January 021997
年賀やめて小さくなりて籠りをり
加藤楸邨
名句とは必ずしも言えないであろう。一行が屹立する句でもない。私は夏場にこの句を読んだのだが、やけに後をひく句である。楸邨の晩年は知らない。そして、楸邨を貶めるためにこの句を引いているのではない。楸邨は現代俳句の巨人でもあり、実際の体格は知らないが、少なくとも精神的には大男であったように思える。最後まで弟子にかこまれての晩年であったような気もする。すくなくとも弟子はそうしたいと思ったであろう。いずれにしてもこの句はだれにも確実に来る老年のある風景をたんたんと影絵のように表現している。同じ句集に「二人して(たら)の芽摘みし覚えあり」(春日部・ここに赴任、ここに結婚)と亡き知世子夫人への静かな恋の句もあり、私小説的な読み方だが、泣けてくるのである。『望岳』所収。(佐々木敏光)
January 072015
役者あきらめし人よりの年賀かな
中村伸郎
根っから芝居がたまらなく好きで堅実に役者をめざす人、ステージでライトに照らし出される華やかな夢を見て役者を志す人、他人にそそのかされて役者をめざすことになった人……さまざまであろう。夢はすばらしい。大いに夢見るがよかろう。しかし、いっぱしの役者になるには、天分も努力も必要だが、運不運も大いに左右する。幸運なめぐり合わせもあって、役者として大成する人。ちょいとした不運がからんで、思うように夢が叶わない人。今はすっぱり役者をあきらめて、別の生き方をしている人も多いだろう。(そういう人を、私も第三者として少なからず見てきた)同期でニューフェイスとしてデビューしても、一方は脱落して行くという辛いケースもある。長い目で見ると、そのほうが良かったというケースもあるだろうし、その逆もある。このことは役者に限ったことではない。「役者をあきらめし人」の年賀をもらっての想いは、今は役者としての苦労もしている身には複雑な想いが去来するのであろう。親しかった人ならば一層のこと。そういう感懐に静かに浸らせてくれるのが年賀であり、年頭のひと時である。虚子の句に「各々の年を取りたる年賀かな」がある。平井照敏編『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)
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