December 051996
たしかに四個霧夜武器売る会議の灯
五十嵐研三
この句は、金子兜太『現代俳句鑑賞』(飯塚書店)で知った。なにやらスパイ小説めいた雰囲気のある作品で、俳句にしては珍しい題材をよんでいる。同書での兜太の弁。「詩の場合、とくに韻文で書く場合はなにかの感じを伝えればいいわけだね。それにリアリティがあればいいんだ。この句にはリアリティがあると思う。現実感がね、不気味さに、嫌らしさに。その中心は『たしかに四個』だ。……」。ちょっとした現実の光景を想像力で変形した作品といえるが、たしかに私にも奇妙なリアリティが感じられる。「これが俳句か」ということになると、たぶん議論は大きく別れるだろうけれど。(清水哲男)
September 142008
うらがえすやもう一つある秋刀魚の眼
五十嵐研三
つい先日も、夕食のテーブルの上に、ちょこんと載っていました。勤めから帰って、思わず「サンマか」と、口から出てきました。特段珍しいものではありませんが、箸をつけて口に入れた途端、そのおいしさに素直に驚いてしまいました。掲句、「うらがえすや」とあるのですから、片面を食べ終わって箸で裏返したところを詠っています。眼がもう一つあると、わざわざ言っているからといって、秋刀魚の眼を意識しながら食べていたわけでもないのでしょう。それほどに威圧的に見つめられているわけでもなく、眼のある位置に眼があるのだと、あたりまえの感慨であったのかと思います。とはいうものの、秋刀魚を食べている時に、眼がもう片方にもあるのだとは、通常は考えないのですから、ここに文芸作品としての発見があるのは言うまでもありません。ただ、そんなことはことさらに書くことでもないのです。その、ことさらでないところが、秋刀魚という魚のもっている特長とちょうどよくつりあっており、この句は、日々の生活に添うように、不思議な安心感を与えてくれるのです。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)
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