March 021997
手をかけて人の顔見て梅の花
小林一茶
若い男が高い柵の上にのぼって、連れの女のために梅の枝を折ろうとしている。そんな浮世絵を見たことがある。この句も、同じように微苦笑を誘われる情景だ。が、一茶の研究者のなかには深読みをする人もいる。一茶には少し年上の花嬌という女弟子がいてひそかに思慕しつづけた美女であった。彼女は未亡人だったけれど、名家の嫁であり子供もある身だ。どうすることもできない。片思い。すなわち、世の中には手折ってはならぬ花があるということか……。そうした煩悶が、この句に託されているというのである。どんなものでしょうか。(清水哲男)
March 011997
ゆく雲の遠きはひかり卒業歌
古賀まり子
三月一日。全国的に卒業式を行なう高校が多い。私の時代もそうだった。あの頃(1956)は、地元選出の議員なんぞがやってきて、長い祝辞を述べたものだ。なんのことはない。近未来の有権者に向けての選挙運動である。あくびをかみ殺して聞いていると、勇気ある奴が大声で「あーあ」と一言叫んだ。壇上の人は一瞬白い顔になり、周囲の教師は青い顔になったが、なんとかセレモニーは終了した。高校の卒業式で覚えているのは、結局、彼の「あーあ」だけである。この句のように、心理的にもせよ、清らかな思い出はない。(清水哲男)
February 281997
上京や春は傷みしミルク膜
あざ蓉子
春である。「上京」という言葉を聞くだけで胸が疼く。多くの地方の少年少女が、今年もまた故郷を離れて行くことであろう。東京へ東京へ……。かつて谷川雁に「東京へ行くな」という名詩あり、寺山修司には『家出のすすめ』があった。古くは尾崎士郎の『人生劇場』、近くは五木寛之の『青春の門』。評者また急に読みたくなり『青春の門・自立編』を買ってしまった。この本の主人公は筑豊出身。この句の作者また同じ九州の熊本・玉名である。本来結びつかない上京とミルクの膜が、かくも見事に結びついている青春の不思議さよ。『ミロの鳥』所収。(井川博年)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|