1996ソスN7ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2271996

 水打つてあそびごころの見えており

                           森 澄雄

を打っているのは、作者の妻。眺めていると、ときどきとんでもないものにも水をかけている。木陰で昼寝中の猫だとか、届きもしない木の梢めがけてだとか……。「しようがないヤツだ」と苦笑する夫の内面には、妻への愛情がじわりとにじみでている。作者が間もなくこの妻を失うことになる事情を知って読むと、哀切限りない。『はなはみな』所収。(清水哲男)


July 2071996

 かたまるや散るや蛍の川の上

                           夏目漱石

年時代、夏休みになると、近所のお姉さん(18歳くらいだった)に頼んで、よく野外映画会に連れていってもらった。往復二里の山道である。帰り道ではこの句のとおり、川の上には蛍が密集して光っていた。そんな情景のなか、お姉さんと僕は、互いに無言のままひたすら家路を急いだのだった。漱石がこの句を作ったのは明治29年。ちょうど百年前である。敗戦直後の山口県の田舎の蛍は、明治期の漱石が見た蛍と同じように、群れながら明滅していたというわけである。ということは、お姉さんと僕は、いつも黙って明治の夜道を歩いていたということにもなる……。長生きしている気分だ。『漱石俳句集』(岩波文庫・坪内稔典編)所収。(清水哲男)


July 1971996

 裸子や涙の顔をあげて這ふ

                           野見山朱鳥

鳥はいつも病気がちで、人生の三分の一は病床にあった。したがって、死をみつめた句が数多い。そんななかでの健康な乳児をうたった作品だけに、印象が強い。もちろん、赤ん坊の微苦笑を誘うしぐさのスケッチと読んでよいわけだが、涙の裸子に声援を送る作者の気持ちにはそれ以上の思いが込められている。『荊冠』所収。(清水哲男)




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