January 061997
仕事始とて人に会ふばかりなり
大橋越央子
本格的に仕事をはじめる会社もなくはないが、仕事始とは名ばかりのところが多い。職場での挨拶からはじまって、後は得意先まわりなど、この句のように過ごす人が大半だろう。そんな「人に会う仕事」も明るいうちに終わってしまい、のんびりとした時間が残される。それが証拠に、午後のビヤレストランなどは満杯である。(清水哲男)
January 042002
初仕事コンクリートを叩き割り
辻田克巳
季語は「初仕事(仕事始)」で、まだ松の内だから新年の部に分類する。建設のための破壊ではあるが、まずは「コンクリートを叩き割る」のが仕事始めとは、一読大いに気持ちがすっきりした。たぶん「叩き割」っているのは作者ではなく、たまたま見かけた光景か、あるいはまったくの想像によるものか。いずれにしても、作者には何か鬱積した気持ちがあって、そんなこんなを力いっぱい「叩き割」りたい思いを、掲句に託したのだと思う。考えてみれば、誰にはばかることなく、何かを白昼堂々と物理的に「叩き割」れるのは、一部の職業の人にかぎられる。大木を伐り倒すような仕事も、同様の職業ジャンルに入るだろう。「叩き割る」や「伐り倒す」どころか、たとえば人前で大声を発することすら、ほとんどの人にはできない相談なのだ。したがって「叩き割る」当人の思いがどうであれ、この句に爽快感を覚えるのは、そうした私たちの日頃の鬱屈感に根ざしている。そういえば、私が最後に何かを叩き割ったのは、いつごろのことだったか。中学一年の教室での喧嘩で、友人の大切にしていたグラブにつける油の瓶を叩き割ったのが、おそらくは最後だろう。以来、コップ一つ叩き割らない日々が、もう半世紀近くもつづいている……。『新日本大歳時記・新年』(2000・講談社)所載。(清水哲男)
January 052004
皴のない黒カーボン紙事務始
河原芦月
そういえば、こんな時代が長かった。現在のようなコピー機がなかったころには、複写のためには「カーボン紙」を何枚か白紙の間に挟み、筆圧をかけて文字などを書いていくしかなかった。使っていくうちに、だんだん複写の鮮明度が落ちてくる。それでも経費節減で、皴だらけになっても、すり切れる寸前まで大切に使ったものだ。さて、今日は新年の「事務始(仕事始)」。作者は皴ひとつない真新しいカーボン紙を広げて、清々しい気持ちになっている。事務職の現場の人でないと、カーボン紙に初春の喜びを感じる気持ちはわかるまい。あれはしかし、手が汚れて、取り扱いが厄介だった。このカーボン紙を職場から追放するきっかけになったのは、1955年(昭和30年)に登場したジアゾ感光紙だ。複写したい原稿を重ねて、上から光を当てると原稿の文字や図形で光が遮られ、複写できるというもの。その後は現在の電子写真複写機が普及し、さらにはパソコンの導入もあって、カーボン紙はすっかり姿を消してしまった。ただし、ノーカーボン紙というかたちでは生き残っている。「ノー」とうたってはいるけれど、複写の原理としては昔のカーボン紙と変わらないものだ。さらに生き残りの影を探せば、パソコンのメーラーの宛先欄に「CC」という項目がある。同一のメールを何人かに送るときに便利だが、あれが「Carbon Copy」の略であることを知らない人は結構多い。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
January 052009
仕事始のスイッチ祷るが如く入る
啄 光影
仕事始め。この不況下だから、今日から通常業務とする会社が多いかもしれない。私が二十代のサラリーマンだった頃は、ずいぶん暢気なものだった。定時までに出勤はするが、朝一番に社長の年頭の挨拶があり、終わると酒が出た。仕事熱心な者は、それでもあちこちに新年の挨拶の電話をかけたり、年始回りをやったりしていたけれど、たいがいは飲みながらの雑談に興じたものだった。あとは三々五々と流れ解散である。なかにはこの状態を見越して計画的に欠勤する人もいたくらいだ。平井照敏によれば、昔は大工は鉋だけ研ぎ、農家は藁一束だけ打ち、きこりは鋸の目立てだけしたそうである。掲句はいつごろの句か知らないが、昔の句だとすると、工場の機械の点検だけの「仕事始め」と受け取れる。日頃調子の良くない機械なのだろう。明日からの本格的な仕事に備えて、正月明けくらいはちゃんと動いてくれよと、祷(いの)るような思いでスイッチを入れている図だ。そしておそらく、試運転は成功だった。安堵した作者の顔が見えるようだ。今日は、同じような思いで会社のパソコンのスイッチを入れる人も、きっといるはずである。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)
January 072010
生きてゐる仕事始めの静電気
守屋明俊
のんべんだらりと過ごした三が日を終えて、仕事が始まった。仕事納めの日から数えれば一週間しか経っていないのに昨年というだけで遠い距離が感じられる。正月休みというのは他の休みと違ってぽかっと大きな穴に落ち込んだような、浦島太郎のような心持ちになってしまう。ビルのエスカレーターを上がりやれやれとドアノブに手を触れた瞬間びりり、と軽い衝撃が伝わる。乾燥したこの季節に多い現象だけど、のびきった気持ちに喝を入れて仕事モードに切り替えよと言われているようだ。上五の「生きてゐる」の措辞は話し言葉にすれば「生きてるぅ??」と静電気に呼びかけられる感じだろうか。指に来た刺激が休みボケをたたき起こすようでなんとなくおかしい。「鏡餅テレビ薄くて乗せられず」「何たる幸グラタンに牡蠣八つとは」など日常の出来事が豊かな諧謔で彩られていて、おとなの味わいを感じさせる。『日暮れ鳥』(2009)所収。(三宅やよい)
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