蟇檎伐譛ィ豁ゥ縺ョ句

July 1771996

 捨て猫の石をかぎ居つ草いきれ

                           富田木歩

歩は、大正期の俳人。一歳のときに病いを得て、生涯歩行の自由を失う。学校にも行けなかった。このために関東大震災で落命することになるが、彼の句には、自由に外出ができなかった者の観察眼が光っている。この句も、そのひとつ。彼を励まし支えた新井聲風の『木歩伝』の絶版は残念だ。(清水哲男)


September 0191996

 背負はれて名月拝す垣の外

                           富田木歩

正十二年九月一日の関東大震災の犠牲となって、わずか二十六年の生涯を閉じた木歩(もっぽ)の処女作。大正二年の作品というから満十六歳のときの作品。生れつき足が立たず、学校へも行けなかったからイロハの文字一つ一つを独学で学ばねばならなかった。そんな人物がやがて俳句に目ざめていったことも驚きだが、この処女作からして、ちっとも暗さがない。不遇を訴えて哀れみを乞うようなところがない。不思議なこの明るさはいずこから来たものだろうか。小生の愛してやまない隅田川。その川べりに一生を過ごした俳人としても忘れられない。(松本哉)


December 31121996

 行く年やわれにもひとり女弟子

                           富田木歩

は、大晦日に師の家に挨拶に行く風習があった。正岡子規の「漱石が来て虚子が来て大三十日」の句は、つとに有名だ。まことにもって豪華メンバーである。そこへいくと木歩の客は地味な女人だ。が、生涯歩くことができなかった彼の境遇を思うと、人間味の濃さの表出では、とうてい子規句の及ぶところではない。たったひとりの女弟子のこの律儀に、読者としても、思わずも「ありがとう」と言いたくなるではないか。(清水哲男)


September 2791997

 こほろぎにさめてやあらん壁隣り

                           富田木歩

正七年の作。前書に「家のために身を賣りし隣の子の親も子煩悩なれば」とあるので、これ以上の解説は不要だろう。木歩はこの前年に「桔梗なればまだうき露もありぬべし」と詠み、「我が妹の一家のため身を賣りければ」という前書をつけている。桔梗になぞらえられた妹まき子は遊女屋で肺病になり、家に戻され、間もなく死ぬ。享年十八歳。自力で歩行することのできなかった作者自身は、関東大震災のために二十六歳の若さで惨死している。弱者にとって、大正とはまことに残酷で理不尽な時代であった。『定本木歩句集』(1938)所収。(清水哲男)


March 0731998

 日のたゆたひ湯の如き家や木々芽ぐむ

                           富田木歩

正十二(1923)年、木歩二十六歳の句。前書に「新居」とある。場所は東京府本所区向島須崎町十六番地。隅田川に面した町だ。「湯のごとき家」とは珍しい表現だが、暖房もままならなかった時代に、春を迎えた喜びがストレートに伝わってくる。ましてや、新居である。作者は、とてもはりきっている。生涯歩くことのなかった木歩には、このようにのびやかで明るい句も多い。若くして数々の苦難にあい、それに濾過された晴朗な心の産物なのであろう。しかし、この句を詠んだ半年後に関東大震災が起き、木歩は隅田川の辺で非業の死を遂げることになる。人の運命はわからない。この句は『すみだ川の俳人・木歩大全集』(1989)という本に収められている。実は、本書はこの世にたった二冊しかないという希覯本だ。畏友・松本哉があたうかぎりの資料を調べワープロを打ち、布装の立派な本にして恵投してくれたものである。彼とはじめて木歩について語り合ってから、三十年の月日が流れた。(清水哲男)


March 1932001

 籠の鶏に子の呉れてゆくはこべかな

                           富田木歩

せた竹籠に飼われている鶏に、たまたま通りかかった子供が、そこらへんに生えている「はこべ」を摘んで与え、すっと行きすぎていった。ただそれだけの情景だが、見ていた作者は心温まるものを感じている。この場合に、子供の行為は、公園の鳩に餌をやるそれとは大違いだ。鳩に餌をやるのは鳩を身近に呼び集める目的があってのことで、下心が働いている。句の子供に、そんな下心は微塵もない。といって籠の鶏の身に同情しているというのでもなく、ふっと腹を空かせていそうな気配を感じて、とりあえず「はこべ」を与えたまでのこと。去っていった子供も、すぐにこんなことは忘れてしまうだろう。善行を積んだなど、露思っていない。だからこそ、作者には嬉しいのだ。気配りとも言えぬ気配り、ごく自然で無欲な振る舞い。脚が不自由で一歩も歩行の適わなかった木歩にしてみれば、なおさらに子供のぶっきらぼうな行為が印象深く、頼もしくさえ思えただろう。だから、句になった。べつに木歩の境遇を知らなくても、揚句は味読に値する。誰に教えられずとも、この子のような気持ちを持った子は、昔はたくさんいた。大袈裟に聞こえるかもしれないが、みんながそうだった。生きとし生けるものとのつきあい方を、自然に身に付けていたのだと回想される。そこへいくと「いまどきの子は……」などと、愚痴を言ってもはじまらぬ。目から鼻へ抜けるような利口な子は、句の作られた大正期よりも圧倒的に多いのだろうが、それがどうしたと居直りたくなる「句の子」のありようではないか。木歩は、関東大震災で非業の死を遂げた。この子は、無事に生き残ったろうか。「死ぬなよ」と、とんでもなく時代遅れの声援を送りたくなる。ちなみに「はこべ」の漢字は「繁縷」などと表記され、読むにはやけに難しい。松本哉編『すみだ川の俳人・富田木歩大全集』(1989)所収。(清水哲男)


October 16102002

 蚊帳吊るも寒さしのぎや蟲の宿

                           富田木歩

帳(かや)が出てくるが、季節は「蟲(虫)」すだく秋の候。夜がかなり寒くなってきた、ちょうど今頃の句だろう。「蟲の宿」は自宅だ。一読、この生活の知恵には意表を突かれた。冷え込んできたからといっても、まだ重い冬の蒲団を出すほどの本格的な寒さではない。夏のままの夜具を使いまわしながら、なんとなく一夜一夜をやり過ごしてきた。が、今夜の冷えはちょっと厳しいようだ。思い切って冬のものに切り換えようかとも思ったけれど、また明日になれば暖かさが戻ってくるかもしれない。そうなると厄介だ。何か他に上手い方策はないものか。と考えていて、ふと蚊帳を吊って寝ることを思いついたのである。どれほどの効果があるものかはわからないが、夏の蚊帳の中での体験からすると、あれはかなり暑い。となれば、相当な防寒効果もあるのではないか。きっと大丈夫。我ながら名案だなと、作者は微苦笑している。ご存知の方も多いように、木歩は幼いときに歩行の自由を失い、鰻屋だった家も没落して、世間的には悲惨な生涯を送った人だ。だから彼の句は、とかく暗く陰鬱に読み解かれがちだが、全部が全部、暗い句ばかりではない。掲句の一種の茶目っ気もまた、木歩本来の気質に備わっていたものである。小沢信男編『松倉米吉・富田木歩・鶴彬』(2002・EDI叢書)所収。(清水哲男)


March 2932003

 嫁入りを見に出はらつて家のどか

                           富田木歩

正五年(1916年)の作。べつに結婚式や披露宴に招かれていなくても、「嫁入り」となると、みんなで「見に」出かけた時代。戦後しばらくまでは、そんな時代がつづいた。私も、子供のころに「見に」行った記憶がある。作者もまた見に行きたかったのだが、歩くことができなかったので、やむなく「家」に残っている。隣近所の人たちも、みんな「出はらつて」いるから、昼間だというのにヤケに静かなのだ。めったにない静けさのなかで、ひとり「のどか」さを満喫している。とろとろと、眠気を誘われるのも心地よい。現代とは違って、昔の人が「家」でひとりきりになるなどは、そうはなかったことだろう。年寄りがいたり小さな子供や赤ん坊がいたりと、いつもどこかに人の姿や声があった。むろん、個室なんて洒落たものはない。さて、そのうちに見に行った連中が戻ってくる。「どんなだったか」と、もちろん作者は聞いただろう。聞かれるまでもなく話ははじまり、中身は例外なく品定めだ。「嫁」当人の印象はもとより、仕度の適当不適当や招待客の多寡にいたるまで、いや、そのかまびすしいこと。さきほどまでの静けさが嘘のようである。考えてみれば、昔のお嫁さんは大変だった。ガチガチの地域共同体に異分子として入っていくわけだから、溶け込むまでには相当の時間がかかっただろう。家のうちでも外でも、常に監視の目が光っていた。「あそこの嫁は働き者だ」。こう言われるようになって、はじめて共同体は少し扉を開けてくれるのだった。小沢信男編『松倉米吉・富田木歩・鶴彬』(2002・EDI叢書)所収。(清水哲男)


September 1092005

 かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花

                           富田木歩

語は「鳳仙花(ほうせんか)」で秋。句は「病妹」二句のうち。「妹」は作者の末妹・まき子のことだから、この場合は「いも」ではなく「いも(う)と」と読むべきだろう。この句の前年作に「我が妹の一家のため身を賣りければ」と前書きした「桔梗なればまだうき露もありぬべし」がある。まき子は姉・富子の旦那・白井波吉の経営する向島「新松葉」の半玉となったが、翌年に「肺病」を患ってしまい、実家に戻された。その折りの句だ。貧困ゆえ、満足に医者にも診せられなかったに違いない。しかも作者は、この年の冬に弟の利助を同じ病いで失っている。したがって、妹の余命がいくばくもないこともわかっていただろう。荒い息に咽喉(のど)を鳴らしている彼女の姿を凝視するばかりで、何とか助けてやりたいのだが、何もしてやれない。そのもどかしさをそのままに、鳳仙花のはかない美しさを妹のそれに重ねあわせて詠むことにより、妹に対する心からの愛情と憐憫の情とが滲み出ている。それから間もなくして,彼女は逝った。享年十八。このとき二十一歳だった木歩の悲嘆は、いかばかりだったろうか。妹の死といえば、宮沢賢治の詩「永訣の朝」がよく知られているが、わずか十七文字の掲句はそれに匹敵する内容と気品とをそなえている。松本哉編『すみだ川の俳人・富田木歩大全集』(1989・私家版)所収。(清水哲男)


May 1652007

 神輿いま危き橋を渡るなり

                           久米三汀

は夏祭の総称であり、神輿も夏の季語。他は春祭、秋祭となる。大きな祭に神輿は付きもの。ワッセワッセと勇ましい神輿が、今まさに町はずれの橋を渡っている光景であろうか。「危き橋」という対比的なアクセントが効いている。現今の橋は鉄やコンクリートで頑丈に造られているが、以前は古い木橋や土橋が危い風情で架かっていたりした。もともと勇ましい熱気で担がれて行く神輿だけれど、「危き橋」によっていっそう勢いが増し、その地域一帯の様子までもが見えてくるようである。世間には4トン半という黄金神輿(富岡八幡宮)もあれば、子どもたちが担ぐ可愛い樽みこしもある。掲出句は巨大な神輿だから危いのではない。危い橋に不釣合いなしっかりした神輿が、祭の勢いで少々強引に渡って行く光景だろう。向島に生まれ住んだ富田木歩の句に「街折れて闇にきらめく神輿かな」がある。今年の浅草三社祭は明後十八日から始まる。昨年は神輿に大勢の人が乗りすぎ、担ぎ棒が折れるという事故が起きた。そうした危険に加え、神輿に人が乗るのは神霊を汚す行為だ、という主催者側の考え方も聞こえてくる。今年はどういうことに相成るのか――。三汀・久米正雄は碧梧桐門。一高在学中に新傾向派の新星として俳壇に輝いた。のち、忽然と文壇に転じた。戦後は俳誌「かまくら」を出し、鎌倉の文士たちと句作を楽しんだ。「泳ぎ出でて日本遠し不二の山」三汀。句集に『牧唄』『返り花』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 1612011

 夢に見れば死もなつかしや冬木風

                           富田木歩

木風はそのまま「ふゆきかぜ」と読みます。日本語らしい、よい言葉です。ところで、ここで懐かしがっているのは、だれの死なのだろうと思います。普通に考えれば親でしょうか。でも、私も亡くなった父親の夢を時折に見ることはありますが、たいていは若いころの、元気の良かった姿ばかりです。親父の死んだときの夢なんて、見たことはありません。それに、夢に見ているときというのは、つらいことは現実よりもさらにつらく感じるので、人の死の夢を見るなんて、想像するだけでも胸が苦しくなってきます。あんまりつらい夢を見ているときには、そのつらさに耐えられずに目が覚めてしまうことがあります。ああ夢でよかったと、布団の中で安堵したことがこれまで幾度もあります。でも、この句はそうではなく、もっと素直に、死んだ人たちに夢の中で会えて懐かしかったと、まっすぐに受け止めればよいのかもしれません。死も、一生という夢の中の、一部なのだから。『作句歳時記 冬』(1989・講談社)所載。(松下育男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます