詩 都市 批評 電脳第6号 1993.1.4206円 (本体200円)5号分予約1000円〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18 (TEL:03-3428-4134) 編集・発行 清水鱗造 |
批評的切片 「鬱」からの矢印 ――『新版 つげ義春とぼく』 |
清水鱗造 |
つげ義春の作品にはずいぶん長い間、つき合ってきた。初めは学生時代の暗い下宿での暗いイメージを繰り出す自分にマッチした。暗いなかに内向するエロスが描かれている。そして、少し退廃的な雰囲気。生活のなかで、暗い絶望的なイメージにまみれてもアルコールに耽溺したりもできず、うまく立ち回ってやろうなどとは思えない性格。精神の本質的なものは退廃できないイノセンズ。そういう画像に惹かれ続けていたのだろうと思う。 しかし、つげ義春の作品を座右に置いておくというように、深くつき合ってきたのではない。なにかしら抜きがたく、共鳴するところを確認するために作品に戻っていくという感じだった。 文庫本で出るようになり、最近になってふたたび友達との話題に上るようになって、すこし分析的に考えてもいいかなと思いはじめた。それは、自分のイメージの置き場を少し整理するのに似ている。書棚を整理してみるように。 新潮文庫版『新版 つげ義春とぼく』の構成は、〈颯爽旅日記〉〈旅の絵本〉〈桃源行〉などの主に鄙びた温泉の旅行記と、夢を記述して絵を付けた〈夢日記〉、来歴など私的な随想の〈断片的回想記〉に分けられる。このうち、旅行記は『貧困旅行記』などを延長線上に置くことができる。〈夢日記〉から一つ引用してみる。 昭和四十七年六月十二日 甲府の町なかの商人宿に一人で泊る。ひどく淋しい気持でいる。 風呂に入ろうとすると、湯船の手前に炭火の真赤にもえているコンロ(うなぎの蒲焼用に似たもの)があり、それをまたがなくてはなれないので、股に火傷をしそうで危険。大便器も風呂とセットになっているので、しゃがんでみるが、すべり落ちそうで不安になる。 便所を改装した一畳くらいの部屋に長く下宿している、というところが出てくる漫画があるが、古びた便器というのは粗大ゴミのなかでもうらぶれた極致というものだろう。便所の夢というのは見やすい夢の一つだろうと思うが、湯気や水のイメージと火のイメージもセットになったのが面白い。しかも火を跨がないと便所や、浴槽にはいけない。 こういう内面と照応するように、〈断片的回想記〉には劣等意識や、対人恐怖の記述がたくさん見えて、むしろフリーターみたいに人々のなかに入って普通に働けないのは必然的なのがわかる。〈断片的回想記〉のなかでは、密航を企てたり、自殺未遂したり、祖父が一時泥棒をしていたなど、刺激的な話がでてくる。これらの話は刺激的ではあるが、普通の人も若いときにはだれでも冒険を企てたり、絶望したりする。これらの話を彩るつげ的なユーモアと、人々を見る目が、つげ義春的でなければだれでもがもっている物語なのかもしれない。 実生活のほうにも影響がみられた。なにをやっても根底の問題が解決するわけではないから、仕事をするのも無意味のように思えてならなかった。はじめ、マンガを職業に選んだのは、誰にも顔を会わすことなく生活できると思い、それなりに夢も希望もあったのだが、すでに自堕落になってしまっていた。 たいていの仕事というのは、その時間以外は自堕落になるというのが普通の人間だろう。つげはそういうところを律しようとも思わない。とすれば、生活とか金というのが、渇望を癒すものとしては働かないことを知っていることも加わって鬱の気分になるのも仕方がない。 重要なのはつげの生の拠り所となっている場所はやはり、表現とそれに賛同してくれる人の存在であり続けるというところだと思う。たとえば現在、詩を書く人たちも見失いがちな通路というものを保っているような感じだ。つげは〈ねじ式〉のような、優れた詩のような漫画をたくさん描いている。あたかも自然にできた渦のなかに吸い込まれて、そういう作品ができたように意識されているのかもしれないが、つげはそのチャンスを確実につかんだともいえる。 『木造モルタルの王国――ガロ20年史』(一九八四年一二月刊、青林堂)には〈チーコ〉が収録されている。猥雑ななかにエンタテインメントと純粋さを含んだ雑誌「ガロ」の描き手たちはさまざまに蘇るとともに、また古くて新しい風をこれから吹き込んでくるのかもしれない。 |
潜伏 |
築山登美夫 |
弾圧されて路上の物陰に潜んでいた。そこから逃げだせば走る背後から射たれることはわかっていたが、このまま潜んでいてもいつかは見つけだされ銃殺されることもあきらかだった。茶褐色の巨大な兜虫のような戦車が何台も周回する地ひびきがとどろいていた。それはしだいに環をせばめてこの物陰に迫ってくるようだった。目前には長い滑走路のような路上が探照灯に照らされて赤くチカチカ光っていた。その濡れた視野をよこぎって軍隊のくろい影があった。弾圧されたのは一冊の本を出版したためだった。本にふくまれた敵意が諜報機関によって解読されてしまったためだった。本は諜報機関の存在を知らず、無防備に行間を敵の目にさらしていた。ある日、自宅に踏みこまれ、連行された。留置されてしばらくすると戦争がはじまった。何のための戦争か、何と何の戦争なのか、なにもわからなかった。警備の混乱のすきをついて逃亡したのだったが、街にはすでに戒厳令が敷かれていた。軍のほか人っ子ひとりいない空白がのびちぢみしていた。この潜伏は無意味な潜伏であり、近づく銃殺は無意味な死であり、ようするに生存が無意味だとおもった。気がつくと戦車から身をのりだし、鳥肌だつ腕に銃をかまえて、潜伏する敵にそなえていた。ざわざわと草がそよぐたび、ぴくっとして銃口をそこに向けた。敵は無数にいるようだった。 |
春の電車 |
倉田良成 |
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サラマンダー |
清水鱗造 |
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詩と世界へのノート 2 夜になりたい |
福間健二 |
個人的にはいま、私は次に何をどう書こうかと考えて選択する余地などないところに立っている。客観的な意味で書かねばならないことなど何もないと承知しているが、かならず、昨日書いたことの続きを今日ひきだすことができる。要するに、はじめてしまったということなのだ。はじめてしまった以上、行くところまで行くしかない。言いかえれば、「すべて」を書くしかない。書くという行為はそういうことなのだと私は信じる。 言葉で世界と向きあい、それをものすごい速さで通りこしてしまうということを、存在のつづくかぎりくりかえしてゆく。そうすると最終的にはどこに行くのか。それは言葉に聞いてみなければわからないかもしれない。わからないことをやっているから詩だとも思うが、小説や批評の形式でもそれはできるはずであり、私の受けとめ方では、小説や批評の形式で膨大な詩を書いてきたすぐれた文学者が何人も存在している。逆に、詩を断念している文学者の手がたいだけの仕事のしかたも見えてくる。かれらの多くは、ジャンルの選択を宿命と取りちがえているのだ。そうでなければ商売で文学をやっているだけだ。 ヘンリー・ミラーは、「すべて」を書こうとした文学者のひとりだ。彼のどんな断片にも詩の要素が生きている。『南回帰線』(一九三九)の次のような一節は、いまこそ私の耳にはとても刺激的に、世界をものすごい速さで通りこしているようにひびいてくる。 《ぼくは狂暴であり、同時に無気力だった。さながら灯台そのもののように――怒涛逆まく海のまっただ中に、がっしりと定着していた。ぼくの下には、そそりたつ摩天楼をささえている岩棚とおなじ強固な岩があった。ぼくの土台は地中深く入りこみ、ぼくの身体の補強材は、赤熱したボルトを打ち込んだ鋼鉄でできていた。なかんずく、ぼくは一つの目だった。遠く広く探り、休みなく仮借なく回転をつづける巨大な探照灯だった。この油断なくさえた目のために、ぼくのその他の機能はすべて眠らされたように見えた。ぼくの持てる力はすべて、世界のドラマを見、それを取り込むことに使いはたされていた。》(河野一郎訳、以下同) ヘンリー・ミラーの体験は、煎じつめてしまえば「女」だ。けれども、その女性体験は「世界のドラマを見、それを取り込む」という奥行の深さがあり、その言葉は下半身に直結した欲望から哲学的な絶望までの振幅の中に自在な喩をはらむことができている。この一節にある「目」とそれに対する否定的な意識は、先駆的だ。この「目」に、映像と活字のメディアを通して世界のニュースを受けとめている現在の私たちの「目」をかさねて読んだとしても、無謀だとは思わない。 湾岸戦争も、旧ソ連の解体も、それに前後する各地域の紛争も、ニュースとしてのどぎつさだけをとれば、世界史の上でまだ始末のついていなかった野蛮な下半身があらたに露出している。私たちの「目」は、その刺激に対して「狂暴であり、同時に無気力だった」と素直に認めるべきだろう。そして、見ること・知ることがそれだけで終わって、私たちは一歩たりと動かずにいたことも。 この「目」はすべてを知ることができる。けれども、そのために他の機能をすべて眠らせるのだ。ミラーはそれを意識したところから破壊と変身の願望を語り、「ぼく自身の身体を知り、ぼく自身の欲望を知る機会が得られるよう、ぼくはあの目が消されることを願っていた」と言い、さらにこう書いている。 《仮借ない目に照らし出されたあの夜に、星屑と尾を曳く彗星に飾られた夜に、なりたかった。おそろしいほど静まり返り、まったく不可解であると同時に雄弁な夜に、なってしまいたかったのだ。もはや話すことも、聞くことも、考えることもなかった。今はただ取りまかれ囲いこまれ、同時に囲いこみ取りまくばかりだった。もはや同情にも思いやりにも用はなかった。草や虫や川のように、ただこの地上に棲息するというだけの人間になるのだ。分解され、光と石をのぞかれ、分子のように変わりやすく、原子のように持続性を持ち、大地そのもののように無情に徹するのだ。》 夜の思考はもう十分に提出された。それでも、なお夜はやってくる。昼間の現実から遮断された領域としてではなく、了解された世界と知られざる世界にまたがる無限の大きさをもつ領域としての夜。その夜になるというのは、「目」を消し、「目」があたえる意味をはぎとり、世界の一部としての自分を存在するままに投げ出してみることだ。世界と向きあい、世界を通りこして、とりあえずはこういう場所まで走りぬいてみたい。 (一九九二年七月二〇日) |
塵中風雅 (三) |
倉田良成 |
(承前) ところでこの時期の芭蕉に特徴的なのは、自らの「点削」に関する文言がしばしば見られることである。当書簡の中でも、 先(まづ)判詞むつかしく氣の毒(=困ること)なる事多(おほく)御坐候故、点筆を染申(そめまうす)事はまれまれの事に御坐候間、重而(かさねて)御免被成(なされ)可被下(くださるべく)候。 という具合に句の点削についてはかなりはっきりと消極的である。これは芭蕉のはじめからの態度ではない。現に延宝五ないしは六年頃(一六七七〜八)には俳諧宗匠として立机していたと見られ、元禄二年三月、「ほそ道」の旅に際して庵を人に譲り、無所住の身となるまで点者の生活を送っているのである。半残を含め、多くの門人が句評を求めるのは無理からぬところだが、この時期あたりから芭蕉は「世間」の中での自らの身の置きどころということを真剣に考え始めていたふしがある。「判詞むつかしく氣の毒なる事多御坐候」というのはたぶん実感であり、より具体的には「句評之事、点は相違有物にて御坐候。其段常の事ながら、其元に而俤ある事、爰元にては新敷(あたらしく)、其地にて珍らしき句、此地に而は類作有様(あるやう)の事も御坐候」(貞享三・四年三月十四日付東藤・桐葉宛書簡)といったことを指すのであろうが、それだけが点削を止める理由ではあるまい。必ずしも「世間」への鬱懐というのでもないと思う。彼は狷介な人ではなかった。この間の事情は、天和年間の木示(桐葉)宛書簡で「野夫病氣引込(ひつこみ)候而、点作止(やめ)申候へ共、遠方被指下(さしくだされ)候故、任仰(おほせにまかせ)候」と述べられているとおり、「病氣引込」という言葉がものがたっているようだ。芭蕉が蒲柳の質であったことは事実であり、これが通りいっぺんの言い訳とは思わないが、「病氣引込」は一面彼の「世間」に対するあるメタフィジカルな態度の選択であり、世を渡るありようの譬ではなかったか。そしてここから彼の「旅」までは、指呼の間にあるものと私は考える。 さて、書簡の終わりちかく、次のような一節がある。 江戸句帳等、なまぎたへ(生鍛)なる句、或は云たらぬ句共多見え申候ヲ、若(もし)手本と思召(おぼしめし)御句作被成(なされ)候はゞ、聊(いささか)ちがい(ひ)も可有御坐(ござあるべく)候。みなし栗なども、さたのかぎりなる句共多見え申候。唯(ただ)李・杜・定家・西行等の御句作等(など)、御手本と御意得(こころえ)可被成候。 「江戸句帳」とは『武蔵曲(むさしぶり)』『虚栗(みなしぐり)』などを指す。武蔵曲、千春編、天和二年(一六八二)刊。虚栗、其角編・自序、芭蕉跋、天和三年(一六八三)刊。当書簡からへだたること三年に満たない。当時の作風を参考のために挙げておく。 梅柳嘸(さぞ)若衆哉女哉 (芭蕉) 上巳 袖よごすらん田螺の蜑(あま)の隙(ひま)をなみ (同) あさつきに秡やすらん桃の酒 其角 梅咲リ松は時雨に茶を立る比(ころ)杉風 櫻がり遠山こぶしうかれたる 嵐蘭 主惡(アルジニク)し桃の木に竿もたせたる 同 艶奴(エンナルヤツコ)今やう花にらうさいス 愚句 これらは天和二年三月二十日付の木因宛書節で「当春之句共」として引かれたものだが、冒頭の芭蕉句、三句目の杉風句、四句目の嵐蘭句は武蔵曲に所収されている。(嵐蘭句は下五「うかれ来ぬ」の形で収める)。また、いわゆる「虚栗調」の句を芭蕉自身の作から採ってみると 憂テハ方ニ酒ノ聖ヲ知リ、貧シテハ始テ銭ノ神ヲ覚ル 花にうき世我酒白く食(めし)黒し 老―杜ヲ憶フ 髭風ヲ吹て暮―秋歎ズルハ誰ガ子ゾ 夜着は重し呉天に雪を見るあらん 茅舎水ヲ買フ 氷苦く偃鼠(エンそ)が咽をうるほせり (以上虚栗所収) すべての句がそうだとはいえないが、また当時の詩の風俗としての談林調から脱皮をはかっているのにせよ、前者はその伊達者風流(ぶり)の傾向が著しく、後者の老荘への傾斜は佶屈聳牙である。後年の芭蕉を思えば、「世間」に対して最も挑戦的であった時期と考えることができる。「なまぎたへなる句」や「云たらぬ句共」が頻出するのもある意味では当然のことだったといわねばなるまい。ただ、書簡の中で批判されている当のこの時期、すでに「兎角日々月々に改る心無之(これなく)候而は聞(きく)人もあぐみ作者も泥付(どろつく)事に御坐候へば」(前出木因宛書簡)とか、「其上(そのうへ)京・大坂・江戸共に俳諧殊之外(ことのほか)古ク成候而、皆々同じ事のみに成候折ふし、所々思入替(おもひいれかはり)候ヲ、宗匠たる者もいまだ三四年已前(いぜん)の俳諧になづみ」(天和二年五月十四日付高山伝右衛門《麋塒》宛書簡)といった言葉が見られるところに、天和―貞享期の芭蕉の変貌ぶりがいかに逞しいものであったかがうかがわれるのである。 一方、鑑にすべきとされている「李・杜・定家・西行」については、この貞享期に至ってはじめて開眼したわけではない。すなわち虚栗跋にいう。「栗と呼ぶ一書、其の味四つあり。李杜が心―酒を甞(ナメ)て、寒山が法―粥(ほふしやく)を啜る」「侘びと風雅のその生(ツネ)にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕(ムシクヒ)栗也」「白氏が歌を假名にやつして、初心を救ふ便ならんとす」。古人の名を列挙するこういう言い方は、芭蕉がたびたび行うところのもので、後の『笈の小文』や『幻住庵記』にもその例を見ることができる。ここで挙げられているのは、李白・杜甫(すなわち李杜)・寒山・西行・白居易となっているが、書簡では寒山と白氏が抜け、新たに定家が加えられている。この違いはやや微妙であって、彼の天和期の作風への批判が意味するなにごとかを象徴しているようである。それをあえていうならば、芭蕉における「中世」の発見だと私は考える。「野ざらし」の旅は、その点でも彼の一期を画するものであった。 書簡中、芭蕉に称賛されている半残の句がひとつある。最後に写しておきたい。 △帰路、横に乗ていづく外山の花に馬子、珍重珍重、風景感、春情盡候。 ここに芭蕉の「横」というイメージに対する独特の嗜好があらわれているものと私は見る。それは、後年の彼の次のような句に、はるかに水脈を引くものではなかったか? 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす 荒海や佐渡によこたふ天河 一聲の江に横ふやほとゝぎす (この項終わり)
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都市を巡る冒険 新宿・渋谷・池袋(二) |
清水鱗造 |
ぼくは二四六をくぐる地下道を歩いている。夜遅く仕事が終り、そのまま帰るのも、と思ってタクシーの運転手に泊まってもらったのだ。運転手は突然停めてほしいと言ったので、怪訝な顔をして振り向いた。ぼくはきっちりと料金を払い、もう誰の姿も見えない二四六沿いの歩道を歩き、道玄坂のほうに向かおうと地下道へ下りたのだ。中ほどまで来たところで、ぼくは遠くの向こう側の上がり口に黒い影が動くのを見た。暗い灯りの下にスプレーで「FUCK!」などと書いてある。汚れたジャンパーもデッキシューズも、ぼくのいでたちはこの地下道に似合わなくもない、と思いつつ黒い影のほうに向かっていった。不思議に怖さはなかった。 地上の車の音がゴーゴー響いている。 ぼくは黒い影が背の低い浮浪者であることを確認できるところまで歩いた。だんだん影は近づき、彼はぼくのほうを見ているのがわかる。 「これを買いませんか?」 男はぼくに声をかけた。彼は手のひらに丸い石を並べてぼくに差しだした。 「いらないよ!」 ぼくは無視して通り過ぎようとした。しかし、彼はしつこく追いかけてきた。階段を上りかけたところで、ぼくは彼の腰ひもに鉄の棒が差してあるのに気づき、まずいな、と思った。 「いくらなんだ?」「二百円でいいよ」 そのとき、ぼくは階段の上から照らされた男の目つきを見定めた。 「二百円ならあげるよ」 ぼくは財布を出して、コインをとりだしてわたした。そして、足早に階段を上った。 「受け取ってよ、ねえ」 またまずいな、と思って振り向くと男は石をぼくの顔の前に差し出す。その辺に転がっているような石だ。ぼくはしかたなく手を出した。 熱い、その石は猛烈に熱かった。確実にぼくは火傷したと思った。石は歩道をころころと転がって止まった。後ろを見ると男はもういない。ぼくは石におそるおそる触ってみた。まだ石は熱い。そして街の灯りが全部消え、星がまたたいている。 |