1996N912句(前日までの二句を含む)

September 1291996

 大空の雲はちぎれて秋祭

                           前田普羅

月のこの国は、お祭りでいっぱい。毎日、日本のどこかで祭がある。なんの変哲もない句であるが、まっすぐに秋祭の気分をとらえていて、心に残る。敗戦直後の句であり、しかも富山在住の普羅が空襲で一切を失ったことを知る者にとっては、悲しいくらいに美しい詩心が感じられよう。以後、普羅は漂白の人となる。妻無く(昭和18年に死別)、子無し。といっても、映画「寅さん」の呑気な放浪とは違うのである。門人を頼っての苦しい「旅」の連続であったという。『雪山』(ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


September 1191996

 裏窓の裸醜し又美し

                           瀧 春一

のような句を読むと、季節に関わらず(もう秋だ)力を込めて紹介したくなる。路地裏の長屋の窓から見える老人の裸。パンツ一枚の姿のなんと醜く美しくあることか。ここに人の世の営みがあるのである。作者は秋桜子門。『花石榴』で蛇笏賞受賞。(井川博年)


September 1091996

 案山子たつれば群雀空にしづまらず

                           飯田蛇笏

っくき雀どもよ、来るなら来てみろ。ほとんど自分が案山子(かかし)になりきって、はったと天をにらんでいる図。まことに恰好がよろしい。風格がある。農家の子供だったので、私にも作者の気持ちはよくわかる。一方、清崎敏郎に「頼りなくあれど頼りの案山子かな」(『系譜』所収)という句がある。ここで蛇笏と敏郎は、ほぼ同じシチュエーションをうたっている。されど、この落差。才能の差ではない。俳句もまた人生の演出の場と捉えれば、その方法の差でしかないだろう。どちらが好ましいか。それは、読者が自らの人生に照らして決めることだ。『山盧集』所収。(清水哲男)




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