1997ソスN3ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0331997

 裏店やたんすの上の雛祭り

                           高井几菫

店(うらだな)の「店」は家屋の意味。落語などでお馴染みの裏通りの小さな住居である。段飾りなど飾るスペースもなく、経済的にもそんな余裕はない。したがって、小さな一対の雛がたんすの上に置かれているだけの、質素な雛祭りだ。でも、作者は「これでいいではないか、立派なものだ」と、貧しい庶民の親心を称揚している。現代であれば、さしずめ「テレビの上の雛祭り」といったところだ。すなわち、かつての我が家の雛祭り。学習雑誌の付録を組み立てては、毎年飾っていた。作者の几菫(きとう)は十八世紀の京の人。蕪村門。(清水哲男)


March 0231997

 手をかけて人の顔見て梅の花

                           小林一茶

い男が高い柵の上にのぼって、連れの女のために梅の枝を折ろうとしている。そんな浮世絵を見たことがある。この句も、同じように微苦笑を誘われる情景だ。が、一茶の研究者のなかには深読みをする人もいる。一茶には少し年上の花嬌という女弟子がいてひそかに思慕しつづけた美女であった。彼女は未亡人だったけれど、名家の嫁であり子供もある身だ。どうすることもできない。片思い。すなわち、世の中には手折ってはならぬ花があるということか……。そうした煩悶が、この句に託されているというのである。どんなものでしょうか。(清水哲男)


March 0131997

 ゆく雲の遠きはひかり卒業歌

                           古賀まり子

月一日。全国的に卒業式を行なう高校が多い。私の時代もそうだった。あの頃(1956)は、地元選出の議員なんぞがやってきて、長い祝辞を述べたものだ。なんのことはない。近未来の有権者に向けての選挙運動である。あくびをかみ殺して聞いていると、勇気ある奴が大声で「あーあ」と一言叫んだ。壇上の人は一瞬白い顔になり、周囲の教師は青い顔になったが、なんとかセレモニーは終了した。高校の卒業式で覚えているのは、結局、彼の「あーあ」だけである。この句のように、心理的にもせよ、清らかな思い出はない。(清水哲男)




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