見えないもの



* たった今起きていることなのに、 真実は誰にもわからないことがある。 歴史を書くのが難しいわけだ。 たとえて言えばゲリラ、パルチザンか。 敵からは見えず、 神出鬼没。 確実なダメージを与えるが、 証拠を残さない。 敵の指導者が「ただちに危険はない」 などと言い出す始末で、 意外なところに味方を作る。 もちろん、これは悪い比喩だ。 誰も解放せず、誰も守らないゲリラなど、 あるはずがない。 はっきりと名前を言えば、 それは放射能というものだ。 福島第一原発から、 あの日以来出ている。 それだけは確かだ。 * むかし、 「見えないものを見る」という詩があった。 自分の感受性によほど自信があった時代の産物だ。 見えないものは見えない。 が、 それは機械で数字に置き換えられる。 数字は解釈して意味に置き換えられる。 問題は解釈が一つに定まらないことだ。 テレビでは百ミリシーベルトまでは大丈夫だと言っているが、 法律では年間一ミリシーベルトまでに規制されている。 百ミリシーベルトで大丈夫なら、 家を捨てて避難しなくても済む。 大した被害ではなかったように見える。 補償額も抑えられる。 大丈夫でなければ、 五年後、十年後、二十年後に がんになる確率が上がる。 がんにならなくても、 体に異常を覚えるかもしれない。 今ただちにはわからないことだ。 主語を除けば。 * 子どもの命を救うという強い使命感のもと、 孫社長は車で田村市の避難所に向かう。 ガイガーカウンターの針が振り切れ、 設定を上げてもまた振り切れる。 しかし、避難所に着いたら、 マスクを外さなければならない。 避難民はその場所の数値の高さを あるいは危険度の高さを 知らないように見える。 マスクもかけずに、 自転車で外を走っている。 危険だと思っていたら、 そこには避難していないだろう。 孫社長は、 テレビでは隠されていることを説明して、 子ども連れの避難民を説得する。 故郷を離れたくない、 という気持ちは強い。 孫社長が涙を流して、 どうか子どものためにと説得し、 その家族はもっと遠くへ 逃げることを決断した。 * こんにちは、私です。 私は横浜に住んでいます。 地震の影響は受けませんでしたし、 福島からは二百キロ以上離れています。 しかし、原発の異変を聞いたときには、 逃げなければならないかもしれないと思いました。 テレビは嘘を言っている感じがしたので、 ネットで情報を集めました。 よく知らなかった原発や放射線のことも、 ネットで勉強しました。 専門的な知識を持たない自分には、 何を信じたらよいかよくわかりませんでしたが、 最後は自分の嗅覚を頼りに考えました。 建物の爆発が相次いだときは 明日はもう来ないかもしれないと思い、 家族と自分の命を守るために必死でした。 一か月たって、 原発はまだ収束に向かっておらず、 テレビで作業の様子を知ると息をのみますが、 逃げなければならないと思うほどのことも起きていないので、 気持ちはずいぶんだれてきています。 シーベルトなんて単位も、 このことが起きてから覚えたわけですし、 怖がりすぎなのか、 注意が足りないのかも、 よくわかりません。 ただ、あの日以来、 風景が前と同じようには 見えなくなってしまいました。 どちらかというと、 以前よりも星はよく見えますが、 見えないあれが漂っているところ、 地面に積もっているところを 想像してしまうのです。 見えないものが見える? いや、そういうことではないでしょう。 緊張感が今ほど薄れていない頃、 外で鶯が鳴いているのが聞こえて、 ふと我に返ったことがありました。 あの日以来始めていたツイッターに、 こんな春でも、裏の林に鶯が来た。 とツイートしました。 俳句ってのはこんな気分でやるのかなあ、 と思いました。 正しいのかどうかよくわかりませんが。

2011年4月



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