February 241997
ごうごうと鳴る産み月のかざぐるま
鎌倉佐弓
しょせん、男にはわからない句かもしれない。が、子供の玩具である風車が轟いて聞こえるという妊婦のありようには、出産への凛とした気構えが感じられる。やがて訪れる事態は甘いものではない。人生の一大事なのだ。作者には他に「手がさむし君のあばらに手をやれば」「受胎して象のあくびを眩しみぬ」などがある。いずれの句にも、どこかで風車がまわっている。『天窓から』所収。(清水哲男)
June 181999
鮎は影と走りて若きことやめず
鎌倉佐弓
東京地方での鮎釣りの解禁日は秋川流域が先週の日曜日、多摩川も間もなくだ。好きな人は解禁日を待ち兼ねて、夜も眠れないほどに興奮するというから凄い。子供の遠足前夜以上。私は素早い動きの魚は苦手なので、一度も鮎を目掛けて釣ったことはない。どろーんとした鮒釣りが、子供の頃から性にあっていた。それはともかく、掲句は鮎の動きをとてもよくとらえていて素敵だ。たしかに「影」と一緒に走っている。しかも単なる写生にとどまらず、「若きことやめず」と素早く追い討ちをかけたところが見事。若さは、影にも現われる。人間でも、化粧もできない影にこそ現われる。しかも、鮎は「年魚」とも言われるように、その一生は短い。だからこそ、今の若さが鮮やかなのだ。句には、佐藤紘彰の英訳がある。俳誌「吟遊」(代表・夏石番矢)の第二号に載っている。すなわち"A sweetfish runs with its shadow ever to be young"と。以下、私見。……間違いではないんですけどねエ、なんだかちょっと違うんですよねエ。第一に、鮎が露骨に単数なのが困る。"sweetfish"が"carp"のように単複同一表記なのは承知しているが、ここはやっぱり"Sweetfish"と出て、一瞬単複いずれかと読者を迷わせたほうがベターなのではないかしらん。『潤』(1984)所収。(清水哲男)
January 092012
猿が岩を叩いてやまず「春よ来い」
鎌倉佐弓
この「春よ来い」には、狂気に通ずる不気味な願いを感じる。童謡の「あるきはじめた みいちゃん」などのように、ほのぼのとした感じはない。猿が岩を叩いている。いっこうに叩くのをやめる様子はない。見ていると、なにかただならぬ猿の仕草に、作者はだんだん釣り込まれていく。いったい、この猿は何を思って、そんなにも執拗に叩きつづけているのだろう。単純に空腹だからなのか、どこか身体が不調なのか、それとも……。むろん猿は何も言わないから、作者は推測するしかない。わからないまま、作者はあてずっぽうに「春よ来い」とつぶやいてみた。と、この言葉が眼前の猿の行為と結びついたとき、そこに立ち現れたリアリティ感にびっくりしている。なるほど、猿は春の早い到来を祈って、懸命に岩を叩きつづけているのかと納得のいく気がしたのだった。むろんこれらは作者の憶測であり想像でしかないけれど、こういうことは日常的な意識処理としてはよく起きることだ。そして、この猿の願いに導かれるようにやってくる春は、決して牧歌的なそれではなく、禍々しい季節なのではあるまいか。一読者の私は、そんな想像までしてしまった。『海はラララ』(2011)所収。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|