1997ソスN1ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0211997

 年賀やめて小さくなりて籠りをり

                           加藤楸邨

句とは必ずしも言えないであろう。一行が屹立する句でもない。私は夏場にこの句を読んだのだが、やけに後をひく句である。楸邨の晩年は知らない。そして、楸邨を貶めるためにこの句を引いているのではない。楸邨は現代俳句の巨人でもあり、実際の体格は知らないが、少なくとも精神的には大男であったように思える。最後まで弟子にかこまれての晩年であったような気もする。すくなくとも弟子はそうしたいと思ったであろう。いずれにしてもこの句はだれにも確実に来る老年のある風景をたんたんと影絵のように表現している。同じ句集に「二人して(たら)の芽摘みし覚えあり」(春日部・ここに赴任、ここに結婚)と亡き知世子夫人への静かな恋の句もあり、私小説的な読み方だが、泣けてくるのである。『望岳』所収。(佐々木敏光)


January 0111997

 利根川に引火するごと初茜

                           黒沢 清

茜は、初日の昇る直前の赤くなった東の空の色のこと。その茜色が、利根川の流れに引火しそうに鮮やかだというのである。元日の句にはおさまりかえった人事的なものが多いなかで、この句は荒々しい自然の息吹きを見事にとらえていて、出色である。多摩川でもなければ隅田川でもない。利根川の、いわば「生理」を描いているのだ。今年の元朝の利根川も、こんな様子だったのだろうか。(清水哲男)


December 31121996

 行く年やわれにもひとり女弟子

                           富田木歩

は、大晦日に師の家に挨拶に行く風習があった。正岡子規の「漱石が来て虚子が来て大三十日」の句は、つとに有名だ。まことにもって豪華メンバーである。そこへいくと木歩の客は地味な女人だ。が、生涯歩くことができなかった彼の境遇を思うと、人間味の濃さの表出では、とうてい子規句の及ぶところではない。たったひとりの女弟子のこの律儀に、読者としても、思わずも「ありがとう」と言いたくなるではないか。(清水哲男)




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