1996ソスN9ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2691996

 二の腕に声染みついて妊りぬ

                           春海敦子

性ならではの作品。男にはつくれない。発想らしきものも、絶対に浮かんではこないと思う。「妊りぬ」と、あるからではない。「声染みついて」がポイント。妊娠の句ならば、他にもいろいろとあるが、これほどに官能的な味わいを残しているものは見たことがない。悦楽の果ての現実を、いささか不良的な目で突き放してみせた力量は相当なものだ。ま、これ以上の野暮は言うまい。「お見事」の一語に尽きる。『む印俳句』所収。(清水哲男)


September 2591996

 洪水のあとに色なき茄子かな

                           夏目漱石

子は「なすび」と読ませる。台風による出水で洗われたあとの野菜畑の情景。こんな茄子は、嫁にでも食わせるしかあるまい。というのは、選句者の冗談。この句、実は自画像なのである。明治四十三年九月二十三日の日記に「病後対鏡」とあり、この句が記されている。大病したあとに鏡で顔を見てみたら、まるで色を失った茄子のようではないか。いかにも漱石らしい不機嫌なユーモア。『漱石句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


September 2491996

 虫の土手電池片手に駆けおりる

                           酒井弘司

のとき、作者は高校生。何のために必要な電池だったのか。とにかくすぐに必要だったので、そう近くはない電器店まで買いに行き、近道をしながら戻ってくる光景。川の土手ではいまを盛りと秋の虫が鳴いているのだが、そんなことよりも、はやくこの電池を使って何かを動かしたいという気持ちのほうがはやっている。作者と同世代の私には、この興奮ぶりがよくわかる。文字通りに豊かだった「自然」よりも、反自然的「人工」に憧れていた少年の心。この電池は、間違いなく単一型乾電池だ。いまでも懐中電灯に入れて使う大型だから、手に握っていれば、土手を駆けおりるスピードも早い、早い。『蝶の森』(1961)所収。(清水哲男)




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