飛行機



一二時に離陸してから一六時に着くまでの一二時間 夏の午後が延々と続く 下を覗き込むとシベリアの森と蛇行する川 湖だと思っていたところは雲の影だとわかった それがわかってからもう何時間もたった シベリアの森と蛇行する川の風景は変わらない 地図を見てもどこを飛んでいるのかわからない あのなかにこの飛行機を見上げている人は いるのだろうか? 視線を上げて真横を見れば 飛行機雲が二、三本 ウラル山脈近辺と思われるところで 地面は雲に包まれて見えなくなった 次に地面が見えたときには家が見えた 地図を見るとエストニアらしい 四年前のソ連軍侵攻のTVニュースの画面を思い出した それからすぐに海を隔てて見えた地面はスウェーデンらしい その先の細かい島々はデンマーク 反対側の陸地はドイツ そこから切れ目なく続くオランダの運河 一、二時間の間にヨーロッパの様々な国が現れては消えた このなかで何度も何度も戦争が行われたわけだ やがてオランダの地面も消えて海一色になる ナチスの爆撃機の航跡をたどって ブリテン島が見えてくる




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 都会



初めて見たロンドンは 思っていたより都会じゃないような気がした しかしそれならどんな都会を期待していたのだろうか? 摩天楼 人々の冷たい視線 威圧感? 田舎者というコンプレックスに萎縮して 街の隅でいじけていたかったのだろうか? ロンドンは赤い街だった あまり高くないレンガ造りの建物が あまり広くない道の両側に続いていた そして驚くほど多くの民族の人間が 歩いていた




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 馬車



イギリスに着いて初めての朝 眠いような眠くないような頭の向こう側で ぱかぽこぱかぽこという音がした 部屋のカーテンを少しめくって通りを覗くと 自動車に混ざって馬車が歩いていた ナオキ、馬車だよ、馬が歩いているよ と叫んだが ナオキが来たときには 窓の右端から消えてしまっていた ナオキは外を覗きながら うまは? うまは? と繰り返していたが 馬車は二度と通らなかった




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 中華街



Sohoの中華街は 横浜の中華街よりも 香港に似ているような気がした しかし香港よりも ロンドンに似ているような気もした 道の両側 どの建物もレストランだったので どこで食べたらよいのか迷った 外から値段がわかる 少しこぎれいな店にえいやっと入った 客はほかにいない ナオキの好きなラーメンと ママが好きな焼きソバ パパが好きなワンタンメンを頼んだ 飲み物はと聞かれて 結構と答えた 同じ東洋人の顔つきだが 英語で話した 厨房に戻ってオーダーを告げると 若い彼女は不機嫌になった こちらの方をちらちらと見ながら 訴えるような目で厨房のなかの男に大声でまくしたてている 聞いている方は メガネの向こうで笑いながら まぁまぁとなだめるような顔をしている もちろん、何を話しているかはわからない あれ、何かまずいことでもしたっけ? 飲み物を取らないといけなかったんじゃない? Excuse me. One beer, please! 彼女は大儀そうに腰を上げ ビールの栓を抜くと 中身が飛び出しそうな勢いで ドンとテーブルの上に置き スタスタと戻って 再び訴えるような目で厨房のなかの男にまくしたてている メガネの奥でニヤニヤ笑いながら彼は料理を作っている 料理ができ上がると 彼女はまたいやそうな顔をして皿を運び ドンとテーブルの上に置き スタスタと戻っていった 料理の味は横浜の中華街よりも 香港に似ているような気がした 少々しつこいが しょぼくれた日本の中華料理よりはうまいと思った そう思いながら 食べている日本人はしょぼくれて下を向いていた やっぱりお茶を頼むべきじゃないの? 妻の声に我に返ってExcuse me. Tea, please. 彼女の機嫌が少し直ったような気がしたのは 気のせいか? お勘定は13ポンドでお釣がきた お釣は置いてきた よその店と比べると格安だったね それにけっこうおいしかったしね 店を出てから満足したというような会話をしつつ 中華街には二度と来なかった




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 正確な時計



ナオキは日本では八時までぐっすり寝ていたのに イギリスに来ると毎朝決まって三時に目を覚まし ママ起きて 起きてようと騒いだ 日本時間に直せば昼前の十一時である ナオキの時計は 日本とイギリスの両方に 少しずつ正確に合わせていたのだろう




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 電話番号



教えてもらった電話番号を日本に忘れてきた 勤務先の代表番号だけわかったのでかけてみた 五時をまわっていたので録音メッセージのみ ここにかけてみろと言っているらしい ところがその電話番号が聞き取れない テープが一度回ると電話は切れてしまう またかける わからない 二、三桁ずつ聞き取るつもりでまたかける またかける またかける またかける 結局同じ電話番号に六回もかけてしまった やっとわかった電話番号にかけると 当の相手は夏休みをとっていた ホテルをチェックアウトするとき 請求書に電話の使用料が書かれていた 同じ電話番号が六行並んでいた




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 抱擁



ホテルのロビーで窓から外を見ていた 下山君の運転するワゴン車が通りを走ってきて ホテルのエントランスに向かって曲がってくるのが見えた 運転している下山君の顔もはっきり見えた 中から手を振ったが下山君は気付かないようだった ホテルの前には適当な駐車スペースがなかったので ワゴン車はホテルの前を少し通り過ぎたところで止まった 下山君が住んでいるからロンドンに来たのに 日本から遠く離れたこの街に下山君がいるというのが 何とも不思議だった ワゴン車から下山君が下りてくるのと同時に ホテルから飛び出して走っていった 下山君もすぐに私に気付いたようだった 日本じゃないからこんなことをしても自然な気がするよ と言って西洋人のように抱き合った そうは言ったものの 西洋人よりはぎごちない感じがした それでも 抱き合っている相手は紛れもなく下山君だと実感することができた




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 出迎え



大谷君は一月にも出張でロンドンに来た 一週間でインド、イギリス、アメリカと回ったのだから ジャパニーズエンジニアもハードである 神戸に帰ってすぐに地震にあった 家はひっくり返らなかったが 結婚祝いの食器類は全部壊れてしまったそうだ 電話で話しただけだから どのくらい大変だったのか そうでもなかったのかは わからない 備蓄していた牛肉で毎日すき焼きを食っている などと電話では言っていたが 新婚の奥さんはしばらく実家に避難していた それでも予定通りロンドン行きは決行となった 双方の都合で私たちとは日程が一日ずれた 昨日着いたばかりのHeathrowに下山君の車でお出迎え 飛行機は予定よりも早く到着していた 昨日通った到着ロビーに急ぐ たった一日の差でも随分前から来ているような錯覚に陥る クウェートからの便と重なったせいか 出迎えも到着もアラブ系が多い そう言えばあの辺はイギリスの植民地だったな 昨日もアラブ系の人をたくさん見かけた 次第に日本人も増えてくる もう出てきちゃったのかな でも出てきたからってふらふらどっかに行ったりしないよな などと言っているうちに 二人が小さく見えた 地震のあとは初めてだ やあと声を交わすとすぐに 彼はタバコがすいたいと言った おお それならこっちだよ と物知り顔で喫煙所に導く 二人同時にタバコに火をつける それから大きくフーっと煙を吐いた




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 坂道



緩やかに左にカーブを切る上り坂 左側にはWindsor Castleの城壁が続き 右側にはアンティークな商店が並んでいた 城壁はそれは立派なもので そこから先の空間を大きく見せていた 商店街の小さな店の数々は その小ささによって城をさらに大きく見せていたが 渋い色で統一されており、決して見苦しくはなかった イギリスでは、街の景観を保つために 建築に対する規制が厳しいのだそうな アンティークな店の一つ一つには MacDonaldやHaagendazsといった店が含まれていたが 外からはとてもそのような店には見えなかった もっとも、坂道にはそれらの店の商品の抜け殻が散乱していた 見学の時間は終わっていた 鉄柵から城のなかを覗くと 牢屋に閉じ込められているようだった 花売りのお嬢さんと記念写真 そこから緩やかに右に曲がる下り坂をおりていった アンティークなMacDonaldの横の アンティークなPubに入る 暗くて汚くて無愛想だから落ち着く ぬるいビールで乾杯!




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 田舎道



ロンドンから西へ時速九〇マイル 一面の草原のところどころに森 家 地平線をさえぎる山はなく その分遠くは見えない 高速道路なのに牛注意 羊注意の標識 牛はいるけど羊はあまりいない おかしいなぁ、もっと羊がいるはずなんだけど 食われちゃったのかな イギリス人は羊を二度殺すって言われているんだよ 一度は本当に殺すとき、もう一度は料理するときってね 下山君の話に助手席でへー、なるほどと相槌をうつ 女と子供は時差ぼけで眠っている 大谷君は小さな目をぱっちりあけて 黙って前を見ている おいおいお前も会話に参加しろよ 片道一車線の道に下りても時速七〇マイル すれ違う車はあまりなく 交差する道もあまりない 草原とまばらな森 家 八時近くなるとさすがに暗くなってくる あ、thatched house イギリス人でも珍しがるという茅葺きの家を 下山君が指さすが あっという間に見えなくなった




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 青空



manor houseの朝は青空 ニシンとフライドエッグの食事を取ってから 散歩に出かける 盛んに吠えている犬は 檻のなか 狩りにでも使うのだろうか 尖った歯がギラギラ光っている 逃げるように歩いた細い道は 何やらでこぼこしていて その先の大きな木の下では 二頭の馬が休んでいた リスはその木をかけ上がっていった 青空の片隅にはヘリコプター 周りにほかの建物は見当たらない manor houseは荘園領主の屋敷だという 税金対策で次々にホテルになっている 庭から正面に回ると スーツにネクタイの紳士が水をまいていた Good morning




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 黒バイク



Cotswoldsの田舎道は どういうわけかバイクが多かった サラブレッドの騎手のように前のめりで乗るタイプではなく 後ろにそっくりかえるタイプ 男も女もみな黒いレザーのスーツで 五台、十台と群れをなしている 草っ原の真ん中にガソリンスタンドがあった 下山君は イギリスでは自分で入れるんだよ と言って車を下りた 走っているときには気付かなかったが 蜂が何匹もぶんぶんと飛んでいた 大丈夫かな、悪いなと思いつつ 蜂が恐くて車を下りられない 下山君は蜂など目に入らないような顔で ガスタンクのキャップを外している しばらくすると バイクの一団がやってきた 日本で言う暴走族のようではないが 蜂の親玉のようにぶるんぶるんとうるさい 汗とほこりでどろどろの革のスーツが ぷんと臭ってきそうである ますます悪いなと思いつつ ますます下りる気をなくす 下山君は相変わらず涼しい顔をして ガソリンを入れている バイクの一団が爆音を残して去ったあと 下山君の給油も終わってガソリンスタンドを後にした 次に入った街のレストランには バイクお断りと書いてあった バイクの客は嫌われているのだろうか? あの蜂をwaspと呼ぶらしいことは あとで知った




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 川の上の街



川の上にある街 Stratford-upon-Avon 川の上にある街という言葉がふっと思い浮かんだのは この街の名前を覚えたからなのだろう upon-AvonはRiver Avon沿いという意味 ほかのStratfordと区別するための形容詞だ 土地の人は形容詞抜きでStratfordと呼ぶ もちろん この街は 一五六四年四月二三日にWilliamが生まれ 一六一六年四月二三日にWilliamが死んだ街 有名な観光スポットである 私たちも まだ残されている四〇〇年前の生家を外から見て (街全体が落ち着いた雰囲気に保たれているが  さすがにその家は回りの家よりも色が古い) ぞろぞろと人の流れに従って歩き 彼が死んだ家 New Placeを外から眺めた そこからRoyal Shakespeare Theatreに抜ける道は急に人通りが少なくなり 明るい道も劇場の陰に入ってしまう しかしそれも束の間で 劇場の横を抜けると突然視界がぱっと広がる 芝生の広場に座った人々 木の下で大道芸を見ている人々 芸人のよく通る声とどっと噴き出す笑い声 その先には日の光に輝くRiver Avon レストランや売店になっている舟が並んで停泊していて 狭い川の向こう側にはまた同じように低い町並みが続く ああ なんてゆったりとした日曜日 Stratford-upon-Avonは 川を抱いている街だった




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 紅茶



ホテルの朝食で紅茶を飲んだ ボーイ氏がティーポットをテーブルに置いた途端 紅茶の香りがぱーっと広がった さすがに本場は違うわいと感心した 毎朝毎朝感心しながらうまいうまいといって飲んだ 数日後、下山君に教わったスーパーマーケットに行った 紅茶は有名店で買うよりもその方がおいしいのだという いつもより日本人比率の低い店内をうろうろ歩きまわり やっと見つけた紅茶売場には、ティーバッグしかなかった 隣のコーヒー売り場には何種類も豆が置いてあるのに その翌朝、朝食のティーポットのふたを開けてみた 予想通り 下山君にその話をしたら 香りの違いはティーバッグかどうかではなく 水で決まるという カルシウムの多い硬水が紅茶には合うのだそうな 日本に帰ってから早速そういう水を買って試してみた   おいしい ような気がする




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 石鹸と水



ホテルの石鹸をつかってシャワーを浴びた とんと泡の出ない石鹸で洗った気がしなかった そのくせ湯をかけると妙にぬるぬるして 洗い流せたような気がしない なのにタオルで身体を拭くと ぬるぬるはきれいに取れるのだ なんてひどい石鹸なのだろう 次の夜に別のホテルに泊まって別の石鹸を使った やはり同じようにぬるぬるする そのときにはイギリスの水がカルシウムの多い硬水だ ということを学習していたので どうやらこれは水のせいらしいぞと思った 翌日はまた元のホテルに戻って前日のホテルの石鹸を使った ぬるぬるは少しましだった 石鹸にも問題はあったらしい




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 エスカレーター



地下鉄のエスカレーターは長かった 地下鉄に乗っている時間よりも長かった 片側を開けておかないと 後ろから来て舌打ちするやつがいた 広告のポスターが等間隔に並んでいた すべての妊娠が喜ばれるわけではない 中絶手術のご相談は何某へ ポスターにはガムがへばりついていた 改札の前にpickpocketsに注意と書いた紙が貼ってあった 地上に出るとたいてい道に迷った




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 ミイラ



ミイラはガラスの二段ベッドで 仰向けに寝ていた ぐるぐる巻きの布の上に 目や口が書き込まれているものもあった ミイラというよりも 死体といった方が正確な感じがした 二段ベッドはいくつもあって その間を生きている人間がうようよしていた この一角は明らかにほかのコーナーよりも人気があった British Museumは年中無休入場無料で 写真、ビデオは撮り放題 私たちも死体の前でニッコリ笑って 記念写真を撮った




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 vjデー



Buckinghamの有名な衛兵は柵のずっと向こうにじっと立っていた あんなに小さいんじゃ蝋人形が置いてあってもわからない その手前の柵の少し向こうでは裸の上半身にtatooのお兄ちゃんがPAを運んでいた 柵のこちら側にぞろぞろ並んでいる観光客の視線が気になるらしく ときどきこっちを見てはふふんという顔をした 観光客の後ろの円形広場では仮設の舞台を作っていた あれまあ何をやるのかねぇ、ロックコンサートでもするのかしらん ダイアナ妃はそういうのが好きなんだよね などと言いながら観客席の横の説明を見ると 八月一九、二〇日vjデー式典と書いてあった 意味を理解するまでに三〇秒かかった 後から考えるとずいぶん長い三〇秒だった 日本人は盆休みに海外旅行をするが 盆休みには八月一五日が含まれているのである




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 猫たち



軽い夕飯を手早くすませ 急いで着替える ナオキはパジャマに 父と母はよそ行きに さすがに変だと思って パパとママはどこ行くの? ナオキも行きたい と言われたときには ベビーシッターを呼んで ミュージカルなどに行こうとしたことを後悔した ほどなくベビーシッター到着 きれいなお姉さんだったのでナオキはすっかり気に入り 親なんかどうでもよくなってしまった お姉さんの言ってらっしゃいの声に送られて ホテルを出る 日本でも盛んに宣伝されていたCatsが T.S.Eliotの詩集を脚色したものだとは うかつにもロンドンに来るまで知らなかった 北村太郎の 「いいかい、猫にゃー三つの名前がぜったい必要なんだよ、 どんなやつでもさ」 という訳はよく覚えているし 挿し絵入りの原著も持っている 持っているだけだけどさ 地下鉄をHolbornで下り New London Theatreに向かって歩き始めたときには もうナオキを置いてきたことを忘れていた だって よそ行きを着ているんだもんな 彼女も母の顔から女の顔になっている 同じように劇場に向かう人々と車 パブの呼び込みの声もにぎやかで こんな気分は久しぶりだなと思う 芝居は舞台がいきなりぐるりと回って始まった ロックとクラシックをちゃんぽんにしたような音 客席に向かって猫が走ってくる でも二階の我々の席にははるかに及ばない その猫たちがさっと消えると舞台の上の方から 伊達猫登場 よく動く腰だ ひとしきり歌うと別の何とか猫が登場 また歌が続いて... それにしても結構長い セリフもわからないし退屈してきたところで 主役猫のめーもりーという歌が始まった さすがにそれはすばらしく 眠気が吹っ飛ぶ その歌が終わったところで休憩 後半が始まって 結構長くて 退屈してきたところで まためーもりー 主役猫は階段を上って天国に行ってしまった 詩集ではきっと天国に行ったりはしないんだろうなあ と思いつつ終わる 日頃の母の疲れがたまっている彼女は 途中で寝てしまったが めーもりーで起きて 眠かったけど感動した とのたまわった オレは寝なかったぞ 芝居がはねたあとも糸の切れた凧となって Sohoのインド料理屋に紛れ込んだりしていたので ホテルに帰ってきたときには日付が変わる寸前だった ナオキは一時間ほどで寝たそうだ ホテルの外でタクシーを捕まえ ベビーシッターを見送る 部屋に戻ると彼女が母に戻ってナオキの布団を直していた 枕元にはお姉さんが描いた車の絵があった 私が描いたものよりうまかった




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 訪問



有名なロンドンの二階建てバスに初めて乗ったのは イギリスで過ごした最後の夕方だった 仕事帰りで満員のバスは北に向かって走る 最初は増える一方だった客が 逆に減る一方になると 周囲の建物の高さも下がってくる そんな街並みのなかに日本語の看板などもあって (漢字だけではなくてカナも入っている) あれがIRAに爆破された日本料理店 と下山君が指さした店のなかは がらんどうだった 終点は地下鉄のGolders Green駅 郊外に来ると地下鉄も高架になっていて 遠くからもよく見える この辺はユダヤ人と日本人が多いから JJ街なんて言われているのさ 下山君はそう言いながら 駅から自宅までの道を案内してくれた 歩きの距離は思ったより短く 下山君はこことレンガ作りのsemi-detachedを指さした 煙突が立っていて まるでイギリス人が住んでいるような家だ 奥さんが出てきてご挨拶 大谷君や私は初めてではないが 奥さん同士は初対面 さっそくイギリス人が住んでいるような家の前で記念撮影とあいなった 私たちは休みを取っての旅行だが 今日は水曜日 下山君はスーツ姿で私たちを案内してくれたのである さぞかし迷惑だっただろうと思うのだが 下山夫妻のhostshipはすばらしいもので ほどよいタイミングでおいしい料理においしい酒 話はおもしろくて観光やショッピングの情報も満載 (奥さんが厨房から出てきたときには下山君が料理を取り分けたりして) 退屈させず気を使わせず 最後はおいしい紅茶に手作りスコーン さすがにイギリス仕込みは違うと感心した なのに東洋の野蛮人が 学生時代のあることないこと一人でぶちまけて ガハハハハなどと下品に笑っているうちに 夜は更けていってしまった ごめんなさい 反省してます




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 スパゲティ



一週間で三回もスパゲティの店に入った 一軒目はSohoの小さな店 歩き回って疲れ果てた末の夕食だった パスタが茹で過ぎでボロボロだったが ソースの味がまずまずだったので満足できた 二軒目はCovent GardenのThe Marketの横 移動式の小さな観覧車やぐるぐる回る汽車が見える 最初の店よりも茹で加減は少しましで ソースの味も少し上だった 三軒目はRegents Streetから少し入ったところ 日当たりがよくて店のなかまで明るい 眠っていたナオキの目もぱちっとさめた 麺はアルデンテ! これはうまいぞ 三軒の二度と行かないだろうスパゲティ屋 行った順番が逆じゃなくてよかった




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 ドアマン氏



ホテルのドアマン氏は体格のよい初老の紳士だった 私たちがドアを通りかかると (私たちだけに限ったことではないが) 身体に似合わぬ高い声で はあろうと声をかけてきた それから腰をかがめてナオキに声をかけた ナオキには英語はわからないが 日本語もよくわからないので 日本語しかわからない私たちよりも ドアマン氏の英語がよくわかったのかもしれない ドアマン氏とナオキは仲良しになった 日本に帰るという日にドアマン氏に話しかけてみた うちのboyといっしょに写真を撮らせてもらえませんか? Sure! 記念撮影が終わると今度は彼が話しかけてきた うちでタクシーを呼んだら空港まで二〇ポンドで行けるよ 来るときのタクシーは四〇ポンド近くかかった それは安いということで じゃあお願いしますと言うと 彼はコンシェルジェに話をしに行った してみるとタクシーを呼ぶのは彼の仕事ではなかったわけだ タクシーが着くと 彼は妙に重い私たちのボストンバッグを運んでくれた ナオキと仲良くしてくれた若いポーターのお兄さんもいっしょだった ナオキはムニュムニュマン、ムニュムニュマン とわけの分からない言葉を連発してご機嫌だった ガイドブックには荷物一個につき一ポンドが相場だと書いてあった Thank you! Bye Bye!の握手のときにその一ポンドを渡した ドアマン氏は丸い硬貨をポケットにしまうと もう一度本当の握手だと手を差し出した 二度目の握手は一度目の握手よりももちろん感動的だった それから タクシーのドアが閉まりドアのこちらとあちらで手を振った タクシーが動き出した ポーターのお兄さんがMunyu-munyu-man Bye! Bye!と叫んで ホテルは見えなくなった




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 免税店



Heathrowの免税店ではShakespeare全集を売っていた A4サイズのでかい本の表紙はまるまるWilliamの肖像画で そんなものを平積みにしておけば目立つのである 値段はわずか九ポンド九九ペンス 一五〇〇円ほどだからお買い得だ しかも今お買い上げのお客様には 「イギリスの王様」という本がおまけでつく Shakespeare全集を買わなければ その本だって一ポンド少々するのである 買わない手はないではないか さっそく二冊を手にとってレジの前に並んだ 飛行機が出るまで「イギリスの王様」のページを ぱらぱらとめくった 歴代の王の生年と没年 殺した殺されたの話に系図の山 今は本の山に埋もれてどこにあるかわからない 一ページに二〇〇行のテキストが詰め込まれているShakespeare全集は まだ一ページも読んでいない




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 猫かぶり



二月一九日の夕刊一面中央に 「ロンドン、また爆破テロ」 という記事が載った 「IRA犯行か」 半年前には北アイルランド問題は 過去の問題だと思っていた 下山君がバスのなかから あれがIRAに爆破された日本料理店 と指さしてくれたときも 過去の話として聞いていた うかつだった 「現場は、王立オペラ劇場や地下鉄コベントガーデン駅に近い目抜き通り」 地図も載っているから間違いない Covent Gardenのマーケットに行くために Big Bus Companyの観光バスを下りた場所だ 角にサンドイッチスタンドがあって 少し寂しい道を入っていくと マーケットの横に突き当たる その通りには 頭からすっぽり紙袋をかぶせられて 後ろ足だけ出してばたばたしている 猫を売っている店があった 誰も見ていない店先のワゴンの上で 猫は休む間もなくばたばたしていた だからどうというわけではないが 記事を見て真っ先に思い出したのは なぜかその猫だった




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あとがき



 下山君と大谷君は、大学の合気道部の同期生である。九五年八月に、大谷君夫妻とともにロンドン勤務の下山君に会いに行くことになつた。パックツアーでこそないが、今どきの日本人にはよくある海外旅行である。帰ってから、ここにまとめたようなものを書いた。なんで行分けしているのだろうと思いつつ、この内容は、この形式でしか書けなかつた。
 自分でも半信半疑で五月頃からこっそりInternetのホームページに置いておいたところ、鈴木志郎康氏が電子メールで励ましてくださった。そこで、思い切って清水鱗造氏にお願いしてこのような形で出版していただくことになつた。鈴木氏には無理を言って帯文まで頂戴した。両氏には感謝の言葉もない。このようにささやかな書きものだが、旅行でお世話になつた下山君夫妻、大谷君夫妻と我が家族にささげたい。

一九九六年十月五日

長尾高弘



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(帯文)



 先ずは、インターネットの一点にこの詩集を見つけた。ディスプレイの画面上で読むのがもどかしく、プリントして、手製の詩集にして読んだ。日頃は見えない隣人の姿を見ることが出来て、嬉しかった。
 この詩集を、作者は「観光旅行」と題しているが、それは自己、家族、国家、歴史などの様々な意識が交錯して、比喩表現を抜けたダイレクトな言葉で、感じやすいひとりの男の姿を、軽く、そして深く、語り出している。これは、インターネットという情報の網目を踏まえた表現の言葉の結晶といえよう。

鈴木志郎康


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