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July 2371996

 夏痩せて釘散らしたる中にをり

                           能村登四郎

然をうたう俳人が多いなか、登四郎は人間を数多く詠んできた。七十代の作者は、ちょっとしたはずみで手にした釘箱をひっくりかえしてしまい、呆然としている。若いころであればそんな自分に腹も立つが、いまはおのれの失策を老いの必然として自認する心境にある。誰にも訪れる老い。しかし、その自覚のきっかけはさまざまだ。だから、人間は面白いのだし、一筋縄ではいかないのである。『寒九』所収。(清水哲男)


November 01111996

 少女の素足路地へすつ飛ぶ十一月

                           能村登四郎

れぞれの月には、それぞれのイメージがある。たとえば北村太郎の詩に「五月はみがかれた緑の耳飾り」という有名なフレーズがあるように……。ただ、十二カ月のなかでも、イメージのわきやすい月とそうでない月とがあって、十一月などはわきにくい月のトップ・クラスではなかろうか。したがって、佳句も少ない。そんななかで、私が好きな句はこれである。元気のいい女の子になかば見惚れている作者の人生暦もまた、はや十一月というところに妙味がある。(清水哲男)


December 10121996

 遠い木が見えてくる夕十二月

                           能村登四郎

るべき葉がことごとく散ってしまうと、今までは見えなかった遠くの木も見えてきて、風景が一変する。この季節の夕刻は大気も澄んでくるので、なおさらである。そろそろ歳末のあわただしい気分になろうかというころ、作者は束の間の静かな夕景に心を休めている。さりげない表現だが、十二月を静的にとらえた名句のひとつだろう。『有為の山』所収。(清水哲男)


February 2621997

 春日三球ひとりとなりし朧かな

                           能村登四郎

下鉄の電車。「あれはどっから入れるんでしょうねエ」で笑いを取った漫才師の三球が、相方に死別した後の句。ひとりでテレビに出ている姿は、痛々しかった。が、作者は「それでいいのだ」と言っているように思える。運命は運命として甘受するしかないし、甘受できたときに醸成されてくる心地よさ。それを「朧」に託したということ。「人間というものはいい奴も仕方がない奴もさまざまいるが、それが又面白く魅力でもある。私は自分をふくめて人間が大好きである」という作者ならではの人間句だろう。『菊塵』所収。(清水哲男)


April 1141997

 春ひとり槍投げて槍に歩み寄る

                           能村登四郎

とり黙々と槍投げの練習に励む男。野球などとは違い、練習から試合まで、槍投げは徹底して孤独なスポーツだ。野球だと、ときに処世訓めいた言葉とともに語られることもあるけれど、そういうことも一切ない。ただひたすらに、遠くに投げるためだけの行為のくりかえし。すなわち人生的には無為に近いこの行為を、作者は無為にあらずと詠んでいるのだ。春愁を通り越した人間の根源的な愁いのありかを、読者に差し出してみせた名句である。『枯野の沖』所収。(清水哲男)


December 08121997

 妻なきを誰も知らざる年わすれ

                           能村登四郎

しい人たちとの忘年会ではない。初対面の人も、何人かいる。そんな席では誰かが、座をなごませるべく、リップ・サービスのつもりで自分の妻のドジぶりを披露したりする。「そんなのはまだ序の口だよ」と別の誰かが陽気に応じ、隣席の作者に同意を求めたのでもあろうか。そんなときに、実は妻とは死別したなどと切り出すわけにもいかず、曖昧に頷いておくことくらいしかできない。なにしろ、話し手は善意なのだから……。そして、このことで作者は傷ついたというわけではないと思う。妻がいるのが普通だという通念が、もはや成立しないほどの年齢にさしかかったみずからの高齢に、いわばしみじみと直面させられているのである。このときに一瞬、灯りのついていない我が家のたたずまいを思い浮かべただろう。会が果てれば、そこへひとり帰っていくのだ。『寒九』(1986)所収。(清水哲男)


May 2951998

 紙魚ならば棲みても見たき一書あり

                           能村登四郎

環境の変化のせいだろうか。最近は、めったに紙魚(しみ)を見かけることもなくなった。住環境の変化ばかりではなく、もっと大きな自然の働きによるものかもしれない。なにしろ人間サマの精子が激減しているというご時世だから、紙魚などの下等な虫が生きていくのは、さぞや大変なことなのだろう。じめじめとした暗いところを好み、本であれ衣服であれ、澱粉質のものにならば何にでも食らいつく(衣服についたほうの虫は「衣魚」)。仮に自分がそんな虫だったら、ぜひとも住んでみたい本があるという句だ。このとき、作者は78歳。それはどんな書物なのだろうか……。と、句の読者は必ず好奇心を抱くにちがいない。同時に、自分にもそんな本があるだろうか、あるとすれば、誰が書いた何という本なのか……と、自分自身に問いかけるはずである。もちろん私も考えたが、紙魚にまでなって住みつきたいと思う本はなかった。あなたの場合は、いかがでしょうか。『長嘯』所収。(清水哲男)


July 1171998

 夏痩せて身の一筋のもの痩せず

                           能村登四郎

ーワードは「身の一筋のもの」である。夏負けで身体全体が少々痩せてきても、この部分だけは痩せてはいないと、作者は言っている。さてそれならば、「身の一筋のもの」とは何だろうか。読者が男性であれば(いや、男性でなくとも)、たぶん「ははあ、アレのことか」とすぐに見当がつくのではなかろうか。これを精神的なアレだと思った人は、生来のカマトトだろう。私も、みなさんと同じように(!?)即物的に「アレのことか」と思った次第だ……。で、そう思った次には、すぐに「よく言うよ」と思って笑ってしまい、その次にはしかし、なんだか妙な気分に捉われてしまった。この句に詠まれていることが本当かどうかという問題ではなくて、ヒトの身体というものの寂しさを、この句が象徴しているように思えたからである。自分の身体は、死ぬまで自分と一緒である。あたかもそれは「不治の病」と同じような関係構造を有しているのであり、その意味から言うと、人は誰でも「自分という病」を、身体的には先験的に病んでいるのだとも言える。そこらあたりのことを、しかし俳人はかくのごとくに「へらへらっ」とした調子で詠んでみせる。もしかしたら持ち合わせている「身の一筋のもの」が、かなり私などとは異なるのかもしれない。そんな不安にもさいなまれそうになる作品だ。『民話』(1972)所収。(清水哲男)


December 09121998

 風邪衾かすかに重し吾子が踏む

                           能村登四郎

具の「衾(ふすま)」には特殊なものもあるが、この場合は普通の掛け布団と解してよいだろう。作者は風邪で寝込んでいる。高熱のなかでうつらうつらしていると、かすかに布団が重くなったような気がした。どうしてだろうか。少し考えて、ああきっと子供がいま裾を踏んでいったからだろうと納得している。高熱ゆえの判断力の低下である。誰にでも、似たような体験はあるだろう。……と、この一句からではここまでしか読めないが、実はこのときの作者に子供などいなかったことを知ると、俄然、句は違う色合いを帯びてくる。子供はいたのだが、六歳のときに病没している。死に別れている。したがって、子供が布団を踏むことなどはありえないわけだ。でも、作者にはそう思えた。あくまでも高熱ゆえの幻想なのだけれど、この幻想からわき出てくる悲哀の感情は読む者の心にずしりと重くのしかかるようだ。このような句を前にすると、俳句を読むとはどういうことかと考えさせられてしまう。作者の人生、作者の境遇を知らないと読み違えることがあるからだ。テキストだけでは成立しない句も含めて、俳句は芒洋として歩いてきたというしかない。『咀嚼音』所収。(清水哲男)


February 2421999

 春愁の中なる思ひ出し笑ひ

                           能村登四郎

愁とは風流味もある季語だが、なかなかに厄介な感覚にも通じている。その厄介さかげんを詩的に一言で表せば、こういうことになるのだろうか。手元の角川版歳時記によれば、春愁とは「春のそこはかとない哀愁、ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、反面ふっと悲しみに襲われることがある」。国語辞典でも同じような定義づけがなされているけれど、いったい「春愁」の正体は何なのだろうか。精神病理学(は知らねども)か何かの学問のジャンルでは、きちんと説明がついているのだろうか。とにかく、ふっと「そこはかとない哀愁」にとらわれるのだから、始末が悪い。そういう状態に陥ったとき、最近はトシのコウで(笑)多少は自分の精神状態に客観的になれるので、自己診断を試みるが、結局はわからない。作者のように「ものうさ」のなかで思い出し笑いをするなどは、もとより曰く不可解なのであり、それをそのまま句にしてしまったところに、逆説的にではなく、むしろ作者のすこやかな精神性を感じ取っておくべきなのだろう。少なくとも「春愁」に甘えていない句であるから……。『有為の山』所収。(清水哲男)


June 0361999

 はたらいてもう昼が来て薄暑かな

                           能村登四郎

ほど体調がよいのだろう。仕事に集中できているから、あっという間に時間が経ってしまう。ふと空腹を覚えて時計を見ると、もう昼時である。表の陽光には、既に夏に近いまぶしさが感じられる。心身ともに心地好い充実感で満たされた一句だ。しかし同日の同じ職場にも、一方では「まだ昼か」と、時間の経過を遅く感じている人もいただろう。人それぞれの時間感覚は、それこそそれぞれに違っていて面白い。たとえば、妙に就寝時刻にこだわる人もいる。日付が同じ日のうちに床につくと、何だかとても損をしたような気になる人は結構多い。たとえ5分でも10分でも明日まで起きていないと、気がすまないのである。でも、他人のことは笑えない。私の場合は、表の明るさにこだわる性質(たち)だからだ。表が明るくなっても寝ているのは、とても損な気がしてならない。だから、夏場になると、どんどん早起きになる。昼寝も、なるべくしないようにする。理由は考えたこともないのだけれど、ひょっとすると代々受け継いできた農民の血のせいなのかもしれぬ。と、時々そう思ったりする。『人間頌歌』(ふらんす堂文庫・1990)所収。(清水哲男)


June 1862000

 老境や空ほたる籠朱房垂れ

                           能村登四郎

の「ほたる籠」は、とてつもなく大きく感じられる。人間の乗る籠くらいには思える。「空(から)」が空(そら・くう)を思わせ、「朱房」が手に重い感覚を喚起するからだ。もとより、作者が見ているのは、細くて赤い紐のついた普通の小さな蛍籠だろう。句のどこにも大きく見えるとは書いてないけれど、それが大きく感じられるのは「老境」との響きあいによるものだ。老境にはいまだしの私が言うのも生意気だが、年齢を重ねるに連れて、たしかに事物は大きく鮮明に見えてくるのだと思う。事物の大小は相対的に感じるわけで、視線を活発に動かす若年時には、大小の区別は社会常識の範囲内に納まっている。ところが、身体的にも精神的にも目配りが不活発になってくる(活発に動かす必要もなくなる)と、相対化が徹底しないので、突然のように心はある一つのものを拡大してとらえるようになる。単なる細くて赤い紐が、大きな朱房に見えたりする。そのように目に見えるというよりも、そのように見たくなるというべきか。生理的な衰えとともに、人は事物を相対化せず、個としていつくしむ「レンズ」を育てていくようである。「老境」もまた、おもしろし。一抹の寂しさを含んだうえで、作者はそのようなことを言いたかった……。『菊塵』(1988)所収。(清水哲男)


September 2592000

 蓑虫や天よりくだる感嘆符!

                           小沢信男

虫(みのむし)というと、たとえば「蓑虫の寝ねし重りに糸ゆれず」(能村登四郎)など、既にぶら下がっている状態を思うのが普通だろう。既にぶら下がっているのだから、蓑虫の動きは風による水平移動に限定される。「糸ゆれず」も、ゆれるとすれば左右への動きとなる。ところが、掲句は蓑虫の垂直の動きを捉えることで、私たちの観察の常識を破った。すうっと上から下ってきた蓑虫が静止した瞬間を、発止と捉えている。この鮮やかさ。その姿を「感嘆符!」に見立てた切れ味の鋭さ。「!」に見られる諧謔味も十分であり、同時に私たち人間のの感嘆が「天よりくだる」としか言いようのない真実を押さえて重厚である。掲句を読んだあとでは、ぶら下がっている蓑虫を見る目が変わってしまう。垂直に誕生してきた虫を思うことになる。つくづく、この世に俳句があってよかったと嬉しく思う一瞬だ。。作者にとっても、事はおそらく同様だろう。作者にとってのこの一句は、恩寵のように垂直に、それこそ「俳句の天」よりくだりきたものであるはずだからだ。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


October 04102000

 粟の穂や一友富みて遠ざかる

                           能村登四郎

(あわ)は五穀の一つ。他は、稲、麥、黍(きび)、稗(ひえ)である。芭蕉に「粟稗にまづしくもなし草の庵」とあり、昔は粟や稗を主食とする者は貧しい人たちであった。「あは」は「あはき」の略という説もあり、米などよりも味が淡いことから来ているというが、風に揺れる粟の穂の嫋々たる姿をも感じさせる命名だ。句意は明瞭。一友は、事業にでも成功したのだろう。あれほど仲がよかったのに、爾来すっかり疎遠になってしまった。かつては伴に歩いたのであろう粟畑の道を、彼ひとり「遠ざかる」姿が見えているのか。しかし、作者には、離れていった友人に対する嫉(そね)みもなければ、ましてや恨みもない。半ば茫然と、浮世の人間(じんかん)の不思議さを詠んでいる。その淡々とした詠みぶりが、粟畑をわたる秋風に呼応している。最近はさっぱり粟畑を見ないが、まだ栽培している農家はあるのだろうか。昔の我が家では少し作っていて、正月用の粟餅にして食べていた。美味。『合掌部落』(1956)所収。(清水哲男)


December 31122000

 今思へば皆遠火事のごとくなり

                           能村登四郎

語は「火事」で冬。本年の掉尾を飾る句にしては寂し過ぎるが、あえて選んだ。といって、いまの私が作者の心境に至っているわけではない。新年早々に辻征夫と別れ、師走に加藤温子と別れた。仲良しの詩の仲間を、一挙に二人も奪われた。それもまだ十分に若い命を、だ。めったに泣かない私が、ひとりかくれて声を押し殺して泣いた。「ばかやろう」と大声で叫びたい気持ちだった。だから「遠火事」どころではなく、まだ心にはぶすぶすとくすぶるものがある。まだ、生々しい体験として生きている。揚句がそんな私に寂しいのは、やがていつの日か、今年起きたことも、おそらくは「遠火事」のように思い出されることになるだろうからだ。作者は、このときに七十代の後半である。よほどの体験でも、時の経つにつれて実感が失われていく。どうにもならぬ、人の常だ。戦地で地獄を見てきた人すらも、どこか「遠火事」のように語るようになってきた。私にしても、たとえば戦後の飢えの体験などは、どちらかといえば「遠火事」に近くなってきたろうか。あれほど苦しかったのに、たまのご馳走であった一個の生卵を弟と分ける際にいつも喧嘩になったのに、そういうことも忘れかけている。ひるがえって作者の心境に思いを馳せると、私などよりも、もっともっと寂しいだろうと思う。体験した喜怒哀楽の何もかもが「遠火事」のようにしか浮かんでこない心には、ただ荒涼たる風が吹きすぎているのみだろうからである。今年も暮れる。来る年が、みなさまにとってよい年でありますように。『菊塵』(1988)所収。(清水哲男)


May 2652001

 汗ばみて加賀強情の血ありけり

                           能村登四郎

かっているのだ。わかってはいても、つい「強情」を張り通してしまう。気質かなあと、作者は前書きに「金沢はわが父の生地」と記した。傍目からすれば、強情は損と写る。何もつまらないことで意地を張る必要はあるまいにと、見える。このあたりが人間の不可解さで、強情を張る当人は必死なのだ。それもわかりながらの必死なのだから、すこぶる厄介である。江戸っ子のやせ我慢なども同類で、気質には地域的な歴史や環境にも大いに影響されるという説もあるけれど、加賀や江戸の人すべてが強情でないことも明らかだ。負けず嫌いや一本気な人はどこの土地にもいるし、負けるが勝ちさと嘯く人だってどこにでもいる。そんなことはわかっているのだが、しかし自分の強情癖は直らない。我と我が気質をもてあましつつ、とりあえず三十代の作者は、血の地方性に寄りかかってみたかったという句だろう。ちなみに、自身は東京生まれである。作者の能村登四郎氏は、一昨日(2001年5月24日)九十歳で亡くなられた。敗戦後まもなくの句に「長男急逝六歳」と前書された「逝く吾子に万葉の露みなはしれ」という痛恨の一句がある。半世紀ぶりにお子さんと会えたならば、さすがの強情も出てこないだろうとは思うけれど……。合掌。『人間頌歌』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


July 2872001

 弟子となるなら炎帝の高弟に

                           能村登四郎

い暑いと逃げ回るのにも、疲れる。かといって、しょせん凡人である。かの禅僧快川が、火をかけられ端坐焼死しようとする際に発したという「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の境地には至りえない。ならば、猛暑の上を行ってやろう。すなわち、いっそのこと「炎帝(えんてい)」の弟子になってやれ、それも下っ端ではなくて「高弟」になるんだ。「高弟」になって、我とわが身を真っ赤な火の玉にして燃えつづけてやるんだ……。暑さには暑さを、目には目を。猛暑酷暑に立ち向かう気概にあふれていて、気持ちの良い句だ。しかし、よほど身体の調子がよいときでないと、この発想は生まれてこないだろう。「炎帝」は夏をつかさどる神、またはその神としての太陽のことで、れっきとした夏の季語である。同じ作者に「露骨言葉に男いきいき熱帯夜」があり、こちらは立ち向かうというのではなく、やり過ごす知恵とでも言うべきか。どうせよく眠れない「熱帯夜」なのだからと、酒盛りをおっぱじめ、飲むほどに酔うほどに卑猥な言葉を連発しあっている男たち。不眠に悶々とするよりは、かくのごとくに「いきいき」できるのだからして、「露骨言葉」もなんのそのなのである。『寒九』(1986)所収。(清水哲男)


September 2192001

 季すぎし西瓜を音もなく食へり

                           能村登四郎

の季語とされている「西瓜」だが、さすがに気温の下がってくる陰暦八月ともなると、真夏のように威勢の良い食べ方はできなくなる。なにせアフリカ原産、水分が90パーセント強の果実ゆえ、気温が高くないと「音」をたててかぶりつく気持ちは失せてしまう。「季」は「とき」。したがって「音もなく食へり」となるわけで、しかもこの季節外れの「西瓜」はみずから求めたものではないだろう。何かの事情で、仕方なく食う羽目になったのだ。招かれた先が、生産農家だったのかもしれない。先方は十分に美味いと自信をもって薦めたのだろうが、作者の困惑ぶりが、その表情までもが手に取るようにうかがわれて面白い。家庭でならば、しらあっとした顔になるはずが、御馳走してくれた人の好意の手前、そうもいかない。いかにもの表情で食べながらも、しかし威勢よく食べる音は立てていないのだから、音が表情を裏切っている。ホントにマズそうな句だ。だから、ウマい句なのだ。こういうことは、べつに「西瓜」ではなくとも、誰にもたまに起きることがある。私が俳句は「思い当たりの文芸」という所以だし、うっかり見逃してしまいかねない地味な作品だが、自然よりも人間にこだわりつづけた登四郎の面目躍如たる秀句だと「音」たてていただいた。自選集『人間頌歌』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


December 10122001

 数へ日の素うどんに身のあたたまり

                           能村登四郎

語は「数へ日」で冬。日数の残りも少ない年末のこと。感覚的には、まだ少し早いかもしれない。が、あらためて壁のカレンダーをを見ると、今年もあと三週間しか残していない。これからは何かと慌ただしく、一瀉千里で今年も暮れていくのだ。忙しいということもあるが、そんな思いのなかでの独りの外食は、見た目にデコラティブな料理よりも、シンプルの極みたいなものがしっくりと来る。「素うどん」などは、その典型だ。とりあえずの「身のあたたまり」ではあるだろう。が、もう少し「素うどん」を敢えて句にした作者の実感に迫っておけば、シンプルな食べ物からしか受けることのできない恩寵に、ひとりでに感謝する響きが込められている。おかげで「身」も暖かくなった。そして、心の内もまた……。年末の多忙は、多く整理の多忙だ。来る年を迎えるために、身辺も心の内もさっぱりとしておきたい。その気持ちが、たとえば「素うどん」の「素」にすんなりとつながっていく。そういうことだと掲句を読み、今日はどこかの立ち食いの店で「素うどん」を食べたくなった。それも「七味」ではなく「一味唐辛子」を、さっと振りかけて。『人間頌歌』(1990)所収。(清水哲男)


March 1232002

 白木蓮に純白という翳りあり

                           能村登四郎

語は「白木蓮(はくもくれん)」で春。この場合は「はくれん」と読む。落葉潅木の木蓮とは別種で、こちらは落葉喬木。木蓮よりも背丈が高い。句にあるように純白の花を咲かせ、清美という形容にふさわしいたたずまいである。いま、わが家にも咲いていて、とくに朝の光りを反射している姿が美しい。そんな様子に「ああ、きれいだなあ」で終わらないのが、掲句。完璧のなかに滅びへの兆しを見るというのか、感じるというのか。「純白」そのものが既に「翳り(かげり)」だと言う作者の感性は、古来、この国の人が持ち続けてきたそれに合流するものだろう。たとえば、絢爛たる桜花に哀しみの翳を認めた詩歌は枚挙にいとまがないほどだ。花の命は短くて……。まことにやるせない句ではあるが、このやるせなさが一層花の美しさを引き立てている。しかも白木蓮は、盛りを過ぎると急速に容色が衰えるので、なおさらに引き立てて観賞したくもなる花なのだ。「昼寝覚しばらくをりし白世界」、「夏掛けのみづいろといふ自愛かな」、「老いにも狂気あれよと黒き薔薇とどく」など、能村登四郎の詠む色はなべて哀しい。『合本俳句歳時記・二十七版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


May 0452002

 行く春を死でしめくくる人ひとり

                           能村登四郎

書に「中村歌右衛門逝く」とある。名女形と謳われた六代目が亡くなったのは、昨年(2001年)の三月三十一日のこと。桜満開の東京に、二十五年ぶりという雪が舞った日の宵の口だった。命日と掲句の季節感とはずれているが、何日か経ってからの回想だろう。そして、同年の五月二十四日には、六代目より五歳年長だった作者も卒寿で逝くことになる。ほぼ同世代のスター役者が亡くなった。そのことだけを、ぽつりと述べている。残念とか惜しいとか言うのは、まだまだ若い人の言うことで、九十歳の作者にとってはぽつりで十分だったのだろう。長生きして老人になれば、友人知己はぽつりぽつりと欠けていく。若い頃とは違い、もはやさしたる嘆きもなく、その人の死の事実だけを素直に受け入れていく。知己ではない歌右衛門の死だから、ことさらにぽつりと他人事としてつぶやいたのではなく、この句は誰の死に対しても同じ受け入れ方をするようになった作者の心のありようを、たまたま有名役者の死に事寄せて述べたのではあるまいか。みずからの来たるべき死についても、同じように淡々と受け入れるということでもあるだろう。長命の人は誰もが、諦念からでもなく孤独感からでもなく、このように現実の死を受容できるのだとしたら、少しは長生きしてみたくなってくる。でも、詩人の天野忠さんが珍しく怒って言ってたっけ。わかりもしないくせに、ぬるま湯につかったような「老人観」をしゃべるもんじゃないよ、と。『羽化』(2001)所収。(清水哲男)


February 0822003

 寡作なる人の二月の畑仕事

                           能村登四郎

かな立春後の二月といえども、いまごろの「畑仕事」は少々早すぎる。と、これは昔の農業の話だけれど……。三十数年も前の新潮文庫『俳諧歳時記』(1968)で掲句を知ったときに、すぐに心に沁みた句だった。二月になると、思い出す。「寡作(かさく)」とは、最近は、才能に恵まれながらも少ししか作品を書かない作家や詩人などについて言われるが、元来は少ししか田畑を持てなくて、少ししか作物を作れなかった人の事情のことだった。掲句の「寡作」は、どちらとも取れるが、そんなことはどうでもよろしい。私が心に沁みたのは、子供のころの同じ集落に後者の意味での寡作の人がいたからである。とにかく、その人の畑仕事は極端と言ってよいほどに早めで、周囲の大人たちが半ば冷笑していたことを覚えている。見渡しても、まだ誰もいないところでぽつんと一人、その人は黙々と仕事をはじめるのだった。それが信念だったのか、あるいはそうしなければ仕事が間に合わなかったのか、それは知らない。いずれにしても、村の風(ふう)からすると、変わり者には違いなく、しかし、なんとなく私はその人が好きだった。大人たちが、またはじまったとばかりに憫笑していると、義憤すら覚えたものである。いわゆる他所者でもないのに、何故その人は、村のつきあいもほとんどせずに、超然としていられたのだろうか。その人と出会っても、小学生の私はぺこりとお辞儀をするだけで、ろくに口を聞いたこともない。が、いまだに、本名も家の場所もちゃんと覚えている。そんな個的な事情から、覚えて離れない句もあるということです。ところで、掲句が載っていた新潮社版歳時記は、絶版になって久しい。手元の文庫本もボロボロになってきた。再販を望んでおきたい。(清水哲男)


July 0772003

 今年より吾子の硯のありて洗ふ

                           能村登四郎

日は陽暦の七夕。七夕の前日に、日ごろ使っている硯(すずり)や机を洗い清める風習から、季語「硯洗(すずりあらい)」が成立した。ただし、季節は七夕とともに秋に分類されるのが普通だ。このあたりが季語のややこしいところで、梅雨期の七夕はいただけないにしても、現実には保育園や幼稚園、学校などの七夕は今日祝うところが大半だろう。陰暦の七夕だと、夏休みの真っ最中ということもある。私は戦時中から敗戦後にかけての小学生だけれど、学校の七夕行事はやはり陽暦で行われていた。すなわち、陽暦七夕の歴史も短くはない。だから、私たちのイメージのなかで七夕が夏に定着してもよさそうなものだが、どうもそうじゃないようだ。いま行われている平塚の七夕祭などはむしろ例外で、仙台をはじめ大きな祭のほとんどは陰暦での行事のままである。やはり、梅雨がネックなのだろう。私が小学生のころは、風習どおり前日にはきれいに硯を洗い、七夕には早く起きて、畑の里芋の葉に溜まった朝露を小瓶に集めて登校した。この露で墨を擦って短冊を書くと、なんでも文字がとても上手になるという先生のお話だったが……。さて、掲句では、子供がまだ小さいので父親が洗ってやっている。洗いながら「吾子」も自分の硯を持つようになったかと、その成長ぶりを喜んでいる。控えめで静かな父親の情愛が感じられる、味わい深い句だ。実際、学校に通う子は学年が上がる度に新しい道具が必要になる。それを見て、親は子供の成長を認識させられる。私の場合には、娘が水彩絵の具とパレットを持ち帰ったときに強く感じた。あとはコンパスとか分度器とか、すっかり忘れていた算数の道具のときも。いずれも「どれどれ」と手に取って、しげしげと眺めた記憶がある。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


February 1122004

 挿木する明日へのこころ淡くして

                           能村登四郎

語は「挿木(さしき)」で春。枝などを切って土や砂に挿し、根を出させて苗木をつくる。時期的にはまだ早く、すっかり暖かくなった春の彼岸ころに行われることが多い。若き日の寺山修司が好んだフレーズに、「もしも世界の終わりが明日だとしても、私は林檎の種を蒔くだろう」というのがあった。誰の言葉かは忘れた。種蒔きでも挿木でも同様だが、この作業は「明日」があることを前提にし、それも植物が生長を遂げるのに十分な時間の幅を持った明日である。むろん生長を見守る自分も、充実の時には存在していなければならない。だから、世界が明日破滅すると決まっていても林檎の種を蒔くという行為には、矛盾がある。しかし大いなる矛盾があるからこそ、このフレーズには、どんな状況においても希望を捨てない若々しいロマンチシズムがみなぎっているのだ。前置きが長くなったが、掲句は一見、このフレーズの淡彩版のようにも読める。というのも「明日へのこころ淡くして」挿木する作者を若者だとみるならば、心弱き日の感傷的な行為と受け取られ、立ち上がってくるのは甘酸っぱいようなロマンチシズムの香りである。だが、実際に作者が詠んだのは、最晩年の九十歳の春だった。そのことを知ると、句は大きく様相を変えて迫ってくる。すなわち、「明日」がないのは世界ではなくて、我が命のほうなのだ。挿している植物が生長するまで、生きていられるだろうか。その心もとなさを「こころ淡くして」と詠み、みずからの明日の存在の不確実性は真実こう詠むしかないわけであり、ここには微塵のロマンチシズムも存在しないのである。我が身の老いを完全に自覚したときの孤独感とはこのようなものなのかと、粛然とさせられた。『羽化』(2001)所収。(清水哲男)


September 1992004

 鳥渡る旅にゐて猶旅を恋ふ

                           能村登四郎

語は「鳥渡る」で秋。登四郎最晩年八十九歳の句、死の前年の作句である。若い身空で旅にあっても、ときにこういう感興を覚えることがあるが、老いてからのそれは一入だろう。澄んだ秋空を渡ってくる鳥たちを見上げていると、その元気さ、その自由さに羨望の念を覚え、旅先であるのに猶(なお)さらなる遠くへの旅を「恋ふ」気持ちがこみ上げてくるのだ。もはや渡り鳥のようには元気でもなく自由もきかない我が身にとっては、今度のこの旅が最後になるかもしれない。そうした懸念とおそれがあるので、なおさらに鳥たちの勇躍たる飛翔が目にまぶしく感じられる。同じころの句に「啄木鳥や木に嘴あてて何もせず」があり、こちらは何もしないでいる「啄木鳥(きつつき)」に老いた我が身を重ねあわせたものだ。あのいつも陽気で騒がしい鳥にも、じっと黙して動かない時間がある……。一見ユーモラスではあるけれど、何か名状しがたい苦さがじわりと読み手に沁み入ってくる。高齢者の句には総じて淡白なものが多いように思うが、見られるように登四郎の句にはなお作品的な色気がある。人によりけりなのではあろうけれど、妙な言い方をしておけば、登四郎には最後まで読者を意識したサービス精神があったということだ。その道のプロは、かくありたいものだ。『羽化』(2001)所収。(清水哲男)


September 1592005

 怨み顔とはこのことか鯊の貌

                           能村登四郎

語は「鯊(はぜ)」で秋。昨日のつづきみたいになるが、しかし作者は、むろん審美的に魚を見ているのではない。鯊は頭と口が大きく、目が上のほうについているので、なんとなく人間の顔に似て見える。それも決して明るい表情ではなく、句のように、見れば見るほど暗い顔に見える。たぶん作者は誰かに「(あの表情は)怨み顔」なのだと教えられ、なるほど「このことか」と、あらためてまじまじと見つめているのだ。では、なぜ鯊が「怨み顔」をしているのか。その答えを書いた詩に、安西均の「東京湾の小さな話」(詩集『お辞儀するひと』所収)がある。「いちばん釣れるのはお彼岸ごろだから、/まだちょっと早いさうだが、/鯊釣りに誘はれた。すっかり/凪いで晴れた東京湾では、」ではじまるこの詩は、同行の青年のお祖母さんから聞いた話で締めくくられていく。「だってねえ、あたしゃ嫁に来た年の/大震災をようく覚えてますよ。/ええ、陸軍記念日の大空襲でも、/命からがら逃げまはって、/どっちも何万といふ人が大川で、/焼け死に、溺れ死にしましてね。/あなた、東京湾の鯊。あれは、/何食って育ったと思ひます」。このお祖母さんの話を受け、詩人は次の一行を加えて詩を閉じている。「生涯、鯊を食はないひともゐるのだ」。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 31102005

 子等に試験なき菊月のわれ愉し

                           能村登四郎

語は「菊月」で秋、「長月」に分類。陰暦九月の異称で、陽暦十月上旬から十一月初旬の候。むろん、菊の咲く時期ゆえの命名である。作者、教員時代の句だ。したがって、「子等」は自分の子供ではなく、教えている生徒たちを指している。「試験」がなければ、もちろん生徒たちは愉(たの)しい。しかしこの句を読むまでは、言われてみればなるほどと思ったけれど、教師もまた愉しいものだとは思いもしなかった。私が生徒だったころには、試験中の先生は授業をしなくてもいいので、ずいぶん楽なんだろうなあくらいの認識しかなかった。浅はかの極みではあったが、しかし生徒の先生に対する意識なんぞは、いつの時代にもだいたいがそんなものなのだろう。長じて知るのは親の恩ばかりではなく、教師の恩もまた然りというわけだ。屈託なく伸び伸びと動き回る子等を見て、作者は慈愛を含んだまなざしで微笑している。ところで、この句は昔のものだからこれでよいのであるが、現代だとちょうど「中間テスト」の時期に当たっているので、生徒も教師も「菊月」は憂鬱なシーズンと化してしまった。秋の運動会が終わると、次は試験という学校が多い。私くらいまでが、中間テストのなかった世代ではなかろうか。高校に入ったときにはじめて本格的な中間テストがあって、さすがに高校は勉強の場なんだと感心した覚えがある。それがいまや中間テストは小学生にまで及んでおり、せっかくの良い季節も濁りを帯びている。何をか言わんや、だ。『合本俳句歳時記』(1997)所載。(清水哲男)


June 1662006

 坂がかり夕鰺売りの後に蹤く

                           能村登四郎

語は「夕鰺(ゆうあじ)」で夏、「鯵」に分類。海釣りが好きで、食べる魚では「鯵」が好きだった詩人の川崎洋さんが、最後の著書となった『魚の名前』(いそっぷ社)で、次のように書いている。「朝飯はご飯、おみおつけ、梅干し、納豆がゆるぎない定番で、ほかにアジの干物が食卓に並ぶ率が七割くらいです。晩酌の肴は刺身が主で、季節によりアジ刺を所望します。アジサシと言っても海中に急降下してアジを刺す鳥のアジサシではありません。夕餉のときはうちのネコが椅子の横下に座り、刺身をねだりますが、アジ刺のときは、目の色が変わります。江戸時代からアジはカツオについで夏の食卓を飾る魚でした。とくに『夕鯵』と称して夏の夕方に売りに来るアジは新鮮なものでした」。川崎さんほどではないが、私にもアジは好物だ。いかにも「夏は来ぬ」の情趣がある。掲句は、まさに「夏は来ぬ」の情景を詠んでいて好ましい。たまたま坂道にかかるところで、「夕鰺売り」の後に「蹤(つ)く」かたちになった。それだけしか書かれてはいないが、句から汲み取れるのは、海からさほど遠くない住宅街の夕方の雰囲気だ。夏の夕暮れだから、まだ明るい。そろそろ夕飯の支度時で、どこからか豆腐屋のラッパの音も聞こえてきそうだ。坂をのぼりながら、作者は今日一日の仕事の疲れが癒されてゆくのを覚えている。ある夏の日の夕暮れの平和なひとときを、さりげなくスケッチしてみせた腕前はさすがである。『合本俳句歳時記・第三版』(1987・角川書店)所載。(清水哲男)


December 30122007

 改札に人なくひらく冬の海

                           能村登四郎

つて、混雑した改札口で切符の代わりに指を切られたという詩を書いた人がいました。しかし、自動改札が普及した昨今では、もうそのような光景を見ることはありません。掲句、改札は改札ですが、描かれているのは、都会の駅とはだいぶ趣が異なっています。側面からまっすぐに風景を見渡しています。冬の冷たい風が吹き、空一面を覆う厚い雲が、小さな駅舎を上から押さつけているようです。句が、一枚の絵のようにわたしの前に置かれています。見事な描写です。北国のローカル線の、急行の停まらない駅でしょうか。それほどに長くはないホームには、柱に支えられた屋根があるのみで、海への視界をさえぎるものは他にありません。改札口には、列車が来る寸前まで駅員の姿も、乗客の姿も見えません。改札を通るのは、人々の姿ではなく、ひたすらに風だけのようです。冬の冷たさとともに、すがすがしい広さを感じることができるのは、「ひらく」の一語が句の中へ、大きな空間を取り込んでいるからなのでしょう。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)


February 1022008

 泪耳にはいりてゐたる朝寝かな

                           能村登四郎

語は朝寝。しかしこの朝寝は、朝寝、朝酒、朝湯と歌われているものとはだいぶ様子が違います。のんびりと朝寝をしていたのではなく、前の夜に眠れなかったことが、思いのほか目覚めを遅くしたものと思われます。眠れないほどの悩みとはいったい何だったのでしょうか。手がかりは泪しかありません。なぜ視覚をつかさどる目という器官が、同時に悲しみを表現するためにもあるのだろうと、不思議に思ったことがあります。その悲しみが限界を越えた所で、人はここから水をこぼします。眠れずに心を痛めたあげくの泪が、幾すじも頬をつたい、耳にたまってゆくのです。昼日中の泪なら、泣けば心が晴れるということもあるかもしれません。でも、この泪はそのまま翌日に持ち越しているようです。いつまでも寝ているわけにも行かず、起き上がり、身支度をした頃には、もちろん耳に入った泪はぬぐいさられています。それにしてもわたしは、この人がその日を、どのように乗り越えたのかを、どうしても想像してしまいます。目と、耳と、悲しみを二箇所にもためた人が、どのように悲しみを乗り越えたのかを。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)


May 1852008

 並木座を出てみる虹のうすれ際

                           能村登四郎

語は虹。どの季節にも見られる現象ですが、光、太陽、雨上がり、噴水などが似合う季節は、やはり夏なのでしょう。この句に惹かれたのは「虹のうすれ際」という、静かであざやかな描写よりもむしろ、「並木座」の一語のためでした。あくまでも個人的な読み方になってしまいますが、銀座にあったこの名画座に、わたしは若い頃、足しげく通ったものでした。特に大学生の頃には、キャンパスは時折バリケード封鎖され、休講も多く、ありあまる時間に少ないお金で過ごせる場所といったら、図書館と名画座しかありませんでした。一日中映画館の古い椅子に沈みこむように座って、どこか投げやりな気分に酔いながら、当時の映画をうっとりと見ていたものでした。「八月の濡れた砂」も「初恋地獄篇」も「旅の重さ」も、この映画館で見たのだと思います。最前列の席からは、足を伸ばせば舞台に届いてしまうような、小さな映画館でした。ある日には、映画の帰りに、階段を上がったところの事務室の中に、毛皮のコートを着た秋吉久美子の姿を見て、胸が震えたこともありました。わたしはたいてい夜まで映画を繰り返し見ていましたが、この句の人は、まだ陽のあるうちに並木座を出てきたようです。暗いところに慣らされた目がまぶしく見た銀座の空に、虹がかかっていたのです。虚構の世界が現実にさらされて少しずつ日常に戻って行く。その変化を虹のうすれ際に照らして読むことには、無理があるでしょうか。『角川 俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 21112008

 数へ日や数へなほして誤たず

                           能村登四郎

句が老年の芸だという説に一理ありと思うときはこういう句を見たとき。年も押し詰まったころ、残りの日々を数える。そんな句は山ほどある。そもそもそれが季語の本意だから。だが、「誤たず」(あやまたず)はほんとうに老年でないと出てこない表現だろう。花鳥諷詠を肯定する若い人の句で一番疑問に思うのは、素材のみならず感受性も老齢のそれに合わせていると思うとき。例えば「煤逃げ」とか「女正月」とかの季語をいかにもそれらしい情緒で四十、五十の人が詠うときだ。ナイトシアターで洋画の社会派サスペンスなんか観てる「自分」が、俳句を詠む段になるといきなり水戸黄門やありきたりのホームドラマや青春ドラマの情緒設定を描く。自分が観ても、感動もしない情緒を「俳句」となると肯定してしまうその神経がわからない。この句、「誤たず」には真実がある。同時代的と言っていいかどうか。「自分」の感性と、生きている時間の関わりに嘘がない。『芒種』(1999)所収。(今井 聖)


November 30112010

 鉄筆をしびれて放す冬の暮

                           能村登四郎

写版の俗称であるガリ版の名は、鉄筆が原紙をこするときにたてる音からきているというが、この名に郷愁を覚える世代も40代以上になるだろうか。鉄筆は謄写版に使用する先端が鉄製のペンである。用紙には薄紙にパラフィンなどが塗ってあるロウ紙を用い、鉄筆で文字を書くと塗料が削られることで、インクが収まる溝ができる。ちょっとした彫刻にも似て、指先にかかる筆圧はおしなべて均等でなければならず、ペンで書く場合とは大きく異る。学校のテストやお知らせ、文集などに活躍したが、コピー機やパソコンという技術にあっという間にその座は奪われた。テスト以外では、生徒を数人呼んで時折手伝わせることもあり、職員室に満ちるかりかりという乾いた音のなかに入ることはほこらしくもあった。子どもにとっては、慣れない文具はどれも新鮮で、間違ったときの修正液のマニキュアのようなボトルを使うとき、なんだかとっても大人になったような気がしたものだ。あっという間に暗くなる冬の日に、先生たちは学生の姿が消えた放課後の運動場を眺めながら、疲れた腕を伸ばすのだろう。鉄筆から生まれた文字は、読みにくい字であれ、きれいな字であれ、どれも先生の匂いがするようなぬくもりがあった。『能村登四郎全句集』(2010)所収。(土肥あき子)


December 12122010

 あたためて何包みたき掌か

                           能村登四郎

識してそうしたわけではないのですが、これまでの選句を見直してみれば、わたしはすでにいくつも能村さんの句をここにとりあげてきました。それはもちろん、句の見事さによるものですが、それだけではなく、もっと手前の、ものの見方や感じ方のところで、すでに能村さんに捕らえられてしまっているのかもしれません。今日の句も、ああいいなという感想をまず持ちます。でも、ああいいなというのは、描かれた掌の優しさによるものなのか、このような句を詠むことのできる作者のあたたかさのためなのか、判然としません。火鉢か、あるいは焚き火にでも手を広げてあたためているのでしょう。あたたまった手のひらを、自分のためだけではなく、何かを包んであげたいという思いへ広げてゆく。そんな思考の向き方に、読者はもう十分に温まってしまいます。『鑑賞歳時記 第四巻 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


November 30112012

 寒雀瓦斯の火ひとつひとつ點きぬ

                           能村登四郎

四郎31歳の時の句。大学を卒業後昭和14年28歳で「馬酔木」に投句。それから三年後の作品で「寒雷」にも投句していたことがわかる。「寒雷集」二句欄、もう一句は「卒業期もつとも遠き雲の朱」。両方とも若き教師としての生活がうかがわれる作品である。同じ二句欄に森澄雄の名前もある。澄雄の方は「寒天の松暮れてより夕焼くる」「かんがふる頬杖の手のかぢかみて」。ふたりともすでに生涯の傾向の萌芽が明らか。太平洋戦争開戦から三ヶ月。緒戦の勝った勝ったの熱狂の中でこのような素朴な生活感に眼を遣った句が詠まれていたことに瞠目する。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)


May 2152015

 シャツ干して五月は若い崖の艶

                           能村登四郎

子兜太のよく知られた句に「果樹園がシャツ一枚の俺の孤島」がある。揚句の「シャツ」もそうだけど、今の模様入りのカラフルなシャツではなく、薄い綿のランニングといった下着のシャツだろう。張り切った肉体の厚みをはっきりと浮き立たせるシャツは若い男性の色気を感じさせる。爽やかな風にたなびくシャツ、「若い」は五月と崖の艶、双方を形容するのだろう。なまなましい岩肌を露出させた崖の艶はシャツの持ち主である若者の張りきった肌をほうふつとさせる。若葉の萌え出る五月、美しく花の咲き乱れる五月はやはり生命感あふれる若者のものなのだろう。『能村登四郎句集 定本枯野の沖』(1996)所収。(三宅やよい)


December 22122015

 冬至といふ底抜けに明るい日

                           能村登四郎

至とは一年のなかで太陽が最も南に寄るため、北半球では昼が一番短い日となる。偉大な太陽の力が脆弱となるため、さまざまな国で厄よけや滋養に力を尽くす風習が残る。日本でも江戸の銭湯が考案したという柚子湯や、長期保存が可能な南瓜や小豆を食べて風邪をひかないように工夫した。しかし、昼が短いとはいえ、この時期は冬型の気圧配置となり、太平洋側ではよく晴れる日が多い。澄んだ冬の空気が万象の輪郭を際立たせる様子を華美な表現を用いず、「底抜け」と直截に言い切ったことで、いっそう明朗な景色が描かれた。『幻山水』(1972)所収。(土肥あき子)




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