1996N1016句(前日までの二句を含む)

October 16101996

 乳母車むかし軋みぬ秋かぜに

                           島 将五

の作者にしては、珍しく感傷的な句だ。乳母車の詩といえば、なんといっても三好達治の「母よ……/淡くかなしきもののふるなり」ではじまる作品が有名だが、この句もまた母を恋うる歌だろう。むかし母が押してくれた乳母車の軋み。それが秋風の中でふとよみがえってきた。六十代後半の男の、この手放しのセンチメンタリズムに、私は深く胸うたれる。母よ……。『萍水』所収。(清水哲男)


October 15101996

 秋の灯のテールランプが地に満てり

                           阿波野青畝

畝は関西の人だから、ここは大阪の繁華街か、それとも神戸か西宮の街か。夜ともなると、道路は仕事がえりの車や客待ちのタクシーなどでごった返す。降り続いていた雨も、ようやくあがった。雨に洗われた夜気のなか、そうした車のテールランプが道路の水たまりにも反射して、ことのほかぎっしりと目に鮮やかだ。立ち止って見つめるという光景ではないが、まぎれもなく現代人に共通の情が述べられている。さりげなく、しかし鋭い感覚に感嘆させられる。『甲子園』所収。(清水哲男)


October 14101996

 つぶら目の瞠れるごとき栗届く

                           嶋崎茂子

歳くらいまでの子供と二十歳前後の女性を見られない人生はつまらない。そんな趣旨のことを、山田風太郎が先週の朝日新聞に書いていた。老人の素朴にして率直な物言いである。それこそ素直に納得できた。山田さんほどの年令ではないけれど、とりわけて最近の私は、子供の「つぶらな」瞳にひかれる。だから、この句は心にしみる。粒ぞろいの栗の輝きをこのように歌うことは、技巧だけではできない。そこに、生きとし生けるものへの素直な愛情がなければ、発想すら不可能だろう。なんでもないような作品であるが、こういう句こそが俳句を豊かにしてくれるのだ。加藤郁乎大人の口癖に習っていうと「嶋崎さん、書いてくださってありがとう」となるのである。なお「瞠れる」は「みはれる」と読む。為念。作者は大串章門。『沙羅』所収。(清水哲男)




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