1996N1014句(前日までの二句を含む)

October 14101996

 つぶら目の瞠れるごとき栗届く

                           嶋崎茂子

歳くらいまでの子供と二十歳前後の女性を見られない人生はつまらない。そんな趣旨のことを、山田風太郎が先週の朝日新聞に書いていた。老人の素朴にして率直な物言いである。それこそ素直に納得できた。山田さんほどの年令ではないけれど、とりわけて最近の私は、子供の「つぶらな」瞳にひかれる。だから、この句は心にしみる。粒ぞろいの栗の輝きをこのように歌うことは、技巧だけではできない。そこに、生きとし生けるものへの素直な愛情がなければ、発想すら不可能だろう。なんでもないような作品であるが、こういう句こそが俳句を豊かにしてくれるのだ。加藤郁乎大人の口癖に習っていうと「嶋崎さん、書いてくださってありがとう」となるのである。なお「瞠れる」は「みはれる」と読む。為念。作者は大串章門。『沙羅』所収。(清水哲男)


October 13101996

 夏草やベースボールの人遠し

                           正岡子規

苦しい「夏草」の季節はとっくに終ったが、「ベースボール」の方は日に日にアツくなるばかりで、巨人かオリックスかとかまびすしい限りだ。子規は俳人歌人の中では最初の野球狂ともいうべき人物で、明治二十年には「ベースボール程愉快にてみちたる戦争は他になかるべし」(「筆まかせ」)などと書いている。子規が「ベースボール」を「野球」と翻訳したというのは誤伝だが、野球に熱心で各ポジションの名称を翻訳したのは事実だ。子規の訳語中、打者(バッター)や四球(フォアボール)は今も生きているが、攫者(かくしゃ・キャッチャー)や本基(ほんき・ホームペース)はアウトということになる。(大串章)


October 12101996

 夕焼や新宿の街棒立ちに

                           奥坂まや

和62年(1987)の作。新宿西口高層ビル街の夕景である。この句を読んで瞬間的に思ったのは「作者はあまり新宿になじみがないな」ということだった。私のような「新宿小僧」にいわせれば、新宿は棒立ちになるような街ではない。第一、高層ビルだなんて、新宿には似合わないのである。私自身、高層ビルのひとつKDDビルの34階で数年仕事をしていたけれど、一度もそこを新宿だと感じたことはなかった。このことは、もちろん句の良し悪しに関係はないのだけれど、なんだか私にはくやしいような作品ではある。そういえば、戦前の流行歌の一節に「変る新宿あの武蔵野の月もデパートの屋根に出る」とかなんとか、そんな文句があった。この歌を書いた人ならば、きっとこの句を歓迎するだろう。『列柱』所収。(清水哲男)




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