January 091997
一月や裸身に竹の匂ひして
和田耕三郎
女性の裸身ではない。「一月」に「竹」とくれば、もうどう考えたって(考えなくとも)男の裸体に決まっている。たとえば、真新しいふんどしをきりりと締め上げた「竹を割ったような」気性の男気が連想されよう。その裸身から竹のような匂いが立つというのだから、他人の裸体ではなく、自分自身の裸だ。おのれの若い肉体の勢いに、半ばうっとりしているのである。俗にいうナルシシズムを、きわめて抑制したかたちで表現したところに、この句の華がある。女性の読者にとっても、少なくとも気持ち悪くはないはずである。『水瓶座』所収。(清水哲男)
September 032004
よく晴れて秋刀魚喰ひたくなりにけり
和田耕三郎
秋刀魚の句というと、たいていはじゅうじゅう焼いている場面のものが多いなかで、こうした句は珍しい。ありそうで、無い。「よく晴れて」天高しの某日、体調もすこぶる良好。むらむらっと秋刀魚が「喰ひたく」なったと言うのである。この句を読んだ途端に、私もむらむらっと来た。句に添えて、作者は「晴れた日は焼いた秋刀魚を、雨の日は煮たものが食べたい」と書いているが、その通りだ。料理にも威勢があって、とくに威勢のよい焼き秋刀魚などは、威勢良く晴れた日に食べるのがいちばん似合う。秋刀魚は昔ながらの七輪で焼くのがベストだけれど、我が家には無いので、仕方なく煙の漏れない魚焼き器で焼いている。これはすこぶる威勢に欠けるから、そう言っては何だけど、どうも今ひとつ美味くないような気がする。食べ物に、気分の問題は大きいのだ。秋刀魚で思い出したが、学生時代の京都にその名も「さんま食堂」という定食屋があった。メニューは、ドンブリ飯に焼いた秋刀魚と味噌汁と漬け物の一種類のみ。一年中、いつ行ってもこれ一つきりで、毎日ではさすがに飽きるが、よく出かけたものだ。旬のこの季節になると、やはり相当待たされるくらいに繁盛していたけれど、あの店はどうなったかしらん。むろん、厨房にはいつも威勢良く煙が上がっていた。「俳句」(2004年9月号)所載。(清水哲男)
November 132007
靴と靴叩いて冬の空青し
和田耕三郎
冬の空はどこまでも青い。右足と左足の靴を両手に持って、ぽんと叩いて泥を落とす。この日常のなにげない行為の背景には、晴天、散歩、健康、平和と、どこまでも安らかなイメージが湧いてくる。童謡では「おててつないで野道を行けば(中略)晴れた御空に靴が鳴る」と跳ねるような楽しさで歌われ、「オズの魔法使い」ではドロシーが靴のかかとを三回鳴らしてカンザスの自宅に無事帰る。どちらも靴が音を立てる時は「お家に帰る」健やかなサインであった。本書のあとがきで、作者は2004年に脳腫瘍のため手術、翌年再発のため再手術とあり、二度の大病を経て、現在の日々があることを読者は知ってしまう。青空から散歩や健康が、乾いたペンキのようにめくれ上がり、はがれ落ち、まだらになった空の穴から、もっと静かな、献身的な青がにじみ出てくる。作者は靴を脱ぎ、そこに戻ってきた。真実の青空はほろ苦く、深い。〈拳骨の中は青空しぐれ去る〉〈空青し冬には冬のもの食べて〉『青空』(2007)所収。(土肥あき子)
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