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August 2881996

 秋雨の新居はじめて電話鳴る

                           皆吉 司

居へのはじめての電話だというのだから、まだ部屋がきちんと片付いていない状態である。とりあえずは外部との連絡のために、電話機のジャックだけはつないでおいた。電話機は、まだ所を得ず畳の上だ。外はあいにくの雨だから、戸外のあれこれは、今日はできない。室内で荷物を整理しているうちに、電話機は衣類の下に埋もれてしまったりする。そこへ電話のベルが鳴る。番号を知らせてあるのは、親戚や友人の数人だ。誰だろう。たいてい見当はついているのだが……。さりげないタッチで、引っ越し時の一場面をリアルにとらえているところは、さすがに皆吉爽雨の実孫だ。作者と面識はないけれど、また作者がどう思おうと、血は争えないと私は思う。たとえば、短歌における佐佐木幸綱(祖父は佐佐木信綱)の如し。『ヴェニスの靴』所収。(清水哲男)


July 1171997

 寝冷えして電話して来し男かな

                           皆吉 司

代的滑稽の世界。「そんなことで電話してくるなよ」と言いながらも、作者は微笑している。私は電話が苦手だから、とてもこんな電話はかけられないが(そのつもりにもならないが)、若い人にとっては格別どうということはないのだろう。そのうちに携帯電話の句も登場してくるにちがいない。いつも誰かと話していたい欲望はわからないでもないけれど、裏返せばそれは寂しさの簡便なごまかしに通じているのであって、あぶなっかしい処世の術に思える。あと五十年もすると、老齢人口が三分の一を占める時代になるそうだ。寝冷えした孤独な老人の電話を聞いてくれる商売が必要となる。『夏の窓』所収。(清水哲男)


November 21111997

 ベッド組み立てて十一月の雨

                           皆吉 司

集のあとがきを読むと、新居を構えて間もないころの作品だ。作者の家が放火で焼かれ、一年間ほどの仮住まいの後の新居である。注文しておいたベッドが届いたのは、あいにくの雨の日だ。それでも細目に窓を開けて、組み立てていく。ベッドの枠や脚のパイプも冷たいが、外の雨も冷たい。ようやく組み立て終ってみると、ベッドはにわかに暖かい雰囲気になる。雨はあいかわらず冷たそうに降っているけれど、部屋のなかにいる作者は逆に暖かい心持ちになっている。ささやかな仕事を終えた充実感に満たされている。このとき、作者は二十代前半。雨とベッドの対比も若々しい。『ヴェニスの靴』(1985)所収。(清水哲男)


September 2791999

 帆をあぐるごとく布団を干す秋日

                           皆吉 司

日(あきび・秋の日)は、秋の一日をさしていうときもあるが、ここでは秋の太陽である。秋の日は暮れやすいので、ちょっと慌ただしい感じで干した気分が、にわかの出帆に通じていると読んだ。でも、これは深読みで、もっと素直に受け取ったほうがよいのかもしれない。帆をあげるように干すとは、若い感覚だ。実際、作句時の作者は二十三歳。秋冬の布団は重いので、腰痛持ちの私などには畳をあげるような気分がする。とりあえず物干竿の上によっこらしょと布団を持ち上げておいて、フウッと一息ついてからおもむろに広げていくという始末。元来が短気だから、のろまな行為は許せないのだが、やむを得ない。腰痛の辛さには換えられない。しかりしこうして、これからの我が人生のテーマの一つは、どうやって短気とのろまの折り合いをつけていくのかということになっている。それはともかく、こういう句に接すると、にわかに布団を干したくなってくるから妙だ。完璧な生活実用句なり(笑)。さあ、今日のお勤め(本稿)は終了した。できるだけゆるりゆるりと(!)、布団を干すことにしよう。『ヴェニスの靴』(1985)所収。(清水哲男)


August 2682007

 くちばしがふと欲しくなり秋日和

                           皆吉 司

や多くの家が犬や猫を飼うペットブームですが、私が子供の頃には、家で飼っている生き物といえば、せいぜい金魚や小鳥でした。もちろん、それほどに心を通わせることはなく、生活する場の風景のようにして、そちらはそちらで勝手に生きているように思っていました。それでも、からの餌箱をつつくすがたに驚き、あわてて餌を買いに行ったことがありました。その必死な動作に、道すがら、申し訳なく感じたことを憶えています。くちばしを持つ動物はいろいろありますが、掲句を読んで思ったのは、当時飼っていた小鳥のことでした。止まり木の上で、薄いまぶたをじっと閉じている姿を見るのが好きでした。あるいは、首を、あごの中に差し込むようにして折り曲げる小さな姿にも、惹かれていました。人という動物は、言うまでもなくやわらかい口を持っています。どんな言葉も発することができ、どのような食物も取り込むことのできる、便利な形をしています。作者はなぜか、そんな口に違和感を持ったようです。ふと、堅い部位を顔の中央に突出させたくなったのでしょうか。しかしこの願望は、それほどに深刻なものではなく、穏やかな秋日和に、のんびりと見つめていた小鳥の姿から、思いついただけなのかもしれません。それでも、人が鋭いくちばしを持った姿は、ひどく悲しげに見えるのではないかと、思うのですが。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


October 06102013

 絵の中の時計も正午秋の蝉

                           皆吉 司

いうことは、現在は正午。絵の中の時計は、一日に真昼と真夜中に一回ずつ、正しい時刻と重なります。ということは、23時間58分は狂っているということで、朝起きて絵を見ても正午を指していて、夕食を食べている時間もずっと正午を指しているわけです。当たり前ですよね、絵なんだから。虚構なんだから、現実の世界に侵入してくるのは昼と夜の真ん中の一回ずつ、一分ずつが丁度よい。ところで、秋の蝉です。親が悪いのか、自分がとんまなのか、人生(蝉生?)最大の大遅刻です。今啼(な)いたって、たぶん、雌には逢えないじゃないですか。それとも、土の中にはもう還れないのだから、絵の中に入って来年の夏まで待ちますか?冗談です。絵の中で描かれた時計は、一日に二度の周期で現実と重なる。季節外れに羽化した蝉は、果たして、同様にとんまな雌に巡り逢い重なり合えるやら?人の世では似た者夫婦という言葉もあるので、甘い期待に賭けたいところですが、このてんまつやいかに。正午の今が、正念場だぞ、啼けよ、セミ。なお、掲句からしみじみ、自分も秋の蝉なのではないかと、ふと寂しく笑います。『皆吉司句集』(2000)所収。(小笠原高志)




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