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October 05101996

 龍天に昇りしあとの田螺かな

                           内田百鬼園

学が亡くなって二年になる。その通夜の席に刷りあがったばかりの佃の新詩集『ネワァーン・ネウェイン洗脳塔』(砂子屋書房)が届いたことを思い出す。佃の最初の詩集は昭和40年に刊行された『精神劇』(私家版)であるが、私の所持するそれには古い手紙が挟んであって、「やっとできた、という気持だ。売れない詩集作りの仲間入りということか云々……」と書いてある。そうか、佃学は売れない詩集を十二冊も作ったのか。ところで、この「龍天に」の一句は、『ネワァーン・ネウェイン洗脳塔』の"あとがき"に引用されている。佃学はこの句のことを「まことに大らかないい句だ」と言っている。その言葉に私は慰められる。佃よ!(大串章)

[編者註]佃学(つくだ・まなぶ)は1939年高松市生まれ。詩人。高松高校を経て1958年京都大学文学部入学。その春に農学部の宮本武士(大阪・北野高)の呼びかけに応じて、経済学部の大串章(佐賀・鹿島高)や文学部の清水哲男(東京・立川高)らとともに同人誌「青炎」に参加。初期は短歌もよくしたが、やがて詩作に専念。現役詩人では江森國友氏を尊敬していた。1994年秋分の日に没。享年55歳。上掲の句の「田螺(たにし)」はもとより春の季語であるが、大串君や私たち仲間にとっては秋になると思いだす季節を超えたそれでもある。


April 2942004

 田螺らよ汝を詠みにし茂吉死す

                           天野莫秋子

語は「田螺(たにし)」。春、田圃や沼などの水底を這い、田螺の道を作る。ちなみに、斎藤茂吉の命日は二月二十五日。「田螺ら」が、ようやく動きはじめようかという早春の候であった。そんな田螺たちに、いちはやく茂吉の訃報を届けてやっている作者の暖かさが伝わってくる。いや、こうして田螺たちに告げることで、「ついに亡くなられた」と自身に言い聞かせている作者の哀悼の気持ちが滲み出た句だ。告げられた眼前の田螺たちは、春まだ浅い冷たい水の底で、じっとして身じろぎもしなかったろう。茂吉の田螺の歌でよく知られているのは、『赤光』に収められた「とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるき水恋ひにけり」だ。「かりようびんが(迦陵頻伽)」とは雪山または極楽に住む人面の鳥で、田螺はそのかくし児だというのである。不思議な歌だが、何故か心に残る。田螺についての茂吉の言。「田螺は一見みすぼらしい注意を引かない動物であるが、それがまたこの動物の特徴であって、一種ローマンチックな、現代的でないような、ないしはユーモアを含んでいるような気のする動物である」。不思議な印象の田螺だから、かくのごとき不思議な想像歌が自然に飛びだしたと言うべきか。みすぼらしく見えてはいるが、実はとんでもない高貴の出なんだぞと世間に知らしめることで、田螺のために暖かい気を配ってやっている。掲句の作者は、間違いなくこの一首を踏まえて詠んだのだと思う。世の中には、そんな高貴の出自とも知らずに、平気で田螺を食ってしまうう人がいる(笑)。南無阿弥陀仏。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)(清水哲男)


March 2032005

 かたまり黙す農民の馬鹿田螺の馬鹿

                           安藤しげる

語は「田螺(たにし)」で春。田圃の隅っこのほうで、いくつもの田螺がのろのろと這っている。子供時代,そんな情景は何度も目にしたが,ノロ臭いなと思うくらいで格別興味を持ったことはない。食べられることも知らなかった。そんな田螺同様に,「農民」もまた「かたまり黙」していると言うのだ。この句からだけではわからないが、このとき(昭和三十年代前半)二十代の作者は鉄工として働いていた。「火蛾・鉄工生きる荒さを一つの灯に」。職場での組合活動にも熱心だったようだ。したがって「かたまり黙す農民」とは一見類型的な農民像のようだけれど、そうではないのである。双方同じ労働者ながら、組織労働者としての作者からすると、現実の諸矛盾にいっかな声をあげようとしない農民のありようには、とても歯痒いものがあったのだろう。その意識のなかでの「馬鹿」である。すなわち、労働者としての親愛の情と歯痒い思いとがないまぜになった「馬鹿」。まるで「田螺」みたいじゃないかと言いつつも,決して軽蔑したりコケにするための「馬鹿」ではないのだ。どこか呑気な田螺の姿を持ち込んだことで,作者の意図した「馬鹿」の中味とニュアンスが誤解なく伝わってくる。戦後の一時期の気分を代表した佳句と言ってよいだろう。戦後も六十年.労働者の姿も大きく変貌した。しかるがゆえにか、労働の現場から発する俳句も少なくなった。多くの人が,まるで働いていないかのような句ばかりを好んで詠んでいる。『胸に東風』(2005)所収。(清水哲男)


April 2742009

 酒好きのわれら田螺をみて育ち

                           館岡誠二

の肴としてよく出てくる「田螺(たにし)」を、私は食べられない。いや、食べない。理由は、句の男たちのように「田螺をみて」育ったからだ。育った土地に食べる風習がなかったこともあって、田螺は食べるものではなく、いつだって見るものだった。待ちかねた春を告げる生き物のひとつだった。冬眠から目覚めた田螺たちが、田んぼのなかで道を作るようにかすかに動いていく様子を眺めるのが好きだった。田螺が出てくる頃は、もうあたりはすっかり春で、田螺をみつめる時間には同時に日向ぼこの心地よさがあった。私ばかりではなく、昔の遊び仲間たちもよく屈みこむようにして飽かず眺めていたものである。そんなふうに、往時には道端などで何かを熱心にみつめて屈みこんでいる子供がいたものだったが……。句の男たちもそんなふうに育ってきて、いまやいっちょまえの酒飲みになっている。そんな彼らの前に、田螺が出てきたのだろう。が、誰も箸をつけようとはせず、田螺を見た子供時代の思い出を肴に飲んでいる図だ。この場に私がいたとすれば、「幼なじみを食うわけにはいかねえよ、なあ」とでも言ったところである。大人になってからの同級会を思い出した。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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