人間を 哀れんだ。自分はそういう人間とは違う。 そんな調子でさらに三十年が過ぎた。 妻に先立たれ、一人暮らしになった。 侘びしい生活の中で、 音楽を聴き続けた。 本人はすぐに帰ってくるつもりだったらしい。 しかし、ベッドに寝かされているうちに歩けなくなり、 認知症も見つかって、 一人暮らしに戻すわけにはいかない、 と医師に宣告され、 老人介護施設に移った。 もう二度と家には帰らないだろう。 音楽から引き離されて、 聴きたいと言い出すかと思いきや、 そんな気配はどうもない。 楽しみは食べること。 周囲に居丈高に接するのは、 自分は他人とは違う という思いの名残なのだろう。 その思いが心の支えなのか。


(C) Copyright, 2012 NAGAO, Takahiro
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