Oq句

October 21101996

 風の輪を見せて落葉の舞ひにけり

                           加藤三七子

日は萩原朔太郎賞(受賞者・辻征夫)贈呈式に出席のため、井川博年、八木幹夫と前橋へ。駅に降りたら、猛烈な風。コンタクトの私などは、ほとんど目があけていられないほど。さすがに上州の風である。それでも、三人で前橋名物の「ソースかつ丼」を食べようと、駅前広場を歩きはじめた途端に、この句そっくりの風に巻き込まれた。結局、探し当てた店は休みでがっかり。もはや初冬の感が深い前橋での一日だった。(清水哲男)


July 1072001

 籐椅子の家族のごとく古びけり

                           加藤三七子

具店に陳列してある「籐椅子(とういす)」は別にして、私などのこの椅子のイメージは、いつも「古び」ている。旅先での宿に置いてあったりするが、坐るとぐにゃりと曲がったり、よく見ると織り込んである籐の茎があちこち切れていたりする。一種のぜいたく品だから、そうそう買い替えるわけにもいかないのだろう。ましてや、普通の家庭では買うこともままならない。というよりも、買おうという発想すら浮かばない。したがって、私が掲句から得たいちばんのものは、句には書かれていないところである。すなわち「籐椅子」を日常の家具として使えるような、作者の家の暮しぶりへと自然に関心が行ってしまった。その上での「家族のごとく」なのだからして、私の知る数少ない良家の「家族」のありように思いをめぐらし、なんとなくでしかないが、この比喩に納得できたような気はする。静かに「古び」ていく家族の一人として、作者は「籐椅子」に腰かけながら、この椅子が新しかったころの家の活気を回想しているのだと想像した。もう、あの元気な「家族」との楽しかりし日々は戻ってこないのである。もっとも、これは私の思い過ごしで「籐椅子にさまで哀しきはなしにあらず」(高橋潤)なのかもしれないが……。『萬華鏡』(1975)所収。(清水哲男)


April 1842004

 狐雨海市を見んと旅にあり

                           加藤三七子

語は「海市(かいし)」で春。蜃気楼(しんきろう)の別称だ。「海市」は、遠方の街が海上に浮き上がって見えることからの命名だろう。残念ながら、私はまだ見たことがない。日本では、富山県魚津海岸あたりが名所として知られている。「蜃気楼は、大気中の温度差(=密度差)によって光が屈折を起こし、遠方の風景などが伸びたり反転した虚像が現れる現象です。よく、「どこの風景が映るの?」という質問を受けますが、実際にそこに見えている風景が上下に変形するだけで、ある風景がまったく別の方向に投影されるわけではありません」(石須秀知・魚津埋没林博物館学芸員)。ちなみに、夏のアスファルト路でも起きる「逃げ水」現象も、蜃気楼の小型版である。と、原理を知ってしまうと興醒めだけれど、実際に見ればやはり不思議な気持ちになるだろう。そういうときには昔から「狐につままれたようだ」と言い習わすが、掲句はそんな慣用語を意識しての作ではなかろうか。蜃気楼を見に行くための旅の途中で、雨が降ってきた。普通の雨ならがっかりもしようが、いわゆる「狐雨」である。「狐の嫁入り」とも言う。日が射しているのに、雨が降っている。したがって、たいした雨じゃない。この分なら、天気は大丈夫、ちゃんと蜃気楼は見られそうだ。作者はほっと安堵している。そして、その安堵した気持ちの余裕のなかで、微苦笑したのである。選りにもよって、こんなときに「狐雨」に会うとは……。蜃気楼を見る前なのに、もう騙されかけているのかもしれない。金子兜太『中年からの俳句人生塾』(2004)にて初見。(清水哲男)




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