September 251996
洪水のあとに色なき茄子かな
夏目漱石
茄子は「なすび」と読ませる。台風による出水で洗われたあとの野菜畑の情景。こんな茄子は、嫁にでも食わせるしかあるまい。というのは、選句者の冗談。この句、実は自画像なのである。明治四十三年九月二十三日の日記に「病後対鏡」とあり、この句が記されている。大病したあとに鏡で顔を見てみたら、まるで色を失った茄子のようではないか。いかにも漱石らしい不機嫌なユーモア。『漱石句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)
September 241996
虫の土手電池片手に駆けおりる
酒井弘司
このとき、作者は高校生。何のために必要な電池だったのか。とにかくすぐに必要だったので、そう近くはない電器店まで買いに行き、近道をしながら戻ってくる光景。川の土手ではいまを盛りと秋の虫が鳴いているのだが、そんなことよりも、はやくこの電池を使って何かを動かしたいという気持ちのほうがはやっている。作者と同世代の私には、この興奮ぶりがよくわかる。文字通りに豊かだった「自然」よりも、反自然的「人工」に憧れていた少年の心。この電池は、間違いなく単一型乾電池だ。いまでも懐中電灯に入れて使う大型だから、手に握っていれば、土手を駆けおりるスピードも早い、早い。『蝶の森』(1961)所収。(清水哲男)
September 231996
ひらきたる秋の扇の花鳥かな
後藤夜半
花鳥は花鳥図。中国的な派手な図柄が多い。秋にしては暑い日、目の前の女性が扇をひらいた。見るともなく目にうつったのは、見事な花と鳥の絵。ただそれだけのこと。と、受け取りたいところだが、ちょっと違う。ポイントは、扇をひらいた女性が、その華麗な花鳥図の雰囲気にマッチしていないというところにある。「秋の扇」には「盛りを過ぎた女性」の意味もあるのだという。といって、作者が意地悪なのではない。抗うことのできない残酷な現実を哀しんでいるのだ。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)
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