ホ子句

October 14101996

 つぶら目の瞠れるごとき栗届く

                           嶋崎茂子

歳くらいまでの子供と二十歳前後の女性を見られない人生はつまらない。そんな趣旨のことを、山田風太郎が先週の朝日新聞に書いていた。老人の素朴にして率直な物言いである。それこそ素直に納得できた。山田さんほどの年令ではないけれど、とりわけて最近の私は、子供の「つぶらな」瞳にひかれる。だから、この句は心にしみる。粒ぞろいの栗の輝きをこのように歌うことは、技巧だけではできない。そこに、生きとし生けるものへの素直な愛情がなければ、発想すら不可能だろう。なんでもないような作品であるが、こういう句こそが俳句を豊かにしてくれるのだ。加藤郁乎大人の口癖に習っていうと「嶋崎さん、書いてくださってありがとう」となるのである。なお「瞠れる」は「みはれる」と読む。為念。作者は大串章門。『沙羅』所収。(清水哲男)


June 0862010

 薔薇園の薔薇の醜態見てしまふ

                           嶋崎茂子

薇には愛や幸福という定番の花言葉のほかに、花の色や大きさによってそれぞれ意味を持っているらしい。小輪の白薔薇は「恋をするには若すぎる」、中輪の黄薔薇は「あなたには誠意がない」、大輪のピンクの薔薇にいたっては「赤ちゃんができました」といささか意味深長である。ユーモア小説で著名なドナルド・オグデン・ステュワートの『冠婚騒災入門』には「求婚」の項があり、「決して間違った花を贈らないよう」と書かれている。そこに並んだ花言葉、たとえば「サボテン:ひげを剃りに行く」「水仙:土曜日、地下鉄十四丁目駅で待つ」などはもちろんでたらめだが、この薔薇に付けられたてんでな花言葉を見ていると、あながち突飛な冗談とも言えないように思えてくる。これほどまで愛の象徴とされ、贈りものの定番となった薔薇の、整然と花びらが打ち重なる姿には、たしかに永遠の美が備わっているように見える。だからこそ満開を一日でも過ぎると、開ききった花によぎるくたびれが目についてしまうのだろう。美を認める感覚はまた、価値を比較する人間の必要以上に厳しい視線でもある。20代の頃に薔薇の花束をもらったその夜のうちに、ドライフラワーにするべくあっさり逆さ吊りにしたことがある。美しい姿をそのまま維持するにはこれが一番と聞いたからだ。半ば蕾みのままの状態でなんという残酷なことをしたのだろう、と40代のわたしは思うようになった。掲句の視線も、醜態という言葉のなかに、完璧から解放された薔薇への慈しみが見られ、40代半ばあたりの自然体の薔薇が浮かぶのだった。『ひたすら』(2010)所収。(土肥あき子)


April 1742015

 河原鶸天地返しの田に降りる

                           嶋崎茂子

原鶸は山林や田、河原などで群れをなしている雀に似た鳥で、飛ぶ時の鮮明な黄色で鶸だと分かる。双眼鏡で見るとピンクの太いくちばしと翼の太く黄色いしま模様が見える。見晴しのよい葦先にとまりキリキリ、コロロと鳴いたりジュイーンとさえずったりする。農事では厳寒期に土を氷雪にさらして病害虫を殺すために「天地返し」という作業がなされる。そんな労苦も終わった頃に春の兆しがやって来る。鶸の訪れもその一つである。今百羽にも及ぼうかという河原鶸の群れが一斉に大地に舞い降りてきた。春到来したり。その他<御慶いふ小さな町の小さな駅><夏草の匂ひいのちのにほひかな><冬鴎飛ぶといふこと繰り返す>などあり。『ひたすら』(2010年)所収。(藤嶋 務)




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