August 291996
朝顔の好色たただよう朝の老人
原子公平
垣根に這わせた朝顔が、今朝も見事に咲いている。部屋着のままで表に出て、老人がいとおしげに眺めている。どこにでも、よくある平和な朝の光景だ。多くの人たちは微笑してその場を通過していく。だが、作者は違った。なんでもないそのシーンに、一瞬なにか生臭いものを感じてしまったのである。老人のいまの「男」のありどころを…。あるいはまた、その人の来し方の生々しい情欲のありようなども。人間は厄介だ。悲しい歌である。『良酔の歌』所収。(清水哲男)
August 281996
秋雨の新居はじめて電話鳴る
皆吉 司
新居へのはじめての電話だというのだから、まだ部屋がきちんと片付いていない状態である。とりあえずは外部との連絡のために、電話機のジャックだけはつないでおいた。電話機は、まだ所を得ず畳の上だ。外はあいにくの雨だから、戸外のあれこれは、今日はできない。室内で荷物を整理しているうちに、電話機は衣類の下に埋もれてしまったりする。そこへ電話のベルが鳴る。番号を知らせてあるのは、親戚や友人の数人だ。誰だろう。たいてい見当はついているのだが……。さりげないタッチで、引っ越し時の一場面をリアルにとらえているところは、さすがに皆吉爽雨の実孫だ。作者と面識はないけれど、また作者がどう思おうと、血は争えないと私は思う。たとえば、短歌における佐佐木幸綱(祖父は佐佐木信綱)の如し。『ヴェニスの靴』所収。(清水哲男)
August 271996
欠伸して鳴る頬骨や秋の風
内田百鬼園
無聊をかこつ男の顔が浮ぶ。作者は夏目漱石門下の異色、ユニークな随筆、小説で知られる。俳句は岡山六高在学中から始め、「夕焼けに馬光りゐる野分かな」など本格的な作品が多い。上掲作は「秋の風」が効果的。序でと言ってはなんだが、師漱石の秋風の句を一句、「秋風や屠られに行く牛の尻」。文豪夏目漱石が痔の手術で入院した時の作である(大串章) [編者の弁解]ついに出ました内田ヒャッケン。編者としては、内心この日を怖れていたのです。というのも、百鬼園の「鬼園」は、本当は門構えの中に「月」と表記しなければならないのですが、悲しいかな、私のワープロEGWORD 6.0には外字作成機能がありません。で、とりあえずこの表記としました。ヒャッケンが、ひところ実際に「百鬼園」と号していたこともありましたので。
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