1996ソスN12ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 14121996

 寒夜や棚にこたゆる臼の音

                           探 志

夜(かんや)は「さむきよ」と読ませたいところ。柴田宵曲著『古句を観る』(岩波文庫)で見つけた。芭蕉と同時代の「有名でない俳人のできるだけ有名でない句ばかり集めた」という珍本である。この句については、次のように書いてある。「隣が搗屋(つきや)でその臼の響がこたえるのだとすれば、小言幸兵衛そっくりだが、そう限定する必要はない。臼はどこの臼で、何を搗くのでも構わぬ。ただずしりずしりという響が棚にこたえて、棚の上に置いてあるものがその振動を感ずる。もしこれが『壁をへだつる臼の音』とでもあったら、臼の所在は明になるけれども、句そのものの働きは単純になって来る。臼の音を臼の音で終らしめず、棚にこたえる点に着眼したのがこの句の特色である」……と。もうひとつ、私などには元禄期庶民の住宅環境がわかって、そちらの証言としても興味深いものがある。とはいえ、いまどきの西洋長屋の室内で餅を搗いたとしたら、もっとひどいことになるでしょうけれど。(清水哲男)


December 13121996

 クリスマスカード消印までも讀む

                           後藤夜半

半、晩年の句。外国にいる知人から届いたカードだろう。クリスマスカード自体も珍しかったころだから、感に入って、消印までを読んでしまったのだ。しかし夜半ならずとも、またクリスマスのメッセージならずとも、誰しもがたまさかの外国からの便りに接すると、消印までを読みたくなるのではなかろうか。消印の日付などから、出してくれた相手の心配りのありがたさを読み取るのである。『底紅』所収。(清水哲男)


December 12121996

 踊り子と終の電車の十二月

                           清水基吉

電車に乗っているのだから、踊り子といっても、場末のキャバレーあたりで踊っている女だろうか。一見派手な身なりだが、いかにもくたびれた風情が、十二月のあわただしさ、わびしさの暗喩のようにも見えてくる。このとき、もとより作者自身も、うらぶれた心持ちにあるのだろう。その他大勢の人々の、なにやら切ない感情を乗せて、終電車は歳末の闇の中を走りつづける……。戦後間もなくの日本映画の一場面のようだ。『宿命』所収。(清水哲男)




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