詩 都市 批評 電脳第15号 1994.10.31 227円 (本体220円)〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18 (TEL:03-3428-4134:FAX 03-5450-1846)(郵便振替:00160-8-668151 ブービー・トラップ編集室) 8号分予約1100円 (切手の場合90円×12枚+20円×1枚) 編集・発行 清水鱗造 |
ロー、ローラ、ロリータ、 |
田中宏輔 |
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陽の埋葬 |
田中宏輔 |
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巨きな花の内部のように… |
倉田良成 |
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ブラディーマリー |
駿河昌樹 |
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すてきなブルーの新車 |
駿河昌樹 |
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はい、キタダです |
関富士子 |
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炎焔 |
園下勘治 |
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衛星 |
清水鱗造 |
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マシュマロサンドの唄 |
清水鱗造 |
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陽の堀をのがれ暗の扉にかくれるあなた |
沢孝子 |
陽の堀を踏む足にこぼれる激しい水の言葉 石のようにこわばる壷の闇の記憶 表面の昭和のカレンダーに「神風」と「生神」という満ち潮の嵐がまきおこる 眼の水のかがやきで念じていた空へ 大和の剣が切り込む 袴の思想の移り変わりの 逃亡の形のよさを嫌悪する くりゃくりゃと舞う南のくらしの 歌を踊りの角にできたおできがあって 苦い歴史の水の肌の摩擦 諸関係のながれを 明治という近代の深い井戸を汲みとる目覚め 扇形にひろがる心の水の呪文の時間がうるむ 暗の扉の晴地がなしの古代の砂浜で 亀裂した愛の昭和のカレンダーにある嵐の夜を閉じてカナカナと泣く 体内にひびきわたってきた蛇皮線の ラブレターの満ち潮の呪文がやってくる あらゆる文字の骨をくだいた時間でかたりだす 巫女となった時代のくらし 角のおできにある亡びのリズムが目覚め 本土の袴の思想で泳いだ術の 逃亡の形のよさを嫌悪する 明治の近代の井戸底に立ち現れてきた座の琉球へと たぐりよせた巨大な帆の揺れ 飢えのくるいの海腹にこもっている害虫を吐く 大和の剣には骨をくだく文字の応戦 古代の砂浜の引き潮の精神が発酵する カナカナと泣く亀裂した列島の愛の祈りの 蛇皮線がひびく浮き草の体内のいたみ 民族の根が切られている不安と 巫女となった時代のドレイの自由な計算で 交わっていた陽の堀の 満月にある亡びのリズムの泳ぐ術 極限の春夏秋冬の死の断面に立ち現れてきた尼地ぶしょうへ 掘りおこす巨大な反乱の帆がある 恐くなっていく四季の渦暦の泡 泡 系幕が垂れ下がる組織の圧力の堀をのがれようともがいた害虫 グロテスクになる離別の海腹の恨みが 浜の小屋で嘔吐する 埋もれた掟のさまざまな飢えの現象を抱きしめる 琉球の座に今もゆがんでいく引き潮の精神の 地図に発酵する放浪の線路の浮き草の愛 民族の根が切れるところの雪の山で 自由なドレイの別れが計算した 南の砂利の一つ一つのふるえを確かめる 満月と交わる旅の終わりの死の断面 春夏秋冬に凝結する藩への反乱の 渦暦に浮かぶ武の泡の捕らえられない構造 グロテスクになって投じた鎌の浜の小屋には さまざまな掟へ焦る無知の判断がある 暗の扉にずーっとゆれつづけた夜這いの性器で 千年万年億年の大木の不安を抱きしめ 優しい神の警告を待つ 整えられてくる「神風」と「生神」を念じる空の 自然の器にある伝統の壷の闇の隙間をのぞいた もてあそばれてきたような苦い歴史の摩擦 水の肌の諸関係の感覚にある 作法の「気」にふれて扇形にひろがってくるくらしの殺意 信じることができるでしょうかと 異質な血を抜く夜の「呼吸」 石垣の扉にかくれたあなたの だらんとなる胸の乱れをなぞりつつ (改稿) |
疲れた時計 |
長尾高弘 |
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雲 |
長尾高弘 |
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少年 |
築山登美夫 |
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バタイユ・ノート2 バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第8回 |
吉田裕 |
6 戦時下に読まれたニーチェ 第二次大戦は、三九年九月に始まり、翌年五月にパリはドイツ軍の占領下におかれる。以後、社会科学研究会等の公然の活動は不可能になり、バタイユの活動はもっぱら書くことに限定されることになる。この時期の彼の著作は四三年に『内的体験』、四四年に『有罪者』、四五年に『ニーチェについて』である。戦後になって彼は、これら三冊にいくつかの書物を加えて、『無神学大全』という複合的な書物を計画するが、ほかの書物を加えるという計画は実現できず、以上の三冊にいくつかの章を補って、この名でまとめることになる。だから現行の三冊も、一貫した視点のもとに書き下ろされたというものではなく、さまざまのテキストを集めたものである。また書物としての発行年とそこに含まれる諸論文の執筆時期が正確に対応しているわけではない。このように『無神学大全』は、定型からはずれ、かたちを取ることを拒絶しているような書物だが、内容、文体、量のいずれから見ても、バタイユの中心をなす著作であることは疑えない。 ニーチェに関するテキストは、書名から予想されるように、『ニーチェについて』のなかに多いが、題名にニーチェの名を含む、あるいは内容にニーチェへの言及が多いという基準からいえば、ほかにあげなければならないのは、『内的体験』の第一章「内的体験への序論草案」と第四章「刑苦への追伸」の第六節「ニーチェ」である。『有罪者』は、ニーチェについては名前が数回引かれるだけであって、本格的な論究は含んでいない。 さまざまの視点と叙述の層を含んだ『無神学大全』をあえて要約すれば、中心にあるのは神秘体験、彼の言葉でいう内的体験である。ファシスム批判と神秘経験というバタイユのニーチェ理解の二つの側面は、『無神学大全』のなかにも存続しているが、前者について言えば、その主な論点はアセファルの時代にすでに出ていて、『無神学大全』でなされるのは、おおよそのところその反復だが、それに対してニーチェに媒介されたバタイユ自身の神秘的経験の側面は、現実化した戦争に支えられていっそう鮮明になり、『無神学大全』の中心テーマとなる。 内的体験が神秘体験だとすれば、神秘体験がいちばん強く現れるのは、それを題名とする『内的体験』ということになる。この書物は「内的体験」と「瞑想の方法」という二部に分かれているが、後者は、五四年の再版に際して加えられてものであるから、はずしておく。「内的体験」は五章構成だが、核をなしているのは第二章「刑苦」であって、それを中心にして「内的体験への序論草案」、「刑苦の前歴」、「刑苦への追伸」が置かれている。 「刑苦」は、バタイユ自身の言葉で叙述が進められ、意外だがニーチェの名前は現れない。この時期彼は、自分では内的と呼んだ神秘体験を、ヨガ、禅などの方法を摂取し、また改変しながら果敢に実践したようだが、「刑苦」の章では反省的な記述が多く、経験を直接的に記述した断章は思いのほか少ない。多いのはむしろ「刑苦への追伸」である。これらの断章は、私には常にニーチェの影をを思わせる。それらのうちのいくつかを引いてみる。最初は「刑苦」でのレンヌ街の突然の哄笑の経験である。 〈おびただしい笑いをちりばめた空間が、私の前にその暗黒の淵を開いた。フール通りを横切りつつ、私はこの「虚無」のなかで、突如として未知の存在となった。………私は私を閉じこめていた灰色の壁を否認し、ある種の法悦状態に突入していった。私は神のように笑っていた。傘が私の頭に落ち掛かってきて、私をつつんだ(私は故意にこの黒い屍衣をかぶったのだ)。私はかつてだれも笑ったことのない笑いを笑い、いっさいの事物の底の底が口を開け、裸形にされ、私はまるで死人のようだった〉 これを読むとき、私は『ツアラトゥストラ』のなかの、黒く重い蛇を噛みきって永劫回帰を理解した羊飼の変貌と笑いを語る一節が響いていると感じずに入られない。〈それはもはや牧人ではなかった。もはや人間ではなかった。――彼はひとりの変容せる者、光に包まれた者であった。そして笑った。――およそ地上で、ひとりの人間が、今彼が笑ったように、高らかに笑ったことはなかった〉(「幻影と謎」)。バタイユのこの哄笑の経験は、十五年前のこととされてはいるが、彼が自分の根本に置いている経験であると思われる。 次は「序」のなかの幻視を語った一節である。 〈所在を忖度されたこともない国々に経巡って、私はかつて人間の眼が見たこともないものを見た。これ以上人を酔わせるものはない。笑いと理性、恐怖と光が、互いに浸透し合うものとなった………私の知らぬものはなにひとつなく、私の狂熱の接近しえぬものもなにひとつなかった。不思議な狂女のように、死は可能事の扉を絶えず開き、また閉じしていた〉 この一節は、『メモランダム』の引用番号二五〇の遺稿中の次のような一節、バタイユがニーチェから引用するたぶん一番神秘的な一節を思い出させる。〈そしてなんと多くの新しい神々が、まだ可能なことか! 私自身のうちでは、宗教的な、すなわち神々を産み出す本能が、しばしば思いがけず作用し、ために私はその度毎に、さまざまなやり方で聖なるものが現れるのを経験した。………私は時間の外に位置するこれらの瞬間に、かくも多くの奇怪なものどもが通り過ぎるのを見た。これらのもろもろの瞬間は、月から落ちてでも来るように、われわれの生の中に落ちてくる。そのさなかでは人は、自分がすでにどれほど老いているのか、またどれほど若返ることができるのかを知らないのだ〉。 彼は雷に打たれた樹木、また炎への化身、中国の死刑囚の写真の凝視による共犯の感情、暁光への同化を語っているが、そこには前出の「死を前にしての歓喜の実践」のエピグラフに引かれた〈私は同時に鳩であり、蛇であり、豚である〉が聞こえるような気がする。またそれは、コジマあての発狂直前の手紙の一節の遠い反映と見ることもできるのではあるまいか。〈しかし私はインドでは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。アレクサンダーとシーザーは私の化身です。………最後にはヴォルテールとナポレオンでもありました。ひょっとしたらリヒャルト・ワグナーであったかもしれません〉。無論正確な対応関係を証明することなどできはしない。だが恍惚を語るバタイユの言葉の背後には、どうしてもニーチェの声が聞こえてくるのだ。 ニーチェへの直接の言及が行われるのは、前述のように、第二章「内的体験への序論草案」と第四章「刑苦への追伸」においてだが、前者で印象に残るのは、ニーチェを推論的思考を極限まで押し進めることで神秘的な経験を持った人と考えていることである。可能事を越える経験を持つためには、まず可能事をつくさねばならない、とバタイユは考える。そこで不可能なものは可能なものと不可分の様態で現れる。彼はニーチェの中心にあるのは永劫回帰の思想だとしたが、それに触れて次のようにいっている。〈永劫回帰についていえば、私はニーチェが、いうところの神秘的形態のもとにさまざまの推論的表象と混ざりあったかたちで体験を持ったと考えている〉。同様に、バタイユの言う神秘的経験とは、神の経験にとどまらず、神を越える経験である。神は概念としてとらえられる限り、推論の領域内にある。本来的に神的なものを求めるならば、この限界を越えねばならず、その時神は神でなくなるが、神的なものが経験されるのは、そこ以外ではあり得ない。〈神は人間の極限ではない。だが人間の極限は神聖なものだ〉(『有罪者』)と彼は言う。 では神を越えることは、ニーチェにとってどのようにして可能だったのか。ここにきわめてバタイユ的な解釈が現れる。それは神の殺害によってなのだ。真っ昼間に提灯をともして広場へかけていき、「神はどこにいる!」と叫んだ『華やぐ知恵』の狂人の一節を、バタイユは賛嘆をこめて長々と引用している(「刑苦への追伸」)。ひとしきり問いかけたあと、この狂人は、あざけり笑う衆人に対して解き明かす。「おれが言ってやろうか、おれたちが神を殺したのだ――おまえたちとこのおれでな! おれたちはみんな神殺しなのだ」。ニーチェによれば、人間はまず人身の供犠、しかもおそらくはもっとも愛するものを捧げた。ついで自分たちのもっとも暴虐な本能、すなわち自然を捧げた。これはキリスト教の倫理の発端である。〈そして今、どのようなものが供犠に付すべく残されているのか。最終的に、すべて慰撫してきたものを、聖化してきたものを、すべての希望を、ひそかな調和へのいっさいの信仰を供犠に付さねばならなかったのではないか。神自身を供犠に付すべきだったのではないか。………神を虚無のために供犠に付すこと――この最終的残酷さの逆説的秘儀は、私たち登場しつつある世代のためにとっておかれたのだ〉。この一節は『善悪の彼岸』からだが、もちろんバタイユが引用しているものである。 ここで言明された過程の上に、バタイユが社会学的な探求によって知った動物の供犠、人間の供犠、またキリスト教の起源にある神の子の殺害を数え入れていることは疑いを入れない。人間は、神のために、神をあらわにするために、自分にとって次第に大きくなる大切なものを捧げるようになってきたが、この過程をさらに延長すると、もはや大切なものはすべて捧げられ、残るものとては神それ自身しかなくなる。だから彼は神を供犠に捧げようとする。しかしながら、このように神を供犠に捧げようとするとき、それは何をあらわにするためなのか? それはもはや神をあらわにするためではあり得ない。神はすでに、捧げられるものになりかわっているからだ。だから神が供犠に捧げられるとき、あらわにされるのは、神の不在である。けれども、明らかにされるこの神の不在は、神の存在よりもずっと神的なものだ。なぜならそれをあらわにするために捧げられたのは、神という人間の愛の最大の対象だったからである。これが〈逆説的秘儀〉の意味である。 〈神の殺害はひとつの供犠である〉(「刑苦への追伸」)とバタイユは言う。バタイユは神の死の宣言というニーチェの最大の決断を、神の供犠による聖なるものの探求という彼自身の探求と同一化する。これがバタイユがニーチェに見いだした最大の合致点であると私には思われる。 『ニーチェについて』は、題名とは裏腹に、半ば以上が四四年二月から八月、つまり戦争末期の日記である。そのほか、第一章「ニーチェ氏」は、ほぼ引用で成り立っている。だから狭い意味でニーチェ論として取り上げることができるのは、「序文」と補遺のなかの「ニーチェとドイツ国家社会主義」と「ニーチェの内的体験」の三つの論文であろう。 「ニーチェの内的体験」では、文字どおりバタイユが自分の言う内的体験とニーチェの体験を重ね合わせようとしたものだが、すでに引用した部分を除けば、大部分は『内的体験』でつくされたものの繰り返しである。「ニーチェと国家社会主義」も、反ユダヤ主義また愛国的軍国主義への批判等は、アセファルで提出されたものと変わっていない。 ただ「ニーチェと国家社会主義」には、興味を引く点がひとつある。それはファシスムに対して、客観的と言うべきような評価、ある種の意味を認めるようなところが見られることである。〈旧来の道徳を拒否するというところは、マルクス主義、ニーチェ主義、国家社会主義に共通している〉とバタイユは言う。またニーチェについて、次のようなことも言っている。〈ニーチェは、プルードンやマルクスと同じく、戦争に有益な要素のあることを肯定した〉。これはニーチェとファシスムの間にある種の接点を認めているのだろうか? 元になった「ニーチェはファシストか」には、次のような一節がある。 〈もしファシスムが正当にニーチェを利用することが出来たなら、それは私たちが想像するような空虚とはならなかったのだろうか? ニーチェはファシストか? また彼はドイツ人であるのか? この問は問うてみる価値がある。いずれにせよ、ファシスムは人間の起こした出来事である。しかし、私たちはふつう、それがその責任とその廃虚のうちに人間の本質的な一部分を引き込んだ、とは考えない。私たちはむしろそこに、ある階級の利益、孤立した民族の利益、陰謀家一味の利益等、さまざまの利益の組み合わせを見るのである。だがもし、それがある哲学の表明であったならば、あらゆる種類の人間を生命に向かって目覚めさせる劇的な哲学の表明であったならば、ことは別なものとなるだろう〉。 消去されたものを取り出すのは慎重でなければならないが、これは一度は公表されたものである。ここでバタイユは、ファシスムが〈人間の本質的な一部分を引き込ん〉で、〈人間を生命に向かって目覚めさせる劇的な哲学〉でありうる可能性を持っていた――実現されなかったとしても――と感じているのだろうか? このような言明は、三〇年代には見られなかったものだ。これはドイツの敗北がほぼ明らかになったことではじめて書かれたにちがいないが、そこにはファシスムが彼の時代の人間が持った願望に、何らかのかたちで反応するものであったと彼が感じていたことを示しているのだろうか? 無論バタイユは、ファシスムとそのニーチェ理解に反対という基本的な姿勢を崩してはいない。〈ニーチェの思考の領域は、政治を決定する必要性と共通性に対する配慮を越えていた。それは悲劇や笑いや苦痛、また苦痛にもかかわらずわき起こる歓喜、精神の豊かさと自由に関する領域であった〉と言い、また〈彼は給与とか、政治的自由とかの第一次的な問題からは背を背けていた。危険に満ちた生という彼の原則は………大衆的な闘争とは無縁であった〉とも言う。だがこれらの理由づけは必ずしも説得的ではない。ニーチェは非政治的だったという主張はあるが、ニーチェもまた政治的な文脈のなかに入らざるをえないことへの十分な解明はないからである。 「序文」は、彼の考えを一般的に述べており、執筆時期からして、彼のニーチェ理解のひとつの総括だと考えられる。そこにはこれまで同様にニーチェを汎ゲルマン主義、反ユダヤ主義的に解することへの反撥がある。また神秘的解釈も以前の通りである。ニーチェの持った情熱を、〈神や善のために殉死した人々の情熱〉だと彼は言う。ニーチェが自分の教説のために門弟と組織を求めたこと、つまり共同体への願望を持っていたことも述べられている。 目新しいのは、バタイユが、ニーチェの本質的な問題を「全体的人間」というかたちでとらえていることである。それは〈膨大な数をなす低劣な人間は単に序奏あるいは前稽古にすぎず、ただそれらを合わせて奏することで、総体的人間がここかしこに現れるようにすることができる。この総体的人間は、人類がどこまで到達したかを示す里程標のようなものだ〉(『力への意志』)というニーチェの言葉によっている。これは見るからにナチスムの人種理論に利用されそうな一節だが、バタイユはこの全体性を、今度は彼自身の言葉で、いくつかの視点から定義している。ひとつにはそれは民族とか時代とか、さまざまの個別の価値に従属して断片となってしまった人間に対する批判である。〈生が全体的でありうるのは、生命が自分を無視した明確な目的に従属していない限りにおいてである〉。一方それは欲望との関係では次のようである。〈総体性は、ただ燃焼したいという欲望だけを理由として――総体性がまったく全面的であるということだけを理由として――自分を燃焼させたいという不幸な欲望、空しい欲望なのだ〉。この一節からは、全体性のなかに非生産的消費の主張が重ねられていることがわかる。ついでそれは行動に対する批判である。〈私は何らかの仕方で行動の段階を越え出て、初めて総体的に存在することができる〉。〈世界・変革の・任務に従事する人間は、人間の断片的な姿でしかなく、この変革が完了したあと、今度は彼自身が全体的な人間に変化することになるだろう〉。ここにはたぶん、戦争が終わって力を持ち始めたたサルトル的なアンガジュマンの思想への反撥がある。またそれは哲学的な基本の違いでもある。〈 結局全体的人間とは、その内で超越性が消滅する人、もはや何物も分離していないことにほかならない〉。この時期彼は、前出のヤスパースにならって、超越性transcendanceに対する批判を内在性immanenceという言い方で主張している。バタイユは、ニーチェ的人間は全体的であるほかないと考えるが、この全的人間の観念は、人間の全活動を探ろうという戦後の普遍経済学の試みにつながるに違いない。 『ニーチェについて』において、バタイユは以前に述べたことを整理して反復し、また他人の言説との差異を明確にしようとする。だが、そこには戦争開始前後のようなつま先立つような切迫感は感じられない。これは、戦争の趨勢が見えてきた時、ファシスムの問題もかつてほどの緊急性を持たなくなっていたということかもしれない。 (この項終わり) |
塵中風雅 (一二) |
倉田良成 |
元禄三(一六九〇)年の晩秋、芭蕉は湖南の木曽塚から京(と思われる)の加生(凡兆)に宛てて書簡を認める。あたかも「猿蓑」編集のただなかの時期にあたる。以下全文を引いてみる。 頃日去(然)御方(けいじつさるおかた)樣より御文被下(ふみくだされ)、御無事に御いそがはしく御座候由、珍重に存(ぞんじ)候。拙者も持病さしひき折々にて、しかじか不仕(つかまつらず)候故、五三里片(邊)地、あそびがてら養生に罷越(まかりこえ)候。自是(これより)御左右申進(さうまうししんじ)候まで、御状に預(あづかる)まじく候。先以(まづもつて)去来子方病人いかゞ。度々(たびたび)御尋申(たづねまうす)も且(かつ)は物にまぎれいかゞと、延引いたし候。扨々無心元存斗(さてさてこころもとなくぞんずるばかり)に御座候。其許(そこもと)より御次手(ついで)に右之旨被仰達可被下(おほせたつせられくださるべく)候。 一、文集の事も、追付(おつつけ)上京いたし候間、染々(しみじみ)相談可致(いたすべく)候間、何角(なにかと)をも暫(しばらく)御とゞめ候半(さうらはん)と推察申(まうし)候。嵐蘭(らんらん)より燒蚊(かをやく)のことば一巻参(まゐり)候。是も重而(かさねて)持参可致(いたすべく)候。 一、憎烏之文(からすをにくむのぶん)御見せ、感吟いたし候。去乍(さりながら)、文章くだくだ敷所御座候而(て)、しまりかね候樣(やう)に相見(あひみ)え候間、先々他見被成(まづまづたけんなさる)まじく候。殊外(ことのほか)よろしき趣向にて御座候間、拙者に可被懸御意(ぎよいをかけらるべく)候か。文章に増補いたし、拙者(せつしやの)文に可致(いたすべく)候。もし又是然(非)と思召(おぼしめし)候はゞ、拙者(せつしやの)文御覽被成(なされ)候而、其上にて又御改可被成(あらためなさるべく)候。文の落付所(おちつきどころ)、何を底意(そこい)に書(かき)たると申(まうす)事無御座(ござなく)候ては、お(を)どり・くどき・早物語の類(たぐひ)に御座候。古人の文章に御心可被付(つけらるべく)候。此(この)文にては烏の傳記に成申(なりまうし)候間、能々(よくよく)御工夫御尤(ごもつとも)に存(ぞんじ)候。 九月十三日 はせを 加生(かせい)樣 尚々こよひの月、漁家にて見申筈(みまうすはず)に御座候。發句は有(ある)まじく候。野水(やすい)返事も不参(まゐらず)候。もしもし御あひ被成(なされ)候はゞ、先日之返事いかゞと御尋可被下(たづねくださるべく)候。 加生(凡兆)についてはすでに述べた。書簡冒頭の「去御方樣」とは、貴人のことらしいが不詳。「五三里片地」は堅田のことを指す。ここで芭蕉は「病雁の夜寒に落て旅寝哉」の吟をものしている。書簡ではしばらく手紙をよこさないでほしいと言っているが、こういう言い回しは芭蕉書簡のなかでは意外に多いことに気づく。例を挙げればこれ以前にも「拙者無事の旨御告可被下(つげくださるべく)候。其元別条無御座(ござなく)候はゞ、御状不及(ごじやうにおよばず)候」(元禄元年杉風宛)、「仙台より北陸道(ほくろくだう)・みのへ出(いで)申候而(て)、草臥(くたびれ)申候はゞ又其元(そこもと)へ立寄申(たちよりまうす)事も可有御坐(ござあるべく)候。もはや其元より御状被遣(つかはさる)まじく候」(元禄二年桐葉宛)、「近々他の地へ巣を移し可申(まうすべく)候。しばらく書音絶可申(しよいんたえまうすべく)候」(元禄三年去来宛)などがある。 ここから一所不住の芭蕉の境涯を思うのは比較的容易だが、私はむしろここに彼の人間関係に対する濃やかに行き届いた神経を見たい。なぜなら、この言い回しと表裏するようにして次の言及がなされているからだ。「罷帰(まかりかへり)候へば、又いつ上り可申樣(まうすべきやう)にも無御座(ござなく)、一入々々(ひとしほひとしほ)御ゆかしきのみに候」、「猶貴面(なほきめん)」(なおくわしくは直接お会いしたおりに)、「此度御厚志忝(かたじけなく)、態(わざと)世間めき候へば、御禮不具(つぶさならず)」(世間並みのことばでは申し尽くしがたいので、わざとお礼は申しません)。なにごとも直接に会って話してみるまでは、友は幻のような存在でしかない。会者定離の人間が、一夜俳席をともにするからこそ連句ははなやぐのだ。一所不住をいうのならそこのところを押さえるべきだろう。 ところで「去来子方病人いかゞ」とあるのは、書簡註でもいうように去来の猶子(兄弟や親戚の子を自分の義子にすること)俊乗のことを指すか。「猿蓑」巻之三、秋の項には「仲秋の望、猶子を葬送して」の詞書がある去来句「かゝる夜の月も見にけり野邊送」を載せる。「度々御尋申も且は物にまぎれいかゞと、延引いたし候」云々という芭蕉の筆致には、去来に対する並々ならぬ気遣いが感じられるのである。 ちなみに、書簡本文中にいう「文集」とは、言うまでもないが「猿蓑」のこと。最初の計画では、「蚊ヲ燒」のことばや「烏ノ文」への言及があることからも窺えるように、多く俳文を収録するつもりであったらしい。それが途中から変更になって結局「文」といえるものは芭蕉の「幻住庵記」一篇となってしまったという事情がある。ここで注目されるのは芭蕉が凡兆に対して、その趣向を譲ってほしいと申し出ている点である。けだし、芭蕉の生きていた時代と私たちの生きている近・現代とを大きく分かつところであろう(ただし、比較的最近の例では田村隆一が鮎川信夫から「立棺」ということばを作品のタイトルに貰い受けたということがある)。最終的には「烏」の趣向は、芭蕉の「烏之賦」となって落ち着くのだが、師が弟子の作を奪ったということではない。この書簡のすぐ前の曲水宛書簡のなかでは、「桐の木にうづら鳴(なく)なる塀の内」という句について「うづら鳴なる坪(塀)の内、と云(いふ)五文字、木ざはしや、と可有(あるべき)を珍夕(碩)にとられ候」と報告しており、この手のことは蕉門のなかでは相当自由に行われていたことがわかるのである。付け付けられることはもとより、それに付随する本歌取り、脇起こしなどが日常茶飯である俳諧の世界では当然のことであろう。折口信夫が日本の文芸を「非文学」と喝破したのも、「近代」主義的な解釈では到底理解しえない分厚い伝統を意識してのことだった。そうした流れはむしろその人間一代のみで後人が使ってはならぬとされる詩語、「制(せい)ノ詞(ことば)」という奇妙なものさえ生み出すにいたっているくらいである。 ところで、凡兆の「烏ヲ憎ム」の文について、それがどのようなものであったか、オリジナルが伝わっていないので不明だが、芭蕉によれば「文章くだくだ敷」、「しまりかね候樣」と形容され、この文では烏の伝記にすぎないものになってしまうとされている。大切なのは「文の落付所、何を底意に書たる」かという点だと芭蕉は言う。「古人の文章に御心可被付候」とも。ではここに「烏ヲ憎ムノ文」の趣向が芭蕉によっていかに増補され発展させられたか、その全文を引いてみたい。なお、芭蕉によるタイトルは「烏之賦」である。 一烏(いちう)大小有りて、名を異(こと)にす。小を烏鵲(うじやく)といひ、大を觜太(はしぶと)といふ。此の鳥反哺(はんぽ)の孝を讃して、鳥中の曾子(そうし)に比す。或いは人家に行く人を告げ、天の川の翅(つばさ)を竝(なら)べて、二星(じせい)の媒(なかだち)となれり。或いは大歳(おほどし)の宿りを知りて、春風を覺(さと)り巣を改むといへり。雪の曙の聲寒げに、夕(ゆふべ)に寐所(ねどころ)へ行くなんど、詩歌の才子も情(なさけ)有るに云ひなし、繪にも書かれて形を愛す。只貪猾(どんくわつ)の中にいふ時は、其の徳大(おほ)いなり。 又汝が罪を數ふる時は、其の徳小にして害又大(おほ)イなり。就中彼(なかんづくか)の觜太は性佞強惡にして、鳶の翅をあなどり、鷹の爪の利(と)き事を恐れず。肉は鴻雁(こうがん)の味もなく、聲は黄鳥(くわうてう)の吟にも似ず。啼く時は人不正の氣を抱きて、かならず凶事を引いて愁ひを向かふ。里にありては栗柿の梢を荒(あら)し、田野に有りては田畑を費(つひや)す。粮(らう)に辛苦の勞を知らずや。或いは雀の卵(かひこ)をつかみ、沼の蛙をくらふ。人のしかばねを待ち、牛馬の腸をむさぼりて、終(つひ)にいかの為めに命をあやまり、鵜の眞似をしてあやまりを傳ふ。これみな汝食(なんぢむさぼ)る事大にして其の智を責めざる誤(あやまり)なり。汝がごとき心貪欲にして、形を墨に染めたる、人に有りて賣僧(まいす)といふ。釋氏(しやくし)もこれを憎み、俗士(ぞくし)も甚だうとむ。アヽ汝よく愼しめ。ガイが矢先にかゝつて、三足(さんぞく)の金烏(きんう)に罪(つみ)せられんことを。 ここで若干の註を付しておきたい。○烏鵲/カササギのこと。烏鴉とあるべきか。○反哺の孝/烏は母烏に六十日養われた恩返しに六十日口移しに食べさせる、という伝承を踏まえる。○鳥中の曾子/曾参(そうしん)。孔子の門人で孝をもって知られる。○鴻雁/鴻は雁の大きなもの。ともに美味。○黄鳥/鴬の異称。○粮に辛苦の勞を知らずや/食べものを得るのに苦労することなく。○いか/いかのぼり。凧のこと。○賣僧/俗情に染みた坊主を嘲罵していう。○ガイ(HTML版のための注:羽の下に廾という字)が矢先にかゝつて、三足の金烏に罪せられんことを/ガイはゲイとも。中国古代伝説上の人物で弓の名人。一度に十の太陽が出て暑さに民が苦しんだとき、尭(ぎよう)に命じられて太陽を九つまで射落としたという。三足の金烏は太陽のなかにいるとされる三つ足の烏。 さて、一読して芭蕉の俳文独特の晦渋さを感じるが、「底意」の意味するところは明らかであろう。「文の落付所」のあるなしは、「文」にメタフィジックがあるかどうかにかかっている。人生観と言い換えてもよいが、私は芭蕉に関してはできるならこのことばを避けたい。たんなる倫理というには、あまりにも高速度・高密度で機能している存在の機微のようなものが感じられるからだ。「古人の文章」は、芭蕉にとって目のあたりに実在し、実感されるものでなくてはならなかった。この「烏之賦」で芭蕉は、烏の大小を分かち、その古典からの面影を引き、その徳と罪とを挙げているが、このようなスタイルはむろん「おどり・くどき・早物語」の羅列主義から完全に脱却しているとは言いがたい。逆に見れば、蕉門全般の「文」に臨む態度は貞門時代からつづく一種の伝統に根ざしていると言えそうだ。しかしこれを宝暦ごろに書かれた次の「俳文」と比較してみるとどうであろうか。 燒蚊辞(かをやくのじ) おのが身ひとつは唯塵ひぢの幽かなる物ながら、類を引き雲(カ)をなし、夕の背戸に柱を立て軒端に雷の聲をなし、貴賤の肌をなやますより、世に蚊帳といふ物を以て汝を防ぎ、末々の品に至るまで、誰か一釣の帋帳をもたざるべき、積りて世の費いくばくぞや。されば虻の利觜蜂の毒尾も、しひて人を害せむとはせず、既に仇の逼る時、是をもて防がんとするは、人の刀剣を帶するに等し。汝が針は只人の油断をうかがひ、ひとり口腹のためにむさぼらんとす。たまたま蜘の巣につつまれ、人の手に握られて、其針を出すことあたはず、然れば巾着切のはさみには劣れり。今宵一把の杉の葉をたいて、端居を心地よくせんとすれど、猶も透間をうかがふ憎さに、おとなげなき業ながら、紙燭さして汝を駈る。ひとへに汝が業火(ごふくわ)なれば、他をうらむ事あるべからず。さるにても殘ましき汝が身を觀ずれば、 火をとりに来ぬ蚊は人に燒かれけり (横井也有「鶉衣」より) 人も違う。時代も違う。同工異曲だが、芭蕉のそれとくらべて格調の落差はいかんともしがたいところである。ただこの文にただよう、突き抜けたような明るいニヒリズムの匂いは賞してよいだろう。芭蕉の生きていた元禄から半世紀ほどのちの宝暦ごろになると、「俳諧」はこのような姿をとって延命していたことになる。そして蕪村の中興まではあと四半世紀ほどの歳月を必要としていた。しかしそれとても、乱世の翳をどこかで木枯らしのようにまとわせた芭蕉の次の句の世界を「再興」するものではなかった。 いねいねと人にいはれても、猶喰(なほくひ)あらす旅のやどり、どこやら寒き居心(ゐごごろ)を侘(わび)て 住(すみ)つかぬ旅のこゝろや置火燵(をきごたつ) (この項終わり)
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Booby Trap 通信 No. 6 |