February 221997
トンネルを出るたびに溪春浅し
八木林之助
どこの鉄道だろうか。トンネルを出るたびに、パッと視界は明るくなるが、その明るさのなかにある溪谷には雪が残っており、まだ春色は出そろってはいない。これでは、旅先の寒さが思いやられるというものだ。誰もが一度は体験したような懐しい光景。それをスナップ写真的にではなく、動きのあるムービー的にとらえたところが、作者の腕のよさである。こんな句を読むと、どこか遠くへ行ってみたくなりませんか。「溪」は「たに」。(清水哲男)
May 291997
病院に母を置きざり夕若葉
八木林之助
母親を入院させたのか、あるいは見舞いにいったのか。病院を出てくると、若葉が夕日に映えて実に美しい。ホッとさせられる。だが、その気持ちの下から、母を「置きざり」にしてきて、なぜ俺はホッとしたりできるのかという自責の念もわいてくる。肉親の入院は、人生での大きな出来事だ。最悪の事態までを考えたりと、ストレスはたまるばかり……。だから、不確かでも一応のメドが立つと、病院を離れた瞬間に、開放的な気分になるのが人情というものだろう。この句を、センチメンタルに重く読みすぎるのは間違いだ。むしろ読者は「夕若葉」の美しさのほうをこそ、読み取るべきではあるまいか。「夕若葉」を詠んだ句は、意外に少ない。(清水哲男)
September 282000
もの提げて手が抜けさうよ蚯蚓鳴く
八木林之助
重い荷物を両手に提げて、数歩歩いては立ち止まる。既に秋の日はとっぷりと暮れており、すれ違う人とてない田舎道。ただ聞こえるのはジーッジーッと鳴く「蚯蚓(みみず)」の声だけで、情けないこと甚だしい。加えて、たぶん作者には、荷物を道端に置けない事情があるのだ。道がぬかるんでいるのか、あるいは絶対に汚してはならない進物の類か。だから、「手が抜けさう」でも我慢している。「蚯蚓」の鳴き声すらもが、なんだか自分を嘲笑するかのように聞こえてくる。で、思わずも「手が抜けさうよ」と弱気になり、しかし、くじけてはならじと、またよろよろと歩き出す……。眼目は「手が抜けさうよ」の「よ」だ。「よ」は口語的な訴えかけだが、掲句では訴えかける相手はいない。強いて言えば自分自身に向けられており、少しだけどこにいるとも知れぬ「蚯蚓」にも向けられている。両者ともに、訴えたってしようがない対象だ。この「よ」が利いて、句に可笑しみが出た。季語の「蚯蚓鳴く」であるが、もとより「蚯蚓」が鳴くわけはない。秋の夜、ジーッと重い声で鳴いているのは「螻蛄(けら)」である。いわゆる「おけら」だ。それを昔の人は(いや、今でも)「蚯蚓」の鳴き声だと信じていた。そんなことは、どっちだっていいっ。何とかしてくれえっと、作者はまだふらつきながら歩いている。当分、この句は終わらない。『合本歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)
July 272003
土用鰻劉寒吉の歌と待つ
八木林之助
今日は土用丑の日。夏バテ防止に鰻(うなぎ)を食べる風習かある。いつもの夏なら鰻屋さん大繁盛の日だが、梅雨寒の東京あたりではどうだろうか。作者は、しかるべき店で注文し、料理が運ばれてくるのを待っている。箸袋にか、あるいは店内に飾られている色紙にか、劉寒吉(りゅう・かんきち)の歌が書かれているのだから、店のある場所は九州の鰻の名産地・柳川だろう。天然鰻で昔から有名なのは、利根川産の「下総(しもうさ)くだり」、手賀沼産の「沼くだり」、そして柳川産の「あお」と言われる。もっとも、最近はどこへ行っても、まず天然鰻にお目にかかることはないけれど……。現在の柳川では年間50万匹以上の鰻が食べられるため、河畔に鰻の供養碑が建てられており、その碑に刻まれているのが九州の著名作家・劉寒吉直筆の次の歌だ。「筑後路の旅を思えば水の里や柳川うなぎのことに恋しき」。供養の意味などどこにもない歌だし、なぜ供養のための碑に刻まれたのかは不可解だけれど、とりあえず他に適当な柳川の鰻を詠んだ歌がなかったので、これにしちゃったのだろう。むしろ句にある店のように、鰻の宣伝に使うほうが正しい使い方だ(笑)。こんな歌を読んで待っていると、どんなに美味い料理が出てくるのかと期待に胸が弾む。ちゃんとした店になればなるほど、出てくるまでに時間がかかるので、なおさらに歌の食欲助長効果は抜群と言わざるを得ない。ちょっとわくわくするような気分で待っている感じが、よく出ている。今日も柳川のどこかの店では、こんなふうにして待つ人がいるのだろう。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)
February 012013
枯園に音なきときぞ猫きたる
八木林之助
戦後「鶴」に投句。石田波郷に師事。鶴賞を受賞し波郷門の重鎮となった。1921年生まれで1993年没。この句の当時21歳。寒雷集二句欄に能村登四郎、森澄雄らと並んで出ている。同じ号の楸邨の句に「幾人(いくたり)をこの火鉢より送りけむ」がある。音をさせて出てくる猫ではなく、音が消えたときに出てくる猫。繊細な感覚が生かされている。「ぞ」を用いた句も最近とんと見ない。いつか使ってみたい。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)
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