1996N923句(前日までの二句を含む)

September 2391996

 ひらきたる秋の扇の花鳥かな

                           後藤夜半

鳥は花鳥図。中国的な派手な図柄が多い。秋にしては暑い日、目の前の女性が扇をひらいた。見るともなく目にうつったのは、見事な花と鳥の絵。ただそれだけのこと。と、受け取りたいところだが、ちょっと違う。ポイントは、扇をひらいた女性が、その華麗な花鳥図の雰囲気にマッチしていないというところにある。「秋の扇」には「盛りを過ぎた女性」の意味もあるのだという。といって、作者が意地悪なのではない。抗うことのできない残酷な現実を哀しんでいるのだ。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)


September 2291996

 このひととすることもなき秋の暮

                           加藤郁乎

乎の句は油断がならない。なにしろ江戸俳諧の教養がぎっしりと詰まっていて、正対すると足をすくわれる危険性が大だからである。この句にも、芭蕉の有名な「道」の句が見え隠れしている。ところで、「このひと」とはどんな人なのか。女か、男か。なんだかよくわからないけれど、読み捨てにはできない魅力がある。男の読者は「女」と読み、女の読者は逆に読めば、それぞれに物語的興味がわくのではあるまいか。といっても、私は「このひと」を「男」と読んだ。「このひと」はたぶん気難しい年長者、おまけに下戸ときているので、酒好きの作者がもてあましている図。「することもない」のは当たり前だ。情緒もへったくれもない秋の夕暮。『秋の暮』所収。(清水哲男)


September 2191996

 蟲鳴きて海は暮るるにいとまあり

                           鷲谷七菜子

が国は海に取り巻かれている。したがって、海の句も多いわけだ。だが、この句の叙情性が日本人の誰にでもわかるかというと、そうはいかない気がする。この国は、一方で山の国でもあるからだ。山しか知らない人には、海の句はわからない。かくいう私も山の子だから、正直にいって、この作品の叙情の芯はわかりかねる。優れた句だと感じるのはまた別の理由からなので、この句を実感的にとらえられない自分がくやしい。いつの日か、秋の海辺を訪れることがあったら、この句を思いだすだろう。そしてそのときに、はじめてこの句に丸ごと出会えることになるのだろう。『黄炎』所収。(清水哲男)




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