*



罰を与えよ
罰を与えよ
自分に罰を与えよ
思い当たる罪なんてなくていい
罰を与えることが大切なのだ
浄化されるぞ
浄化されるぞ
罪のない無垢な身体に戻れるぞ
本当の罪を忘れることができるぞ




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死んだ母



ある朝、 夢のなかに死んだ母が、 出てきた。 母はもう死んでしまったが、 そこは夢のなかだったので、 母は生きて動いていた。 しかし、 生きて動いていたと言っても、 若くて元気だった頃の姿ではなく、 病気で衰えた晩年の姿だった。 腰が曲がっていたから、 亡くなるまであと三年もない。 病院から退院してきたところだった。 「チクショー、チクショー」 と怒っていた。 母は不満をあまり口にせずに、 死んでしまったので、 このように怒っているのを見て、 何やら少しほっとした。 そして何を怒っているのか尋ねると、 「こんなカラダにしやがって」 と言う。 見ると、体じゅうから管が突き出していた。 そうか、病院が気に入らなかったのかと思って、 病院について批判めいたことを言うと、 「そうじゃない、お前だ」 と言う。 そんな無茶なと思いつつ、 私にも苦い思いがないわけではなかった。 母の看病は父に任せ切りだった。 母の具合が悪くなって、 父がうろたえて電話をかけてくると、 飛んでいって、 いっしょにうろたえるだけだった。 そうやって実家に泊まった翌朝、 母に、 「あなたはどなたですか」 と言われたことがあった。 実の母に自分のことを説明するのは、 難しいことだが、 何とか説明すると、 「そうですか、私にもそういう名前の子供がありました」 と言われた。 父はみるみる疲れていった。 私は動かなかった。 そのくせ、 みんな楽になれればいいのにと思ったことは、 一度ではなかった。 もちろん、それを口にしたことは一度もなかったし、 それを思ったときには、 すぐに思ったことを打ち消そうとしたが、 思ったという事実は消えなかった。 夢のなかの母は、 私を睨んでいた。 ああ、確かに私は楽になっていたのだ。 母の病気が悪くなってから、 これが何年続くのだろうかと思ったが、 続いたのは三年だけだった。 あとから振り返ることは簡単だ。 もうあれから三年近くたっているのか。 私は夢のなかの母を見ていることに、 耐えられなくなって、 目をあけた。 母は目の前から消えた。 死んでからも、 母はこうして私に殺されるのか。




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ハトについて



ハトがたくさん飛んでいて、 糞がべったりついているような街でも、 ハトの死骸は見かけない。 ハトはどこで死ぬのだろうか。 飼い犬が庭でハトをつかまえたことがあった。 運動不足の犬につかまるなんてどうかしている。 このまま犬がハトを殺したらいやだなと思ったので、 割って入ってハトを救い出した。 ハトは羽と腿のところに怪我をしていた。 しかし、病院に連れて行ってやるほど、 こちらは善人ではなかった。 隣の空き地に捨てるように放した。 怪我をしているハトは飛べなくて、 地面の上にじっと立っていた。 数時間後、ふと思い出して隣の空き地を見たら、 ハトはいなくなっていた。 あのハトはどこへ行ったのだろうか。 ハトの目をじっと見ていると、 ハトの目がどこを見ているのかは、 よくわからない、 ということがわかる。




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今がお得



人の死に方って、 病気に殺される、 事故で殺される、 赤の他人に殺される、 知っている他人に殺される、 というように、 いろいろあるとは思っていたけれど、 最近になってわかったんだ。 自分に殺される、 ってこともあるんだなあってね。 今はもう覚えていないような、 つまらないきっかけだったんだけど、 そのとき以来気持ちが塞ぎこんで、 何もする気が起きなくて、 気が付くと、 死にたい死にたいって、 そればかり考えていたんだ。 今死ねば、 あれからも逃げられる、 これからも逃げられる、 詩集ももう四冊作ったから、 こんなもんでいいんじゃないか、 これ以上作っても何も変わらないさ、 なんてね。 死ぬなら今がお得って感じで、 どんどん死ぬ気になっていったんだ。 今こんなことを言っていられるくらいだから、 もちろんそのときは死なずに済んだんだけど、 (それに今はそのときの気分さえ  はっきりとは思い出せないくらいなんだけど) ちょっとした風向きによっては、 死んでいたかもしれないなあと思ったときには、 ゾッとしたよ。 それまでは、 オレは自殺するような弱虫じゃあない、 って思っていたんだけど、 自分が強い弱いという問題じゃないみたい。 ある瞬間から、 自分の中身が入れ替わっちゃって、 死にたい死にたいって思う自分を、 コントロールできなくなってたんだから。 入れ替わった理由だって、 思い当たらないくらいだから、 いつまた自分の中身が入れ替わって、 自分を殺そうとし始めるか、 わかったもんじゃない。 今は死にたいなんて思わないし、 病気や事故や赤の他人や知っている他人に殺されるのは、 いやだと思っているよ。 そう思っていれば、 殺されるのを防げることもあるかもしれない。 でも、 自分に殺されるのだけは防ぎようがないね。 まあ、殺したのが自分だったら、 以って瞑すべしってことかな。




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ガラス板



眠くなったので寝たのだけれども、 寝たあともいつまでも眠たくて、 なかなか起きられないのだった。 わたしは、 ああ眠い、ああ眠いと思いながら、 歩いていったが、 わたしは寝ているのだから、 歩いていったのは夢のなかだった。 気がつくと、 ほかの人たちは、 みんな服を着ているのに、 わたしだけがまったくのまる裸なのだ。 醜い裸を見られるのが恥ずかしくて、 わたしは、 ちんちんをばたばたさせながら、 走って逃げたが、 逃げた先にもほかの人たちがいて、 わたしはどうしても一人になれないのだった。 どうしてこんなときぐらい、 一人にしておいてくれないのだろう、 と世のなかを恨めしく思ったが、 世のなかが恨めしいのはいつものことなので、 わたしはまる裸でがまんすることにして、 逃げるのをやめた。 するとわたしに話しかけてくる人がいた。 その人は、 わたしがまる裸だということを、 少しも気にしていないようだった。 ああ、この人はまる裸のわたしを差別していないんだ、 と思うとうれしくなって、 わたしはむちゅうになって話していた。 夢のなかなので、 話し相手は少しずつ変形していったが、 そんなことはおかまいなしに、 話していた。 そのうちに、 わたしは眠いのに、 どうしてこんなに忙しいのだろう、 ということに気づいた。 よく見ると、 わたしが話していた相手は、 大きなガラス板に描かれているだけだった。 ガラス板には背景の図柄も描かれていた。 よく描けているものだと感心しながら、 わたしはガラス板のまえで、 ちんちんをぶらぶらさせていた。 そうかみんなガラス板だったのかと思ったら、 ほっとして、 目が覚めた。 ほとんどまた寝てしまいそうだったが、 気力をふりしぼって起きることにした。




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視野



一人が海外転勤になるので、 大学のクラブの同期五人が集まった。 久しぶりと口々に言う、 私以外の四人の姿が、 私の視野に写っている。 一人が強く主張することによれば、 五人が揃ったのは二十年ぶりだという。 この映像は、 二十年ぶりの貴重な映像だったのか、 と思う。 二十年前、二十歳前後だったときには、 二十年というのは大変に長大な時間だと思っていた。 ほかの四人もきっとそう思っていたに違いない。 一人がこの二十年はあっという間だったと言った。 本当にそうだったとほかの四人も口を揃えた。 あと二十年もあっという間だろう。そのときには、 みんな六十過ぎのじじばばだな。 二十年後、私の視野に写る四人を想像してみた。 そのとき私が死んでいたら、 私の視野というものはないのだな、 と思った。 それでも、 欠落した視野から、 どうにかして四人を見よう、 ともがいた。




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写真展を観るために、 山手線のある駅で下りた。 何度も通り過ぎているけれども、 下りるのは初めての駅。 改札口を出ると、 線路を跨ぐ細い道があって、 円の内側に向かってその道を歩き始めると、 左側に墓地が見えた。 右側は寺。 会場は墓地の先の喫茶店の先にあった。 写真には言葉が添えてあった。 そのなかの一枚には濁った川が写っていて、 内陸に育ったので海に憧れていた、 川は海につながっていると思って、 川を見ながら海への思いを耐えた、 というような言葉が書かれてあった。 ここからは遠く離れた場所が写っている。 しかし、今それが置かれている場所は、 確か数百年前には海岸線だったはずだ。 そう思ったとき、 内と外の境界が崩れて眩暈がした。 会場を出て駅と反対の方に向かって歩いた。 右側に先ほどとは別の寺。 左側の路地の奥にはラブホテルが見える。 そこで道は二股に分かれていて、 右を選ぶと、すぐに車止めにぶつかった。 その先は下り階段。 私が立っていたところは思いがけず丘の上だったわけで、 足元に家々の低い屋根が並んでいた。 垂れ下がった空には夕陽がぶら下がっていた。 階段を下りて海の底に入っていく。 人が呼吸をしていて歩いているのが不思議に思えた。 *簑田貴子・北爪満喜写真展「くつがえされた鏡匣」二〇〇一年四月一〇日〜四月二四日




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落ちる



目と目の間のちょうど真ん中あたりから、 内側に引っ張られる力を感じた。 吸い込まれるというより、 落ちているらしい。 落ちても落ちても落ちたりなくて、 最後の瞬間がやってこない。 ひょっとすると、 そのときが来るのは、 かなり先のことなのかもしれない。 しかし、そう思っている間に、 唐突にやってくるのかもしれない。 いずれにしても、 そのときまでは 落ち続けるしかないのだ。 いつから落ちているのかは、 今さらもうどうでもよいと思った。 落ちている間は、 まだ終わっていない、 ただそれだけのことだと思った。




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川について



むかし、 川は、 山から海へ、 ではなくて、 海から山へ、 流れていた、 という。 ときどきは、 山をつき抜け、 空高く、 かけのぼることも、 あったかもしれない。 そのようなときには、 長い胴は、 右に左に、 のたうちまわり、 バサッ バサッ と、 しぶきをあげ、 赤く燃える眼は、 草木を、 焼き払っただろう。 人々は、 恐れ、 おののいたに、 違いない。 しかし、 それも今は昔。 川は、 山から海へ、 流れるように、 なったのだから。 でも、 昔と今とで、 本当に、 違いがあるのだろうか。




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入れ子



人の身体のなかには、 目に見えない小さな人々が、 無数に住みついている、 という話を聞いたことがある。 それら小さな人々は、 大きな人のなかにいることを知らず、 自分は独立した人格である、 などと言っていて、 互いに仲がよろしくない。 挙句の果てには、 二手に分かれ、 派手な戦争をやらかして、 大きな人を死なせてしまう。 もちろん、 そのときには、 小さな人々もみな滅びてしまうのだが、 大きな人にとっては迷惑な話である。 思い当たることはあった。 手足の動きが、 思いとは裏腹に、 左右に少しずつ、 ずれるのだ。 身体のなかに、 新しい意思が、 宿りつつあるらしい、 そう気付いたときに、 遠くから、 微かな、 声が、 聞こえた、 ような気がする。 ジャスティス、ジャスティス……




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ものには、 誰からも見えるものと、 そうでないものがある。 彼の場合、 ある日突然、 空の一点に、 小さな舟が、 見えるようになった、 という。 もとより、 舟は、 空に見えるべきもの、 ではないので、 きっと、 何かの間違いに違いない、 と思いながらも、 空を見上げると、 視界の隅に、 小さな舟が 引っかかっている。 それも、 日を追うごとに、 近付いてきて、 なかの様子さえ、 伺えるようになった。 これは残された時間が短い、 ということなのかもしれない、 何をしようと考えて、 詩を書くことにした。 彼は、 詩に志を持つ、 人だったのである。 舟が見えるまでは、 一つ書くのにも苦労したのに、 そのときは、 立て続けに四つ、 書けたという。 ところが、 四つ目を、 書き終えた頃から、 舟が遠離っていって、 ある日、 きれいに消えてしまった。 人違いだったらしい。 それからはまた、 一つ書くのにも、 苦労するようになった、 という。 だからといって、 もう一度舟を見たい、 とは思わなかったそうだ。




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神々の家



緩やかな丘を、 上ったり、 下りたり、 しながら、 歩いていくと、 人々の家に交じって、 小さな神々の家、 がある。 ほかの場所より、 ちょっとだけ空に近いとか、 水がちょろちょろ、 湧き出しているとか、 ほかの木より、 ちょっとだけ古い木が立っているとか、 たったそれだけの理由で、 そこに、 神を見つけ出した人々は、 その神に、 何を、 祈ったのだろうか。 車で走れば、 小さな神どころか、 坂があることさえ、 気が付かないけれど。 無神論なんて、 雨が降っても、 雨が降らなくても、 三度三度の食事を、 腹いっぱい食べて、 食べ残しまで作ることが、 人として当然の、 権利だと思っていられる人間の、 ぜいたく、 なのかもしれない。




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石文字



それは、 石に文字を書いて、 並べていく、 遊びである。 石の並べ方にも、 文字の選び方にも、 一言では、 とても説明できない、 熟練の、 技が必要で、 なかなかに、 難しい。 うまくいくと、 石のなかから、 ふわふわと、 子どもが出てきて、 踊る。 観客たちは、 それを見て、 立った 立った、 と歓声を上げる。 昔は、 東西に分かれて、 立った数を競う、 団体戦もあったというが、 今は廃れている。 私は、 夢のなかで、 三回やってみた。 三度目でようやく、 ひょろひょろの、 子どもが一人、 出てきたが、 目を覚ましてから、 それを書き写すことは、 できなかった。




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黄昏



ここまで来たときには、 黄昏てきていた、 というよりも、 黄昏てきたときに、 やっと着いたところが、 ここだった、 というべきか。 行かなければならないところが、 どこなのかはわからないが、 まだずっと先にあることは、 間違いない。 もし明日がないとすれば、 暗くなっても、 先を急ぐべきか、 ここまで来たことに、 満足すべきか、 それとも明日がくることを、 信ずるべきか。 もし明日があるとすれば、 明日も同じことで、 悩まなければならないのだ。




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道の両側に、 並木のように連なっている、 電燈のなかの、 一本の根元に、 小さな花束が、 くくりつけられている。 誰もが、 気が付かないふりをして、 通り過ぎていくが、 本当は、 ああ、 ここはそうなんだ、 と、 一瞬でも思っているのだ。 いずれ、 その花束にも、 取り換える人が、 いなくなる、 ときがくる。 誰もが、 忘れたふりをして、 通り過ぎていくが、 隣の電燈にも、 その隣の電燈にも、 かつては、 小さな花束が、 くくりつけられていたときが、 あったのだ。 人は、 どこでも生きていけるし、 どこでも死ねる。 誰もが、 気が付かないふりをして、 通り過ぎていくが、 境はなくなったのだ。 人を、 生の側につなぎとめておく力は、 もうどこにもない。




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インソムニア



布団のなかに入れば、 身体の底から、 噴き出すような 突き上げてくるようなものが、 喉を満たして、 いつまでも眠れないことが、 わかっているので、 寝室に向かう前に、 医者に頼み込んで、 分けてもらったクスリを、 ごくりとのみこみ、 そのくせ、 よせばいいのに、 寝室の手前で、 ふらっと横に曲がって、 本を手に取っている。 クスリをのんだからといって、 すぐに眠くなるものではなく、 本だって、 何ページも読めるのだが、 そのうちに、 さすがに意識が混濁していることに、 ふと気付く。 こいつの度合いが激しくなると、 起きられなくなるのか、 などと思いながら、 布団にもぐりこむが、 やはり、 そのときはなかなか来ない。




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翻訳論



知り合いの翻訳家、 自分の考えを書くのは嫌い、 だって、 考えを用意するのが面倒じゃないか、 言葉になるのを待っている、 考えがある、 その考えに言葉を与えるのが好き、 それは乗り移る、 ということだけど、 原著の著者に、 なろうとするわけじゃない、 自分のものとして、 違和感のない言葉を吐くこと、 以前は口ごもるようなところが残ったが、 仕事を始めて十五年、 ようやくしっくりとくることが、 多くなってきた、 うまくいったと思うのは、 原語に戻すのが難しそうな、 文章になったとき、 でも…… そんな人間を誰が必要とするのだろうか?




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伝えたいこと



またやっちまった、 と思ったときには、 すでに遅く、 身体は言うことをきかない。 きっと、 まわりにいる人たちは、 思いがけぬ災難に、 右往左往していることだろう。 申し訳ないことだ。 こうならないために、 工夫をしなかったわけではなく、 磨いてきたその工夫に、 溺れたわけでもないはずだが、 いつでもそれは、 予想外のところから、 やってくるので、 避けられない。 だから、本当にごめんなさい。 でも、 ぼくは字を知っているから、 そのときも、 ぼくのなかには、 ぼくが残っている、 ということを、 こうして、 字で伝えることができる。 安心した?




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分身



分身を作りたい、 という欲望は、 意外と、 切実なもののようである。 分身を作らなければ、 滅びるか、 他のものの分身に、 させられてしまう、 という危機感は、 確かに、 いわれのないこと、 ではない。 誰もがそれを、 目撃しているからである。 しかも、 ただ分身を作るだけでは、 足りない。 できる限り多く、 数え切れないほど、 作ることが、 要請されている。 せっかく作った分身でも、 簡単に消えていくものがあり、 それを計算に入れておかなければ、 滅びる運命を、 避けられないのだ。 そして、 以上の要件を全部満たしても、 滅びるものは、 分身もろとも、 すべて、 跡形もなく滅びる。 独りで死ねた時代を、 懐かしむものがいても、 無理はない。




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整理



死ぬということは、 死体を始めとして、 主を失った衣類だの、 愛用の万年筆だの蔵書だのと、 始末に困るあれこれを、 家族に残していくこと、 なのだなと思い、 いつお迎えがくるのかは、 わからないが、 生きている間に、 捨てられるものは、 捨てておこうと思った。 こんなものも、 あんなものも、 今までどうして捨てられなかったのか、 まったく理解に苦しむとしか、 言いようがないが、 「もったいないから」 とか、 「いつか役に立つかもしれないから」 とか、 殺し文句はいくつもあったのである。 本当の理由がほかにあったことは、 言うまでもない。 いつお迎えがくるのかは、 わからないが、 そのときまで、 これ以上余分なものを溜め込まずに、 生きていられるだろうか。




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あとがき



五冊目にして、初めて全体を三部に分けてみた。もっとも、五冊目と言ったところで、この本は諸般の事情により、さしあたり本の形にはならない。当分の間は、本の原型という形に留まることになる。まあ、それはさしあたり本質的なことではないので、とりあえずこのようなものでも一冊と数えることにして、その五冊目にして初めて、全体を三部に分けたわけである。T、Vは、いわばダイエット用品の広告に掲載されている使用前、使用後の写真のようなものである。使用後だけ見せればよさそうなものだが、使用前の写真がないと、宣伝としての訴求力が下がってしまう。では、Uは何かというと、使用中のあられもない姿であり、そのようなものが含まれている分、この本は通常の広告よりもグロテスクな作りになっている。しかし、通常の広告と同様に、気をつけないとだまされるポイントも含まれており、たとえば、「整理」と題された書きもののなかで、「捨てられるものは/捨てておこうと思った」と書かれているが、本当に捨てたかどうかははっきりと書かれていない。ときにしおらしいそぶりを見せることもあるこの人物は、おそらく卑怯に生き延びることだろう。関係ないが、作者は、U、V部を書いた三ヶ月ほどの間に、十kgの減量に成功している。


(C) Copyright, 2003 NAGAO, Takahiro
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