雑巾の絞り方




 最近、雑巾の正しい絞り方というのを覚えました。
 恥ずかしながら三十八歳になるまで知らなかったのです。それまで、私は両手を前に突き出し、拳骨を横に二つ並べて、右の拳骨を向こう側、左の拳骨をこちら側に回して雑巾をねじっていましたが、どうにも水切れが悪く、拭いたところを必要以上にびしょびしょにしてしまうのでした。私は子供の頃から握力などの筋力が弱い方でしたので、それも自分の非力のせいだと思っていました。しかし、実際はやり方が間違っていたのです。二つの拳骨を横ではなく、縦に並べ、両方の拳骨を内側に回すのが正しい方法だったのでした。この方法だと、以前の方法よりも二割方多く水が絞れます。拭いたところがびしょびしょになるようなことはありません。
 この方法は、妻から教わったのですが、妻もお茶かなんかの先生から教わったそうです。考えてみれば、数年前に私の絞り方は間違っていると、妻に言われたことがあったように思います。そして、正しい方法も教わったはずなのです。しかし、そのときは、その方法には違和感があるというようなことを言って、私は間違った方法に固執してしまったのでした。では、なぜ今回は正しい方法を受け入れられたのかというと、この拳骨の形が剣を持つときの拳骨の形と同じだということに気付いたからです。私は学生時代に合気道部というのに入っていましたが、この部では合気道のほか、鹿島神流の剣術の型も教わりました。剣は脇が甘いと相手に対して隙を作ることにもなりますし、剣自体の威力も半減してしまいます。脇を絞るためにはどうしたらよいか。柄を握った二つの拳を内側に絞り込むように持てと教わったのです。それから二十年もたって、剣のメタファとしての雑巾が初めてくっきりとイメージされたのでした。雑巾の先に見えない刃をイメージすると、雑巾を絞るのがとても楽しくなります。
 しかし、そこで新たな疑問がわいてきました。合気道部では、技の練習をする前に、道場を掃除します。当然ながら、雑巾も絞っていました。先ほどの剣の持ち方でも、二つの拳を「雑巾を絞るように」内側に絞り込めと教わったような気がします。ということは、誰かから正しい雑巾の絞り方を教わっていた可能性は高いのです。あるいは、その頃は正しい方法で雑巾を絞っていたのかもしれないという気がしてきました。では、なぜ、一度覚えた正しい雑巾の絞り方を忘れてしまったのか、正しい絞り方をしていたことさえ忘れてしまったのか、こればかりは自分のことながら、自分に聞いてみてもわかりません。正しい絞り方をしていた時期が本当にあったかどうかもわからないのですから。
 雑巾と剣のイメージがはっきりと結び付いてから、別の疑問もわいてきました。剣を握るときには、左の拳を手前に、右の拳を刃に近い方に置きます。これはたぶん右利きの持ち方です。私は子供の頃から右利きの手の使い方を当然のものとして受け入れてきましたし、自分が右利きであることに何の疑いを持つこともありませんでした。雑巾を絞るときにも、同じように左を手前にして絞っていましたが、どうにも違和感があります。そこで、右を手前にしてみると、違和感なくぎゅっと絞れたのでした。正しい絞り方をなかなか受け入れなかったのも、そのためかもしれません。これはたぶん左利きの方法です。剣を持つときには、右を手前にすることなど考えもしませんでしたので、不思議な感じがしました。三十八年間気付きませんでしたが、私は本当は左利きだったのかもしれません。
 雑巾の正しい絞り方を知ってから一ヶ月たちました。以前よりも固く絞れた雑巾を見るたびに、少しうれしくなります。正しいことをしているという安心感があるからなのでしょうか。これからは、腕がなくなったり自分が誰だかわからなくなるようなことがない限り、死ぬまで、雑巾を絞るときには、左利きの方法ながら正しい方法で絞るだろうと思います。正しい雑巾の絞り方を覚えてから死ぬまでの方が、生まれてから正しい雑巾の絞り方を覚えるまでよりも短いのかと思うと残念ですが。


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