詩 都市 批評 電脳第11号 1993.12.25 206円 (本体200円)〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18 (TEL:03-3428-4134:FAX 03-5450-1846)(郵便振替:00160-8-668151 ブービー・トラップ編集室) 5号分予約1000円 (切手の場合72円×14枚) 編集・発行 清水鱗造 *郵送料が1月より値上げされるため、次号より\227(本体\220)となります。5号分予約\1100(切手の場合90円以下の小額切手)となりますのでご注意ください。1月15日までに予約の方は旧料金でOKです。 |
セミの日 |
布村浩一 |
|
子供の芝居 |
長尾高弘 |
|
詩――本人校閲 |
|
あこがれ |
関富士子 |
|
遺言 |
園下勘治 |
|
城と洞の扉に炎がもえる |
沢孝子 |
城の扉をひらいて面接する ひざまずく封筒が ケラケラ笑う 堀からはとぎすまされた武の掛け声がひびいて 伝統という流れにゆがんでいく胸の文字 毒蛇(ハブ)の舌なめずりで 不可解な位の椅子へ 鎧となる言葉の形があるから 驚いている封筒 胸中の洞はとじて 美しかった あの空の死の謎を解きたい 城の周りをうろうろしてやっと辿りついた面接なのだ なぜ受けごたえは呪文になるのか 法螺吹きの情念の舌 その動きにある卑屈さが恥ずかしい 奥のカーテンを気にする あのひびきは 機械なのか 馬のひづめなのか 屍のうめきなのか 了解できないで さまざまな動きにはらはらするだけ 城のなかへ入る資格なしという答えが返ってくる それは毒蛇(ハブ)のうねりは館からはみだす恐れがあり うろこのエロチシズムはカーテンの揺れにある襞にはそぐわない そのとき天に梅の花びらひらいて 鉄皇ぶしょうの恋にもえる便箋の文字のしたたりにふるいたつ 戦争で詰め込んだたくさんの頭脳の星 突っ込んできたのは鋭い梅の木の先 珊瑚の割れ目に花びらの傷口が浮く 戦後の城の扉は軽くなった 喜んで機械の街の奥へ 梅の屋敷に入れば椅子の人狩り 頭脳を打つ鎧は痛い その恐怖があり 今 胸ひらいて沖縄戦での 毒蛇(ハブ)の踊りを館で披露したいと はなやかな舞台で呪文をとなえているけれど やはり襲ってくる とぎすまされた武の掛け声が 伝統という堀の流れに 傷口のひびきが…… 不可解な天を梅の木がひらく 鉄皇ぶしょうの恋の優しさに 鎧の貌にある刀の先がだぶり 破れている胸中の傷口 ゆがむ文字の花びら 管理された城の扉をひらいて面接にいく老齢があり 階段をのぼりつめている執念には ケラケラ笑う封筒の変身してきた月日があり むなしい恋の奥にある梅の屋敷の人狩りの恐怖へ たくさんの星の頭脳がもえている ひざまずく扉に炎の花びら 洞の扉をとじて逃避していた こわれた風呂敷が ナワナワ這う 溝からはそぎおとしてくる華の水の輪がせまって 夜の器の真軸にみだれる頭の言葉 毒蛇(ハブ)の強がる牙で 迷路のような売る格子へ 浮き世にある文字の線にみせられて 後ろ暗くなる風呂敷 頭脳の扉をひらいて すくいだった あの街のむなしい恋に近づきたい 洞の闇にあるねばねばをすくいあげ 自由のためにいそいだ逃避なのだ それが性のうねりになり 南の踊りへとつながっていく この牙の尖りを確かめたのが嬉しい 岩底のシイーツに濡れていた あのしたたりは 楽器なのか 烏のなきごえなのか 交美のよろこびなのか のめり込めないという淵には 他界の儀式に参加できない根元の相違があって苦悩はつづく それは毒蛇(ハブ)のうずまきでは雪景色の刀の血に染まれない そのグロテスクさはあまりにも陽気すぎる 祖霊にある明るさ そのとき砂に珊瑚の花びらとじて 黍ユタがなしの死者が語りだしている そのふるえる樽の家人の言葉のひびきへとしずみこむ 古代を覗いた澄みわたる胸中の月 離別の闇がかたる祖霊の珊瑚に海の瞳 梅の亀裂の花びらに悪霊がたつ 現代の洞の扉は壊れ 幸せつかんだ座も 岩底となる珊瑚の夜に沈んでいく滅び 胸中にさまよう浮き世の激流 その怒りがあり 今 頭をとじて薩摩の支配へ毒蛇(ハブ)の交尾が笑う 家人の人身売買という極限の暮らしを思いつつ やはり格子はあるのだ そぎおとしてくる華の切り口 藩という溝深くからの悪霊のしたたりが…… 無意識の砂に珊瑚の海がとじている 黍ユタがなしの死者の狂いは 浮き世の恋の狂暴と重なり 尖りだすだす脳裏の激流 みだれる言葉の花びら 消滅する洞の扉をとじて逃避する娘が走り 階段をおりつづけている孤独には ナワナワと這う風呂敷の夜這いの抜け道があり 淋しい死者と語る岩底の珊瑚の夜にある滅びの怒りへ こわれた扉の炎の花びら 澄みわたる月の胸中にもえている |
祭礼 |
倉田良成 |
|
「棲家」について 5 |
築山登美夫 |
そのようにみてみると、鮎川信夫には『難路行』以前にも〈ジャンヌ詩篇〉(前号参照)と名づけたくなるような作品群が存在していることに気づく。その嚆矢は「生証人」(71年)だろうか。 入日の色がほんのりと/ふくらはぎからのどに昇ってくる/悲しい体にぞっこんまいって/あっさりと未来を売りわたした/ゆるしてくださいまし/けちな動物のプライドにかけて/くる日もくる日も/意地汚なく愛撫を重ね/天地をさかさまにして/入日のさまを/覗き見してきたのだ/もう誰も知りたがらない二人の秘密/ありったけの力をこめて/幾重ものドアを叩いてきた/空虚なこだまのなかの幾歳月/ある日 女は狂った目をして言った/「あなたは誰?」と (「生証人」全文) 愛撫によって入日の色にいろづく女の体にぞっこんになって日々を過した。女はそんな世間とは没交渉の日々(「もう誰も知りたがらない二人の秘密」)にしだいに精神の平衡を狂わせてしまった。そのような男の歳月の「生証人」が、もう男がだれであるかもわからなくなった女である――というのであろう。『鮎川信夫全詩集』ではこのあとに「どくろの目に」「宿恋行」とつづき、そこから詩集『宿恋行』の世界がひらけていく。その直前の作品群である。 血まみれの夕日が沈み/なまぐさい風が吹いてくると/どくろの目に涙がたまる//何度殺しても/すぐ生きかえり/草葉の蔭を恋しがって/早く早くとせきたてる/大好きな女の/なまめかしい幽霊にこがれて/どくろの目に涙がたまる//手に手をとって逃げたのに/いつかはぐれて一人になった/どくろの目に涙がたまる//これでもかこれでもかと/憎しみ燃やして/いのちを刻む/滅びようのないかたちがなつかしい/……そんなことは一度もなかった/もう夢には戻れない/どくろの目に涙がたまる (「どくろの目に」全文) たとえば渋沢孝輔は「生証人」に登場する女とは《おそらくそのまま日本の戦後である》と云っている。また北川透は「どくろの目に」の《どくろのイメージは、やはり、戦争体験の傷痕からでてきていると受け取るのが自然だろう》と述べている。だが先入見なしにこれらの作品とのみむかいあえば、これらの詩の喩法が、そうした戦後詩的喩法による読みの固着をふりきった場処におかれようとしていること、そのことが詩のモチフとされていることはあきらかなのではないだろうか。 つまり「生証人」の女は、「日本の戦後」にかぎらずどんな時代社会の意味への喩的還元もゆるさないエロス的体験そのものについたイメージとして出現しているし、「どくろの目に」のどくろは、性愛と愛怨とによって生命を衰耗させてしまった男のふたしかな心象による自画像であるというように、これらは戦争や戦後の体験の囲いから脱け出したところに出現した、過去の体験と断絶した対幻想のイメージなのである。 《ありったけの力をこめて/幾重ものドアを叩いてきた/空虚なこだまのなかの幾歳月/ある日 女は狂った目をして言った/「あなたは誰?」と》《これでもかこれでもかと/憎しみ燃やして/いのちを刻む/滅びようのないかたちがなつかしい》――これらの詩句が鮎川のかつての詩、戦後詩そのものであった彼の詩の屈折――だれとも共有することのできない私的な経験の奥処と、それを生みだしたひとつの時代社会の経験を喩的に照応させようとする営為がうんだ屈折から、自由になろうとして、私的な経験の奥処そのものについたところから出現していることはうたがいえないのだ。そこでよびこまれたのが、このような、むしろ断絶によって空白に直面し、衰耗するエロスの閉じられた世界であったとしても、である。 そのようにひとつの時代社会の体験の固定された囲いをとりはらったとき、そこに俗謡の七五律が混入してきていること、また詩形の短さ(それは媒体によって設定されたものでもあろうが)の伝統についていること――鮎川は「『宿恋行』について」(76年)でこの当時の文語七五律の詩日記を公開している。そのことからみても、それがじゅうぶんに意識された実験であったとことは想像にかたくないが、それゆえになおこの当時の彼の詩の困難をあかしているようだ。 季節はずれの花なれば/狂う命のありときく/行けどもつきぬ恋の闇/あわれやいかに花の香の/情けうすれしあだしごと/風に吹かれてせんもなき/都わすれの濃紫/季節はずれの花にあい/むかしのひとを/おもうかや 白い月のえまい淋しく/すすきの穂が遠くからおいでおいでと手招く/吹きさらしの露の寝ざめの空耳か/どこからか砧を打つ音がかすかに聞えてくる/わたしを呼んでいるにちがいないのだが/どうしてもその主の姿を尋ねあてることができない/さまよい疲れて歩いた道の幾千里/五十年の記憶は闇また闇。 はじめの引用がその詩日記からであり、あとの引用が「宿恋行」(72年)である。「『宿恋行』について」によれば前者の「行けどもつきぬ恋の闇」が後者に残響をとどめたとされるが、それいじょうに前者の文語七五律は「宿恋行」のモチフを露出させているとみることができよう。前者にくらべ「宿恋行」ははるかに拡がりのあるイメージと韻律を恢復した世界であることはいうまでもないが、その濃密なエロスの体験の探索というモチフはさいごの二行によって見づらくなってしまっている。そしてこのような逆説的な表出の回路をへて鮎川ははじめて詩の再生にであったのだ。 わたしはすでにこの連載の第1回で「鮎川の詩を、もう一度、男女の秘事そのものへ、戦後社会の喩をこえて、さしもどすこと」と書いたが、ここでようやくその端緒にたどりついたようである。 |
[組詩] オムライス |
清水鱗造 |
|
バタイユ・ノート2 バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第4回 |
吉田裕 |
4 雑誌「アセファル」のなかのニーチェ 前回のノートの最後に、共同体理論のバタイユの実践としてグループ「アセファル」があることを書いたが、よく知られているように同名の、けれども性格は異なる雑誌が、同じ時期に創刊されている。正確に言うと、雑誌「アセファル」の方が先行していて、第1号の出るのが36年6月、グループの発足するのが37年はじめのことである。これら二つに先立っては、コントル・アタックが35年はじめに結成されて、はやくも36年四月に瓦解し、そのあと37年11月には「社会学研究会」の最初の講演会が開かれている。これらはバタイユの共同体への関心の実践だったといえるだろうが、であればその中にニーチェの陰が色濃く現れてくるのも当然だともいえるかもしれない。典型的なのは、前回述べたように、指導者原理を拒否したグループである「アセファル」だが、雑誌「アセファル」にも、同じ影は色濃く落ちている。それはまず第一に、これまで多く引用してきた「ニーチェとファシストたち」および「ニーチェ・クロニック」が、第2号および第3・4合併号に、そして「ニーチェの狂気」が第5号に掲載されているからである。 しかもこれは、バタイユがたまたまこの雑誌にニーチェ論を発表したというのではない。この雑誌そのものがニーチェの強い影響下にあった。簡単に「アセファル」のことを振り返ってみる。この雑誌は、バタイユのイニシアチヴによって発刊されたが、編集陣には、クロソウスキー、マソン、ロラン、ヴァールを加えている。ただし最終の第5号は、すでに分裂が兆していたのだろう、バタイユの単独編集で、執筆者もバタイユ一人である。5号まで発行されたが、合併号がひとつあるので、都合4冊しか出ていない。バタイユが関与した多くの雑誌同様、短命に終わっている。この雑誌は一九八〇年に、ジャン・ミシェル・プラス社から復刻版が出たので、容易にみることができるが、さして厚い雑誌ではなく、各号によってばらつきが大きい。創刊号の裏表紙の広告によれば、季刊で各号16ページとされているが、36年6月の1号は8ページのみ、37年1月の2号、同じ年の7月の3・4号は32ページ、39年6月の最終5号は24ページである。これらは号毎に特集が組まれていて、第1号が「聖なる陰謀」、第2号が「ニーチェ復元」、3・4合併号は「ディオニュソス」であった。第5号は「狂気、戦争、死」である。これらの特集名からだけでも、ニーチェの影響の大きさを推しはかることはできる。第1号の「聖なる陰謀」で、中心になっているのは、サド、キルケゴール、ニーチェの3人であり、2、3・4各号はいうまでもないし、5号の中心にあるのは、ニーチェの発狂という事件である。 バタイユのニーチェ理解も、このような文脈の中に織り込まれ、またこの文脈から浮上してくる。彼の理解は、必ずしも彼単独のものではなかった。そのことは彼の理解を少しもおとしめるものではない。彼の理解は、彼の交友関係の中から、そして本当はもっと深い時代の共同性の中に根を持っている。それはとりあえず、この時期のフランスの知識人の間でのニーチェの紹介のされ方、受け取り方の問題だが、その下にさらに時代と社会全体の問いのようなものがあることだろう。しかし、現在、この根のところまで探索を及ぼすことは、筆者の力量を越える。ただ彼のごく近いところでのニーチェの読み方をいくらかでも明らかにしたい。そのための典拠となるのは、まず「アセファル」である。 「アセファル」の5つの号は、通読されたとき、どんな印象を与えるか。どのようにすればニーチェをファシスム的読解から救い出すことができるかという私たちがこれまでバタイユのうちに見てきた関心に立って見れば、それは必ずしも、同人たちに共通する第一の問題であったとはいえないかもしれない。このような問題意識を真正面から打ちだしているのは、ほとんどバタイユ一人であるからだ。ただニーチェへの関心は、前述のように同人全員にほぼ共通し、そこからバタイユ的な意図が生じてくる経路は見えてくると言えるだろう。 第1号は、マソンのデッサン2枚のほか、特集と同名だが、バタイユの「聖なる陰謀」とサドをテーマとするクロソウスキーの「怪物」という二つの論文からなっている。バタイユの論文の冒頭は、イタリックおよびゴチックで書かれ、かつ論旨からして、雑誌全体の宣言文のようになっているが、そこでとりわけ目を引くのは、〈われわれが企てるのは、戦争である〉という断言である。この一節は明らかに、最終の第5号の最後におかれた「死を前にしての歓喜の実践」のそのまた最後の節の大文字で書かれたもう一つの断言、〈私自身が戦争そのものである〉につながっている。この戦争の意識は「アセファル」の全体に流れているし、また「無神学大全」にまで延長されることになる。そしてニーチェもこの意識の上で読まれていることは疑いを入れない。 「聖なる陰謀」で主張されているのは、合理的な世界を拒絶して、陶酔を求めることである。バタイユはそれを、マソンのデッサンを示唆しながら、〈彼は人間ではない。彼はもはや神ではない。………彼は怪物なのだ〉と言っている。重要なことは、この陶酔は個人単独では達成されない、とされていることである。なぜ個人ではそれが不可能かというと、それは、自己という限界を超えることを前提とするからであり、必然的に他者を必要とするからだ。それは共同的な作業でなければならない。フランス語の〈陰謀conjuration〉という言葉には、接頭辞としてすでに共同のという意味が含まれている。そしてそこに呼応するようにニーチェの言葉が引用されている。〈あなたたちはばらばらに生きていて、今日は孤独だが、そのあなたたちはいつか群衆となるだろう。個々人として名指されてきた人々は、いつか群衆として名指されることになるだろう。そしてこの群衆から人間を越える存在が生まれることになるだろう〉。人間が群衆と化する契機を、バタイユは戦争にみている。そしてそこに生じる陶酔の経験から、またキルケゴールから示唆を得て、宗教的とも考える。それが宣言文の大文字のゴチックで強調された〈われわれは断固として宗教的である〉という断言の意味である。ここにはすでに、ニーチェを共同的あるいは神秘主義的に読むというバタイユの特異な読み方の一端が現れている。それは戦時下でよりいっそう鮮明にされるはずのものである。 もう一つおもしろいのは、ここにドン・ジュアンの名が現れていることである。バタイユは「アセファル」の創刊を、スペインのトッサにあるマソンの居宅に滞在中に、彼と話し合って決めたらしいが、この序文を書いているときに、マソンが隣の部屋で蓄音機でモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」の序曲をかけていたことを書き留めている。この論文ではそれだけの話なのだが、「アセファル」を通じてこの名は見えかくれすることになる。それがはっきりと浮上するのは、3・4号におけるクロソウスキーの論文「キルケゴールによるところのドン・ジュアン」においてである。この題からみて、そして「アセファル」創刊号のバタイユの論文中の引用からみて、キルケゴールがニーチェと並んでよく読まれていたらしいことがうかがわれるが、キルケゴールのドン・ジュアンは、もちろん『あれかこれか』に出てくるモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」に関する叙述からきている。キルケゴールを通したモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」というのは、推測するにバタイユ、マソン、クロソウスキーらの間に共通する関心だったのだろう。バタイユについて言えば、戦後になるが彼は、「ニーチェと禁制の侵犯」(51年に初稿が書かれている『至高性』所収)のなかで、「ニーチェとドン・ジュアン」という一節をもうけて、同じ問題を取り上げている。 ではドン・ジュアンとは誰だったのか。この点では、クロソウスキーとバタイユは、書かれた時期の違いもあるが、かなりの差異を示している。クロソウスキーによれば、ニーチェにとってのディオニュソスが、キルケゴールにとってのドン・ジュアンであった。〈ドン・ジュアンは、彼にとって基本的で形をとらない力のことであり、この力はその動きのさなか、対象に出会い、接触することで個体化しようとするその点でたまたませき止められるのだが、そのとき再び最初の非形態的な動きのなかに立ち戻り、その際限のないリズムを取り戻すのである〉。一方、戦後のバタイユの論旨によれば、ドン・ジュアンによる禁制の侵犯は、まだ理性の力によるものなのだ。〈ニーチェにとっては道徳的要請が内側からの自己主張をやめることはなく、ニーチェはドン・ジュアンのように、理性の過誤を頼みとすることができなかったのである〉。こうしてバタイユはキルケゴールよりもいっそうニーチェに近づくが、いずれにせよ、これらの解釈のなかにあるのは、明らかにニーチェ的な視点を基準に置く立場である。 私たちの関心をもっとも強く引くのは、次の第2号である。なぜならこの号は「ニーチェ復元」の特集名を持ち、バタイユの「ニーチェとファシストたち」をはじめとして、多数のニーチェ論を集めているからである。構成を簡単にみてみると、マソンのデッサンを別にして、バタイユの右記の論文が冒頭にあって、量的には全体の半分近くを占めており、続いてヘラクレイトスに関するニーチェの未訳の断章が翻訳紹介され、再びバタイユが、ファシスムと神の死という二つのテーマに関して行った「提案」と題する短いが重要な文章が置かれている。この文章の背後にいるのも、明らかにニーチェである。 続いてヴァールの「ニーチェと神の死(ヤスパースのニーチェ論についての覚え書)」、ロランの「人間の実現」、クロソウスキーの「世界の創造」がある。ヴァールのものはもちろん直接ニーチェに関わるものだが、ロランのものはニーチェの名が現れるがニーチェを正面から扱ったものではない。クロソウスキーのものは特にニーチェを主題にしたものではない。いずれも3ページ以下の、バタイユの論文に比べれば短いものである。そのほかにこの号では書評の欄があり、先にヴァールが取り上げたヤスパースのニーチェ論を、今度はバタイユが取り上げ、もう一つでは、クロソウスキーがさらにその前年の38年に出たレーヴィットのニーチェ論を取り上げている。 「ニーチェとファシストたち」に表されるバタイユのニーチェ理解は、直接にはこのような文脈のうちにある。そのなかでまず取り上げたいのはヴァールの論文である。ジャン・ヴァールは一八八八年生まれで、バタイユより八歳年長で、一九七四年に死んでいる。専門的な哲学者であって、戦後はソルボンヌで教えている。最初英米哲学の紹介者として活動するが、二〇年代後半からドイツ哲学に関心を移す。29年に『ヘーゲル哲学における意識の不幸』、38年に『キルケゴール研究』の著書がある。「アセファル」にキルケゴールを持ち込んだのは彼だったのだろうか。彼はイポリットとならんでフランスにおけるヘーゲル研究の最初の世代である。ただしイポリット、ヴァールともコジェーヴの講義には出ていない。「哲学研究」グループの創設者でもあり、このころNRF誌の外国思想および文学の紹介の欄を担当していて、ニーチェに関する書物をいくつか取り上げている。 「アセファル」でのヴァールの論文は、ベルリンで出たばかりのヤスパースのニーチェ論に関する覚え書という体裁をとっているが、それに触れる前にもう一つの書物に触れておかなくてはならない。それはシャルル・アンドラーの『ニーチェの生涯と思想』と題された本である。アンドラー(一八六六―一九三三)はフランスのゲルマニストで、ビスマルクやマルクス、エンゲルスに関する著作があるが、全六巻となる大部のニーチェ論をも著している。ヴァールはこの書の最終の第6巻が出たとき、NRFで取り上げているが、書評としての性格からか、内容を紹介して文体に敬意を表することで終わっている。他方バタイユは、「アセファル」のこの号の書評で、この書が〈今日までのところニーチェの生涯と思想を総体的に表す唯一の本〉であることを認めながらも、〈彼の解釈はプロフェッサーのものであって、危険に満ちた哲学的な苦悩にむかうよりも、文学史の静的な報告にむかう趣を持っている〉と批判している。そのような不満があったとき、ヤスパースのニーチェ論は、すくなくともバタイユには大きな刺激を与えるものであったようだ。 (この項続く) |
塵中風雅 (八) |
倉田良成 |
ここで「註」のように一項をさしはさみたい。 前回の稿の時期、芭蕉は「おくのほそ道」(以後、ほそ道という)の旅に出立することになるのだが、私は作品としての「ほそ道」を取り上げるつもりはない。 「ほそ道」の本文にあたる時期は元禄二年三月から同九月まで、厳密にいえば三月二十七日から九月六日までのほぼ半年間であるが、この成立した書物としての「ほそ道」と、芭蕉が発心した現実の奥羽歌枕一見の旅とは区別して考えられるべきだ。貴重なのは「ほそ道」という書物ではなく、旅のなかで吟じられた多くの佳什とこの時期の消息を伝える若干の書簡であろう。こののち、あたかも「野ざらし」の旅のあと「冬の日」五歌仙が生まれたように、芭蕉最円熟期のいわば「傑作の森」とでも呼び得るような作品群、歌仙の数々が作られることになるのである。 ところで随行者の曽良については、その略歴を記しておきたい。曽良。慶安二(一六四九)年生まれ、宝暦七(一七一〇)年没。享年六二。信濃国上諏訪に高野七兵衛の長子として出生。本名、岩波庄右衛門正字(まさたか)。幼名、与左衛門。通称、河合惣五郎。曽良は俳号。河合姓は伊勢長島に仕官したときに母方(河西家)の祖先の姓を名乗ったとも、また長島の地が木曽川と長良川とにはさまれた河合の地であることから河合曽良と号したともいわれている。貞享初年以来芭蕉に親炙したが、芭蕉没後の宝暦六年、幕府の諸国巡国使派遣にあたり随員となり、翌七年筑紫へ出発するが、壱岐の勝本で病を得、同年五月二十二日その地で客死。「ほそ道」の随行日記であまりにも有名であるが、その性清廉高潔、かつ温情の人であったようだ。その最期も、芭蕉と同じく旅に死んだ「東西南北の人」(送岩波賢契之西州並序)でもあった。 さて北国行脚については芭蕉書簡のなかでもたびたび触れられている。旅の前のものとしては次の書簡の断片を引いておく。 彌生に至り、待侘(まちわび)候塩竃(しほがま)の櫻、松島の朧月、あさか(淺香)のぬまのかつみふ(葺)くころより北の國にめぐり、秋の初(はじめ)、冬までには、みの(美濃)・お(を)はり(尾張)へ出(いで)候。(猿雖[推定]宛元禄二年閏正月乃至二月初旬筆) 拙者三月節句過(すぎ)早々、松嶋の朧月見にとおもひ立(たち)候。白川・塩竃の櫻、御浦や(羨)ましかるべく候。(中略)仙臺より北陸道(ほくろくだう)・みのへ出(いで)申候而(て)、草臥(くたびれ)申候はゞ又其元(そこもと)へ立寄申(たちよりまうす)事も可有御坐(ござあるべく)候。もはや其元より御状被遣(つかはさる)まじく候。(桐葉宛元禄二年二月一五日付) 「旅」についてはかなり綿密に計画が立てられていたことをうかがわせる。なかでも「松嶋の朧月」と「塩竃の櫻」が眼目であったことが知られるが、実際にその地に立った季節はおりしも梅雨から夏にかけてのころで、快晴にはめぐまれたが「朧月」や「櫻」といったわけにはゆかなかったようである。 旅行たけなわの時期のものとしては、羽黒山で世話になった近藤左吉(俳号呂丸)への礼状と、それと時期は前後するが、白河の何云(かうん)への書簡が残されている。後者を引いてみる(元禄二年四月下旬筆)。 白河の風雅聞(きき)もらしたり。いと淺多(のこりおほ)かりければ須か(賀)川の旅店より申(まうし)つかはし侍る。 関守の宿を水鶏(くひな)にとはふ(う)もの はせを 又、白河愚句、色黒きといふ句、乍単(さたん)より申参(まうしまゐり)候よし、かく申直し候。 西か東か先(まづ)早苗にも風の音 最後の句は芭蕉のことばにもあるように「早苗にもわが色黒き日数哉」の別案である。両者とも能因法師の「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」を俤としたものであるが、前者が歌の表にはあらわれていない盛夏の「旅」を奪ったのにたいし、後者では真夏の青田を渡る風のなかにするどく「秋」を聞いている。秋のおとずれを「風の音」によってとらえるというのは歌の伝統であった。 旅の最後のほうで(「ほそ道」の文はまだつづくが)芭蕉らは加賀の山中温泉に逗留している。そこから大垣の如行に宛てて一札を送っている(元禄二年七月二十九日付)。 みちのくいで候て、つゝがなく北海のあら磯日かずをつくし、いまほどかゞ(加賀)の山中(やまなか)の湯にあそび候。中秋四日五日比爰元立申(ごろここもとたちまうし)候。つるが(敦賀)のあたり見めぐりて、名月、湖水か若(もし)みの(美濃)にや入らむ。何(いづ)れ其前後其元(そこもと)へ立越可申(たちこえまうすべく)候。 ここでひとたび「旅」は完結したとみてよいのではないか。この地で同行(どうぎよう)の曽良は腹病を得て、ゆかりの伊勢長島に去るのである。芭蕉はこのとき「今日よりや書付消さん笠の露」の一句をものしている。事実上の旅の終わりとみてよい。 書簡のなかで触れられている「つるがのあたり見めぐりて、名月、湖水か……」という箇所であるが、芭蕉は敦賀で仲秋の夜をむかえている。それを「ほそ道」の文はこう簡単に記している。 十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(ふる)。 名月や北國(ほくこく)日和定(さだめ)なき 巷間いわれているように、これは名月の夜に雨天をうらむというようなものではない気がする。句だけを素直にとれば、まず晴雨さだめない空に隠見する月のかんばせというような印象を私ならば受ける。さらにその情をさぐってゆけば、「北國」というしたたかな風土のなかで「いま現在は」見えていない幻の月の強烈な存在感に突き当たるような気がするのである。句眼は「定なき」であろう。「月清し遊行のもてる砂の上」というようにむしろ前夜が晴れていることを思うべきだろう。 「ほそ道」の文の最後にあたるところが次の杉風(推定)宛の元禄二年九月二十二日付の書簡に記されている。 木因舟に而(て)送り、如行其外連衆(そのほかれんじゅ)舟に乗りて三里ばかりしたひ候。 秋の暮行(ゆく)先々は苫屋哉 木 因 萩にねようか荻にねようか はせを 霧晴ぬ暫ク岸に立玉(たちたま)へ 如 行 蛤のふたみへ別行(わかれゆく)秋ぞ 愚 句 二 見 硯かと拾ふやくぼき石の露 先如此(まづかくのごとく)に候。以上 最初の二句は発句と脇。これにつける第三は敦賀から芭蕉につきしたがってきた路通がつとめ、四句目は伊勢長島から駆け付けた曽良がつけた。このとき伊勢の遷宮を見物するために出発する芭蕉と、門人たちとが別れを惜しんだのである。蛤の句は「ほそ道」では「ふたみにわかれ」となっている。この句は蛤に「蓋」と「身」をかけ、それが「二見」へとかかり(ふたみとわかれとは縁語)、さらに「別れ行く」は「行く秋」の掛詞になって、「ほそ道」冒頭の「行春や鳥啼魚の目は泪」に対応させているという手の込んだことをやっている(「ほそ道」補註による)。こういうところに芭蕉の「詩」の一端をになうものがあきらかに示されているといえるのではないか。 これを散文でやるとどうなるか。「ほそ道」の初めのほうの次の部分を見てみよう。 弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明(ありあけ)にて光お(を)さまれる物から、不二の峰幽(かすか)にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。 このなかの「明ぼのゝ空朧々として」は、挙白集・山家記の「ろうろうとかすみわたれるやまの遠近(をちこち)(中略)明ぼのゝそらはいたくかすみて有明の月すこしのこれるほど」によるものであるし、また「月は在明にて光おさまれる物から」は源氏物語帚木巻の「月は有明にて光をさまれる物から、影さやかに見えて、中々をかしき曙なり」とその俤をかすめ、さらに「又いつかはと心ぼそし」は、西行の「畏まる四手に涙のかゝるかな又いつかはと思ふ心に」から引く、といった具合である。この短いセンテンスのなかにこれだけの裁ち入れがあるということは、たとえそれが近世にさかのぼるものであるにせよ、散文の姿としてけっして健康なことではない。これが当時の「俳文」の常道であるというのなら、次の「俳文」はどうであろうか。 辛未のとし弥生のはじめつかた、よしのゝ山に日くれて、梅のにほひしきりなれば、旧友嵐窓が、見ぬかたの花や匂ひを案内者といふ句を、日ごろはふるき事のやうにおもひ侍れども、折にふれて感動身にしみわたり、涙もおとすばかりなれば、その夜の夢に正しくま見えて悦(よろこべ)るけしき有。亡人いまだ風雅を忘(わすれ)ざるや 夢さつて又一匂ひ宵の梅 「猿蓑」のなかの嵐蘭の作であるが、文といい、句といい、情理を尽くして間然するところがない。これなら現代を生きる私にも「判る」のである。文と句とのあいだにひらめく「詩」として、これは健康な姿といえよう。朴訥なところもよい。それにくらべて芭蕉の文は、詩を意識してかえって詩でなくなっているところがある。「幻住庵記」などもそうだが、これが「文臺引おろせば即反古也」といいはなった人のものとも思われない。私がここで「ほそ道」の本文について語るつもりのない所以である。句のなかではごつごつした感触が美であるのにたいし、その、芭蕉の感じていた同じものをそのまま散文脈に乗せると、一種異様なものができあがってしまう。私たちとしては、そこに芭蕉の持ついかにも複雑な陰影を見るべきなのかもしれない。彼はひたすら句の人、座の人であり、現代の詩が芭蕉の投擲した「詩」の到達点を超え得ているとはいいがたいほどの埋蔵量をはらんでいる詩人であった。そしてそのことはこれからの稿で見てゆきたいと考えている。 (この項終わり)
|
Booby Trap 通信 No. 2 |