詩 都市 批評 電脳第12号 1994.2.28 227円 (本体220円)〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18 (TEL:03-3428-4134:FAX 03-5450-1846)(郵便振替:00160-8-668151 ブービー・トラップ編集室) 5号分予約1100円 (切手の場合90円×12枚+20円×1枚) 編集・発行 清水鱗造 |
虫 |
田中宏輔 |
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Siesta |
田中宏輔 |
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コピー |
田中宏輔 |
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透文様雪景色 |
関富士子 |
美術館はガラス工芸品ばかりを収めていた。エミール・ガレの、*一夜茸をかたどった巨大な赤いランプは館のメインらしい。ほかはほとんど花器の類で、百年近く前のフランスの作家のものだ。ガラスを盛り上げて彩色された桔梗や撫子は生々しく、蜉蝣や蜻蛉はグロテスクだ。息子は売店でカードを見ていた。何枚かを選んだ後、ある一枚を手に取り、しげしげと眺めた。一目で気に入ったらしいことがわかったが、彼はどうしたわけか思い切ったようにそれを棚に戻して、隣のガラス製品に移っていく。 私は息子が戻したカードを見た。ガラスの花器の写真である。実物は美術館にはなかった。それは明らかに、真っ白なコルセットに包まれた女の尻をかたどっている。胴にあたる縁はぎざぎざに刻まれ、腰にかけてゆるやかにカーブしている。細かな雪片に似たレース模様が、ふくらみの頂点で二つに割れ、腿に届くところで寸断され、器の底となって閉じていた。よく見ると、レースは冬枯れの雑木を編み込んで、その枝のあちこちに烏が幾羽も描かれているのだ。ドーム作「雪景文花器」とあった。私はそれを買い求めることにした。息子が気づいてためらいがちにささやいた。ママ、それ、やめたほうがいいよ、ちょっと変だ、だってそれ女の人のパンツみたいだよ、烏の模様なんかついてるし。私は彼を横目で見やり、きっぱり言った。それがどうしたの、ママはこれが好きなのよ。 しばらくのちのこと、私はふと思いついて、そのカードをある詩人への手紙に同封した。彼こそが、この奇妙な花器の味わいを、ともに楽しむことができる人物である。彼の詩は豊かな輝きがあったが、同封される手紙は、老いを迎えようとする人の、かすかな寂しさのこもることがあった。私は、詩人を力づけるのに、そのカードがふさわしいような気がしたのだ。数日して、詩人から返事が届いた。それにはこう書かれていた。すなわち、この器は何とも妙なものである。女性のお尻のふくよかさ、ところが、雪華を咲かせた裸木に烏がとまっている。いや、花器を女性のお尻と受け取った私がおかしいのであろうか……。私は手紙を読みながら、美術館でカードを見ていた息子を思い出した。詩人は彼とそっくりの表情をしていたにちがいなかった。 *一夜茸ランプは諏訪北澤美術館蔵 |
あられ |
長尾高弘 |
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金色の場所 |
倉田良成 |
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[組詩] 顔 |
清水鱗造 |
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大和世に舞う |
沢孝子 |
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幼年論 |
築山登美夫 |
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バタイユ・ノート2 バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第5回 |
吉田裕 |
4 雑誌「アセファル」のなかのニーチェ(その2) 前回に続いて、雑誌「アセファル」の第2号でニーチェの姿が、どのようにあらわれているかを検討する。全体的にいって、この号は、さまざまのニーチェ理解のしかたを同人たちが合同で検討するというような体をとっている。さまざまのと言っても、実際は次に上げる二つだが、その背後には前回言及した、当時唯一の総合的資料であったアンドラーの著作、またファシスム的な理解の仕方も含めて、多様なニーチェの読み方に関する議論があったに違いない。ただ表にあらわれるのは、前述の35年のレーヴィットの『ニーチェの哲学』と36年のヤスパースの『ニーチェ』の二つで(前者は岩波書店、後者は理想社の邦訳題名による)、前者についてはクロソウスキーが、後者についてはヴァールとバタイユが論文あるいは書評を担当している。これらを私たちは、ヤスパースのニーチェ理解に対するバタイユの反応にたどり着くようにと読んでいくことになるだろう。なぜなら、バタイユのニーチェ理解にとって、ヤスパースの著作が少なからざる意味あいを持ったことは、明らかであるからだ。 レーヴィットの『ニーチェの哲学』を取り上げたクロソウスキーの書評は、二段組みで4ページ近く、バタイユのものの倍近くの量があり、かなり本格的なものである。クロソウスキーは、レーヴィットがニーチェをキリスト教的な「おまえはそれをしなければならない」からニヒリスムの「わたしはそれを欲する」へ、さらに超人の「わたしは存在する」へという三つの段階に見ていることをたどりながら、その結果としてある「永劫回帰」をもっともよく表すところの「力への意志」が、一般にほとんど誤解されていることを指摘している。この箇所には別にファシスムの名は現れていないが、それが、バタイユにおいてはファシスム的なニーチェ理解に対する批判が主に「力への意志」の解釈にかかわるかたちで行われていたことと通底するのを見ることは決して無理ではないだろう。クロソウスキーは、レーヴィットの理解がいくらか病理学的、また概念的な解釈に傾く傾向があることを指摘し、キルケゴール、マルクスとニーチェを並べ、彼らの仕事は共通して失われた世界を回復することだったと言っている。バタイユの「ニーチェとファシストたち」の第13節にも同じ趣旨があらわれるが、そのうえでクロソウスキーは、これは彼自身の考えだろうが、ニーチェに関して次のように述べる。〈ニーチェが告知するところのヨーロッパの闘争、彼が予言する戦いは、意識の戦い、宗教の戦い、精神的な戦いとして理解すべきである。これらの戦いが、大いなる政治の時代を満たしている〉。ここには失われた古代世界への回帰と合わせて、ニーチェを宗教的、とりわけ神秘主義的に読もうとする傾向が色濃くあらわれているのを見ることができる。これもまたバタイユと照応するところであろう。 他方ヴァールの「ヤスパースの『ニーチェ』に関するノート」という副題のついた「ニーチェあるいは神の死」は、論文として扱われているが、クロソウスキーのものと比べると量は半分以下のもので、しかも「1」と番号が付されているものの、少なくとも「アセファル」の以下の号には続編はあらわれてこない未完のものである。ヴァールがヤスパースから取り出すのは、内在性と超越性(immanence:transcendance)の対立のシェーマである。ヤスパースによれば、ニーチェの哲学のエッセンスは、世界を純粋な内在性として肯定したところにある、とヴァールは言う。内在性とは、それぞれのものに固有の価値を認めることであり、外側にそれを越えるものを想定して、そこに価値の基準をおくのを拒否することだ。〈この世界そのものが存在なのだ〉とヴァールは述べる。反対に外側の最たるものが神である。したがって内在性を貫くことで神は否定されることになる。この内在性と超越性の対立のシェーマは、バタイユの理解に対しても大きな影響を及ぼすことになる。たとえば彼のニーチェ理解の主著である『ニーチェ論』のその序文中で、このシェーマは手中をなしている。しかしながらこの二項対立は、単純にどちらかに加担することで終わるというわけにはいかないことをヴァールは見て取っている。いま見たように〈神の否定は存在との真正の関係であ〉り、したがって、キルケゴールの信仰が懐疑する信仰であったように、ニーチェの神の否定はまた、神的なものの探求となる。〈ニーチェは神の死を求めると同時に神を求める。そして彼においては、神の不在を考えることは、神を創造する本能を消去することではない。これがヤスパースの言う「実存的無神状態(existenzielle Gottlosigkeit)」なのだ〉。ここでもまたニーチェを単なる無神論者ではなく、神が不在となったところでの神的な経験の新たなかたちの探求者と見ようとする傾向が顔をのぞかせている。 ではバタイユの場合はどうなのか。「アセファル」のこの号での書評はさして長いものではなく、しかもその半分はヤスパースからの引用で埋められているが、そこでヤスパースから引き出されていることは、ほとんどバタイユの言と見まがうばかりである。これはたまたまバタイユにヤスパースと共通するところが多くあったということだろうか? それとも前者が後者から大きな影響を受けたということだろうか? バタイユはまず、ヤスパースがニーチェを概念に固定してとらえようとはしていないことに共感を持つ。ニーチェは矛盾に満ちているが、それは概念間の矛盾ではなく、すべてが生成の途上にあって、どんなものも完成したものとしては与えられていないところから来ているためである。その上でバタイユは、ヤスパースが、この変転きわまりないニーチェが政治に接触するところに視線を移す場面をとらえる。この関心の重なり方は、少なくともわたしにはきわめて興味深いところである。バタイユはヤスパースの次のような部分を引用している。 〈ニーチェは政治的な出来事がどのようにして始まるかを明らかにする。ただし、政治的行動の場たる個別の具体的な現実に方法を持って介入するということはしない。……彼は人間の存在の最終的な基礎(最後の動機)を揺り動かすような運動を作りだし、そして彼のいうところを聴き理解する人々が、彼の思考によってこの運動のなかへ入り込むようにする。ただし、この運動の内実が、国家的であれ、人民的であれ(ボルシェヴィッキ的な意味で)、またそのほかどんなに社会的なものであれ、あらかじめ限定を受けることなしに、である〉 この一節は、バタイユにとって示唆するところの多いものだったに違いない。このようなヤスパースの解釈について、彼は〈ニーチェをファシスト的な解釈から分かつ距離を、ほかのどんな考察よりもよりよく示すもの〉と評しているからである。 ところでニーチェの読み方に関してヤスパースがバタイユに及ぼした影響は、この書評のなかにあらわれたものだけに限られるのではない。バタイユがヤスパースから得たものは、狭義のニーチェ解釈に限られず、非知non-savoirというバタイユの中枢をなす表現がおそらくヤスパースのNichtwissenから来ているように(酒井健氏の「フランス文学研究54号」の「バタイユとニーチェ」による)、また内在性・超越性のシェーマがほかのところでも見られるように、彼の思考の根本にかかわる。補足しておくと、バタイユにおいてヤスパースの名が再度あらわれるのは、50年11月の「クリチック」に発表され、『至高性』に収録されることになる(周知のようにこの本は彼の生前には刊行されない)「ニーチェとイエス」においてである。そこでバタイユはニーチェのキリスト教に対する態度を、ジッドとヤスパースの二人の思想家の読み方を通して考察するのだが、ヤスパースに充当された量は少なく、また今度は批判がかなり強くなっている。ただ「アセファル」におけるニーチェの像を対象とするという現在の設定からははずれるので、ここではこのような論文があるのを指摘するにとどめる。 第2号から半年後に3・4合併号が、「ディオニュソス」の特集名で刊行される。特集に合致する企画は三つある。ひとつは「ディオニュソス」の表題のもとに、このギリシア心に関する短い断章を、十二ほど集めたものである。ほかに論文としては、モヌロの「哲学者ディオニュソス」とカイヨワの「ディオニュソス的徳性」がある。前者は比較的長いが、後者は見開き2ページのものである。また前回の「ニーチェとファシストたち」の続編であるバタイユの「ニーチェ・クロニック」がある。この中には「ニーチェ・ディオニュソス」と題された一節があるが、それによって、この続編は特集に連なっているに違いない。ほかに前回触れたクロソウスキーの「キルケゴールのドン・ジュアン」にも、ニーチェにとってのディオニュソスがキルケゴールにとってのドン・ジュアンであったというふうに、ディオニュソスと結びついており、さらに社会学研究会の発足宣言がある。ここではまずディオニュソスの名が意味するところを取り出すことを試みる。 断章を集めた「ディオニュソス」は二つの部分に分かれていて、最初のグループはオットーの著書『ディオニュソス』からの引用で、ディオニュソスそのものに関するものであり、もう一つのグループはニーチェとディオニュソスの重なりに関するところのニーチェ自身の著作、またレーヴィット、ヤスパースらからの引用である。補足するとオットーとはドイツの宗教学者であって、一九一七年のその著書『聖なるもの』は、聖なるものという考えが初めて打ち出された記念すべき著作である。岩波文庫に邦訳があるが、読んでみると、バタイユがそこから多くを学んでいることがわかる。このオットーはディオニュソスのことを〈恍惚と恐怖の神〉と言っている。またニーチェの『力への意志』からの引用によれば、ディオニュソス的宇宙とは〈それ自身で永遠に産み出されては破壊される〉宇宙である。だからディオニュソスへの注目とは、永劫回帰そのほかの概念を、それらがどれほど重要であれ、概念として検討するのではなく、運動そのものとして経験することの方へ接近していったことの徴であろう。 モヌロの「哲学者ディオニュソス」は、モヌロにとっては「アセファル」に掲載した唯一の論文であるが、ここでもドン・ジュアンの名が大きな場所を占めていて、〈ドン・ジュアンが暴力によって、術策によって、またすべてに抗して獲得しようとしたのはディオニュソス的状態である〉と彼は述べる。この間神は前回触れたクロソウスキーの場合と共通であって、キルケゴールにとってのドン・ジュアンとはニーチェにとってのディオニュソスだったという類推によっている。 カイヨワの短い論文も、ディオニュソスを陶酔の力だと見るところでは共通している。しかしながらこの論文において注目すべきなのは、この陶酔が、単に哲学的あるいは個人的な問題としてではなく、社会的実践的な問題へと拡大された視野のなかでとらえられていることである。〈ディオニュソス主義の本質的な価値は……人間存在を社会化しつつ結びつけるところにある〉と彼は言う。しかしこの社会化は、地域的、民族的、また言語的な共通性によるものではなく、情念的な昂揚によって結ばれる共同性に根拠をおくものであって、カイヨワはそれを超社会化(sursocialesation)という表現で表している。そして興味深いのは、通常の社会を変えていくこの異質な力のよってくるところを、都市に対する地方、貴族有産階級に対する無産民衆のありように求めたあと、次のように言うにいたることである。〈かくも恩寵を失って周縁にあったものが、秩序を作りだし、いわば結節点となる。反社会的なもの(そう見える)が集団的なエネルギーをかき集め、結晶させ、蜂起させ、――そして超社会化する力となって姿を現す〉。ここであげられている周縁の人々あるいは反社会的なものの上に、当時ついに権力を握るにいたったファシスムの姿が二重写しになっているのを見ることは、それほど不自然ではあるまい。ニーチェをディオニュソスのイメージへと読み込んでいくことは、ニーチェ的なものを社会的な動きに重ねることに連なっていく。カイヨワの論文のあとの余白に、来るべき社会学研究会の設立宣言がおかれていることも示唆的ではある。この拡大はたしかにバタイユに影響を及ぼしたに違いない。だがバタイユが「ニーチェとファシストたち」の第15節で同じ問題に接近し、ニーチェ的ディオニュソス主義とファシスムの混同を「不吉な混同」と言っていることを忘れてはならない。 (この項続く) |
塵中風雅 (九) |
倉田良成 |
元禄二年十二月、「ほそ道」の旅を終えた芭蕉はそのまま江戸には帰らず、近江の膳所(ぜぜ)から京の去来に宛てて書簡を送っている。この間、伊勢山田などにも長逗留しているが、翌年になるまで郷里の伊賀上野にも帰っていない。以下、書簡から引いてみる。 (前略)一、江戸より五つ物到来珍重、ゆづり葉感心に存(ぞんじ)候。乍去(さりながら)当年は此もの方のみおそろしく存候處(ところ)、しゐ(ひ)て肝はつぶし不申(まうさず)候へ共(ども)、其躰新敷(そのていあたらしく)候。前書之事不同心にて候。彼義(儀)は只今天地俳諧にして萬代不易(ばんだいふえき)に候。大言(たいげん)おとなしくても、おとなしき樣なくては、風雅精神とは被申(まうされ)まじく候。却而云分(かへつていひぶん)ちい(ひ)さき樣に存候。ゆづり葉を口にふくむといふ萬歳(まんざい)の言葉、犬打(うつ)童子も知りたる事なれば、只此まゝにて指出(さしいだ)したる、閑素にして面白覚(おもしろくおぼえ)候。其上(そのうへ)文字の前書、今は凡士之(ぼんしの)手に落(おち)、前書に而(て)人を驚かすべきやうに而、正道にあらざるやうに候。されどもキ樣御了簡、其角心□をも御汲被成(くみなされ)候而、ともかくも可被成(なさるべく)候。 愚老木曽塚之坊、越年(をつねん)之事、達而(たつて)ねがひに候間、大晦日より、あれへ移り、湖水元旦之眺望可致(いたすべく)と存候。野水(やすい)が朝ほどには有まじき哉(や)と存候。 尚(なほ)々愚句元旦之詠、なるほどかろく可致候。よくよく存候に、ことごと敷工(しきたく)み之(の)所に而無御座(ござなく)候。却而世俗に落候半(おちさうらはん)。加生(かせい)、キ樣、隨分ことごと敷(しき)がよろしく候。 □月二十□日 はせを 去来(きよらい)樣 いわゆる「萬代不易」について触れた最初の資料といえるが、ここに出てくる去来と加生(凡兆(ぼんちよう))の簡単な閲歴を書いておきたい。 去来。向井氏。幼名は慶千代。通称、喜平次・平次(二)郎。諱(いみな)は兼時。字、元淵。号は義焉子。庵号、落柿舎。慶安四(一六五一)年に肥前長崎に生まれ、宝永元(一七〇四)年、洛東岡崎村の自宅で没。享年五十四。いわゆる蕉門十哲の一。二十一、二歳のころ、筑前黒田侯に仕官を望まれたがこれを固辞。以来、その天文暦数の造詣の深さでもって摂家や堂上家に出入りはしたものの、自ら主を戴かぬ「三十年来の大隠士」、洛中の浪人として生涯を過ごした。芭蕉との交渉は貞享初年あたりからはじまり、元禄四年には凡兆と共編でいわば蕉風の代表作ともいえる「猿蓑」を世に問うにいたる。その人となりは重厚篤実、芭蕉をして「西三十三ケ国の俳諧奉行」といわしめた。芭蕉没後の元禄八年、彼と同じく京師に住む浪化を後援して「有磯海(ありそうみ)」「刀奈美山(となみやま)」を出し、また去来の生前に刊行こそされなかったものの、その「旅寝論」と「去来抄」は蕉風の要諦をうかがわせるものとしてあまりにも有名である。 凡兆。野沢氏、宮城氏、越野氏、宮部氏など諸説あるが確証はない。名は允昌。俳号は元禄三年初めごろまで加生。当書簡では加生で通用している。生年不祥。正徳四(一七一四)年春没。かなりの年であったと推定される。加賀金沢の人。京へ出て医を業とする。芭蕉への入門は元禄元年ごろか。元禄初年のころ妻とめ(法名羽紅)とともに芭蕉に親炙し、さかんに交遊している。元禄四年には去来とともに「猿蓑」を編み、その入集句数四十四は集中随一である。このころを頂点としてのち師に離反、元禄四年罪を得て(何の罪かは不明)下獄、同十一年許されて出獄したが、晩年は落魄した。芭蕉の斧正を受けた「下京や雪つむ上の夜の雨」(猿蓑)は代表作といってよい。 さて、書簡のなかで批判されている其角の作であるがその全句形は次のようなものである(「勧進牒」に収める)。 手握蘭口含鶏舌 ゆづり葉や口に含みて筆始 これは漢の尚書郎が口に鶏舌香を含み、蘭を握って朝廷に出仕した故事を、門付け芸人の万歳祝言の「ゆづり葉を口に含み、松を手に持ちて」という決まり文句にひっかけて、その俳諧化を図った句という。ゆづり葉はトウダイグサ科の常緑高木。新しい葉が生長してから古い葉が譲って落ちるのでこの名があるという。新年の飾り物に用いる。 芭蕉はこの句それ自体は評価している。「ゆづり葉感心に存候」といっているわけである。ただこの作は後世の私たちから見ても、前書と句とのあいだに内的な必然性が感じられない。手に持つもの、口に含むものの表面的な符合があるだけである。それによって故事が俳諧化されるわけでもないし、句が故事によって光被されるわけでもないのだ。まことに「大言おとなしくても、おとなしき樣なくては、風雅精神とは被申まじく候。却而云分ちいさき樣に存候」といわなくてはならない。ただそのはなやかさ、鬼面人を驚かすといったところに、いかにも其角らしさがあらわれているという点がおもしろい。「前書に而人を驚かすべきやうに而、正道にあらざるやうに候」という言葉は、この古い高弟の、あいかわらずのやつだとでもいいたげな、芭蕉のにがりきった表情が浮かんでくるようで、私などにはなかなかに愉しい図に思えるのである。そしてこのことは「乍去当年は此もの方のみおそろしく存候處、しゐて肝はつぶし不申候へ共、其躰新敷候。前書之事不同心にて候。彼義は只今天地俳諧にして萬代不易に候」といういいかたにもあらわれていると思う。ここで注意していいのは「其躰新敷候」という言葉が其角の句を貶めているものではないということだ。むしろ反対に積極的に評価しているもののように私には感じられるのである。 これに関連して「彼義は只今天地俳諧にして萬代不易」という発言に少しだけ触れてみたい。ひとことでいうなら、「不易」と「流行」は対立概念ではないということだ。いいかえれば「新敷」躰と「萬代不易」とは相反しない。むしろ「只今天地」がそのまま「不易」の根底にかかわることが、「ほそ道」の旅を終えた芭蕉の頓悟であり、俳諧におけるその断言肯定であったといえる。「不易流行」に関しての論考はまさに汗牛充棟ともいえるので、この問題についてはこれ以上あえて触れることをしない。 ところで、書簡の最後のほうで「愚老木曽塚之坊、越年之事、達而ねがひに候間、大晦日より、あれへ移り、湖水元旦之眺望可致と存候。野水が朝ほどには有まじき哉と存候」と述べている部分であるが、これはどういうことなのであろうか。 木曽塚は、元暦元(一一八四)年、源範頼・義経軍に宇治川でやぶられ、近江粟津原で討ち死にした木曽義仲の墓で、現在は大津市馬場の義仲寺境内にある。同寺は寺伝によれば、天文二十二(一五五三)年、佐々木義実によって創建され、当時は石山寺の末寺であったが、寛政年中に三井寺の末寺となった。芭蕉は元禄初年ごろからしばしばここを訪れ、門人たちによって庵も建てられた(無名庵という)。芭蕉没後、遺骸はここに葬られた。十数年前に筆者もここを訪れたことがある。狭い境内に、木曽塚と隣り合って芭蕉の小さな墓が立っており、近くの句碑に「木曽殿と背中合せの夜寒哉」という句が彫られていたのを記憶している。むろんいまとなっては誰の作なのか知るすべもない。 義仲に関しては、元禄二年の「ほそ道」曳杖中に、「義仲の寝覺の山か月悲し」の句があるのをはじめとして、木曽についても、「思ひ出す木曽や四月の櫻狩」(貞享二年)、「おくられつおくりつはては木曽の秋」(貞享五年)、「木曽のとち浮世の人のみやげ哉」(同)、「木曽の痩もまだなを(ほ)らぬに後の月」(同)、「木曽の情雪や生(はえ)ぬく春の草」(推定元禄四年)、「椎の花の心にも似よ木曽の旅」(元禄六年)、「うき人の旅にも習へ木曽の蝿」(同)などがある。また義仲関連の句としては、謡曲「實盛」の、義仲首実検における樋口の次郎の言葉、「あなむざんやな是は齋藤別當にて候ひけるぞ」から俤を奪った「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」(元禄二年)が挙げられる。 芭蕉は非業の死を遂げた逆臣・木曽義仲に生涯深い関心を持ちつづけた。というより義仲が「好きであった」。そしてその出自の地・木曽は、芭蕉にとって特別な意味合いを持つ土地であったといえるのではないか。「木曽の句」が貞享五年に多いのは「更科紀行」によるものであるから当然だといえば当然であるが、むしろ芭蕉がなぜ「笈の小文」の旅につづく曳杖の地として木曽を通るルートをえらんだのか、ということが問題であろう。 結論から先にいってしまえば、私にはどうも芭蕉にとって木曽という土地は一種の異界のようなものであったという気がしてならない。「おくられつおくりつはては」といい、「浮世の人のみやげ」(更科紀行真蹟草稿には「よにおりし人にとらせん木曽のとち」)といい、「木曽の痩もまだなをらぬ」といい、それはどうやらこの世ならぬ色合いを帯びた「土地」であったようだ。このことは芭蕉の義仲好きの内実がどのようなものであったかを暗示しているような気がする。義仲は救いのない、そしてその救いのないぶんだけ巨大な亡者として芭蕉の眼には映っていたのではないか。その塚が風光明媚な、芭蕉のこよなく愛してやまない湖南の地にあるということは、芭蕉自身の救いでもあったはずだ。このことはかならずしも義仲への芭蕉の思いやり、ということを指していっているのではない。それは芭蕉の内面にある修羅にとって救いであったという意味である。 明治書院の「俳諧大辞典」によれば、芭蕉は元禄三年の八月半ばごろに幻住庵からこの地に出たとあるが、実際にはこの書簡が示すとおり元禄二年の年の瀬には義仲寺を訪れているのである。義仲寺での越年は芭蕉のかねてからの望みであり、書簡はその躍るこころを伝えているようだ。しかし末尾の「野水が朝ほどには有まじき哉と存候」とはどういうことなのか。野水が迎える元旦の朝ほどには優雅なものではなさそうだ、という諧謔なのか(ちなみに野水は名古屋の裕福な呉服商)。ここのところがどう読んでも私にはわからない。読者でご存じのかたがあったらご教示ください。 最後の尚々書についてであるが、かさねて引用してみる。 尚々愚句元旦之詠、なるほどかろく可致候。よくよく存候に、ことごと敷工み之所に而無御座候。却而世俗に落候半。加生、キ樣、隨分ことごと敷がよろしく候。 「愚句元旦之詠、なるほどかろく可致候」というところが注目される。「元旦之詠」は具体的には、 元禄三元旦 みやこちかきあたりにとしをむかへて こもをきてたれ人ゐ(い)ます花のはる というものであるが、後年の「かるみ」とはやや趣を異にするものといえるだろう。しかし芭蕉の資質がいわしめたものとして、まったく無縁とはいえないのではないか。脂の乗り切った円熟期にこうした発言があり、句があるということは私にはたいへん興味深く思われる。「ことごと敷工み之所に而無御座候」というわけであるが、問題は次の箇所の解釈についてである。つまり「却而世俗に落候半」をどうとるかだ。私はこれを芭蕉の謙遜の言葉として受けとる。「世俗」に落ちる可能性があるのは「かろく」詠んだ自分の句だ、という見定めでなければつづく「加生、キ樣、隨分ことごと敷がよろしく候」の解釈が混乱する。芭蕉はいわれのない皮肉をいう人ではない。「ことごと敷」が世俗に落ちるもの、ととればここでは去来や凡兆に強烈ないやみをいっているとしか考えられない。そうではなく、芭蕉がここでやろうとしていることはあくまでも新しい試みであり、それだけに危険にみちたものであることがよく認識されており、そういうことを含めたうえでの謙遜の言葉にほかならないものと考えられるのである。そうした試みについては、後年のようにはまだ門弟たちを誘ってはいない。自分は失敗するかもしれないが、きみたちは蕉風の完成に励んでもらいたい、ということが「加生、キ樣、隨分ことごと敷がよろしく候」の意味するところであろう。これを逆に考えれば、芭蕉はここで門弟たちのあえて一歩先を歩んでいるといえる。後年の「かるみ」と無縁ではないというのは、こうしたことを指している。 (この項終わり)
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Booby Trap 通信 No. 3 |