1996N122句(前日までの二句を含む)

December 02121996

 手から手へあやとりの川しぐれつつ

                           澁谷 道

やとり遊びの「川」は、基本形である。いくつかのバリエーションがあって、どんな形からも簡単に「川」に戻すことができる。で、困ったときには「川」に戻して相手の出方を待つ。そうすると、相手もまた違う「川」をつくって「どうぞ」という。将棋の千日手みたいになってしまうことが、よく起きる。そのようなやりとりに、作者は時雨を感じたというのである。女の子の他愛無い遊びに過ぎないけれど、そこに俳人は女性に特有の運命を洞察しているとも読める。『素馨』所収。ちなみに「素馨(そけい)」は、ジャスミンの一種。(清水哲男)


December 01121996

 駅時計の真下にゐたり十二月

                           北野平八

段であれば、そんなところにいるはずもないのに、気がついたらそんなところにいたという図。駅舎での待ち合わせだろう。何か、追い立てられるような気持ちで人を待っている。そのうちに苛々してきて、構内をうろうろしているうちに、ふと見上げると真上に大時計。知らぬ間に駅舎の真ん中に立っていたというわけだ。せわしない師走ならではの振るまいである。さりげない光景だが、この季節、誰にでも納得できそうな句。『北野平八句集』所収。(清水哲男)


November 30111996

 あたゝかき十一月もすみにけり

                           中村草田男

版の角川書店編『俳句歳時記』には、この句と並んで細見綾子の「峠見ゆ十一月のむなしさに」が載っている。長年親しんできた歳時記だから、毎年この時期になると、二つの句をセットで思いだすことになる。並んでいるのは偶然だが、いずれもが、十一月という中途半端で地味な月に見事な輪郭を与えていて、忘れられないのだ。忙中閑あり。……ならぬ、年の瀬をひかえて「忙前閑あり」といえば当たり前だが、両句ともそんな当たり前をすらりと表現していて、しかもよい味を出している。ただ草田男句の場合は、どちらかといえば玄人受けのする作品かもしれない。(清水哲男)




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