1997ソスN3ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1531997

 また春が来たことは来た鰐の顎

                           池田澄子

わずも、笑いがこみ上げてきた。鰐が長い顎に手をあてて(あてられっこないけれど)、春の再来に戸惑っている図。「何の心構えもできてないしなア……」。などと、私は漫画的に読んだが、他にもいろいろと解釈は可能だろう。というよりも、こういう句は、あまり真剣に考えないほうがよい。なんとなく可笑しい。それで十分だ。たまには、深刻度ゼロの句も精神のクリーニングに役に立つ。ただし、誰にでもつくれる句でないことだけは、押さえておく必要があるだろう。作者生来の資質全開句なのだから。「船団」(第32号・1997)所載。(清水哲男)


March 1431997

 春光へすべり落ちたる領収書

                           岡田史乃

スにでも乗ろうとしたときだろうか。財布から小銭を取り出そうとして、中の領収書がひらひらと滑り落ちてしまった。他人から見ればほほえましい光景だが、領収書というものは、当人にとってはけっこう生々しかったりする。それが明るい春の日差しのなかに舞うということになると、生々しさが一瞬気恥ずかしさに転化する。束の間の微妙な心の揺れを描いていて、味わい深い句だ。作者には、この種の繊細な神経に触発された作品が多い。「繃帯の指を離れよしゃぼん玉」「ぼたん雪机の上のオブラート」など。『浮いてこい』所収。(清水哲男)


March 1331997

 芹レタスセロリパセリよ血を淨めよ

                           山本左門

然から遠ざかるほど、人は病気に近づく。京都浄瑠璃寺の住職がラジオで話していた。作者の焦燥感も、そこに根拠を持っている。歴史上、自然が昨今ほどに人間の問題となったことはないのである。その意味で、まことに現代的な俳句だ。この句は、小川双々子が主宰する「地表」(一宮市)で、今年度の地表賞を受賞した作品のひとつ。双々子は、左門句が現在の俳壇に蔓延する季語季題趣味と無縁であることを評価し、さらに言う。「季語は業のようなものだから、その純正なはたらき(詩としてのはたらき)を駆使するなど容易ではない。大方は<俳>などというはたらきを計るから、自らの居場所さえ解らなくなる為態となる」。(清水哲男)




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